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階段の幽霊

マンションは11階建てで、事務所は7階にある。
701号室。
最近は健康のためにエレベーターを使わずに7階まで階段で昇っている。
仕事はほとんどデスクワークで、事務所と家の往復くらいしか体を動かさないので少しは運動になるだろうと思ってそうしている。
やらなければいけない仕事が増えていって、朝早く出て仕事をせざるを得なくなった。まあ、誰もいない早朝の方が仕事ははかどるので早出残業自体はそう苦痛には思っていない。
とにかくもう所長と同じ空間にいることが苦痛なので、一人で早出残業したり休日に出てきたりして所長がいない時間に仕事をしている方がずっと気が楽なのだ。
最近はだいたい始発で通勤していて、午前5時少し前にはこのマンションに着く。

早朝のマンションには人の気配がない。
自分の足音だけが妙に響いた。
ひと気のない階段を昇っていくと、ちょっと怖いような気持がしてきた。
この世界に自分一人しかいないような気持ち。
この世界に自分一人しかいないのに、誰かに会ってしまうような気がした。

近藤歯科医院の由美子先生がこの階段で幽霊を見た、と言っていたのを思い出した。
あそこに通院していたのは何年前だったろうか。近藤歯科医院はこのマンションの1階にある。
歯科医は二人、初老の男性と、その娘で30代の女性。
歯科医院のスタッフからは父親の方は単に「先生」と呼ばれていて、娘の方は「由美子先生」と呼ばれていた。
「先生」と「由美子先生」の自宅はこのマンションの6階にあった。601号室。私の働いている事務所が701号室なので、真下の部屋だ。あまり個人的な事は知らないのだが父娘二人で住んでいるらしかった。
そんなこともあって、時々マンションのエントランスで由美子先生に会って話をすることもあった。「半年に一回は歯の掃除に来てくださいね」なんて言われたがもうずいぶん行っていない。
由美子先生は本人曰く「見える」人らしく、この階段で幽霊を見たという話を聞かされた。なんでも深夜に何か書類を確かめる必要があって6階の自宅から1階の歯科医院まで階段を降りた時に(由美子先生も健康のためにエレベーターを使わずに階段を上り下りしているということだった)、階段の踊り場で抱き合っている若い男女の横を通り過ぎたという。おかしいでしょそんな時間にそんなところで、うちはオートロックだから外から入ってくるはずも無いし・・・、その時に、あ、これはアレだ、ってわかったの、と由美子先生は言った。書類の確認に思ったより時間がかかって1時間近く歯科医院にいて、また6階まで階段を昇っていくと、さっきと同じところでまだその二人は抱き合っていたという。とにかく何も気づいていないふりをして通り過ぎたけど、ほんとにぞっとしたわ、と言うので、それは別に幽霊じゃなくて普通にこのマンションに住んでる人なんじゃないですか、と言ってみたが、いや、絶対あれは生きている人間じゃなかった、私わかるのよ、とゆずらない。なにしろ「見える」と本人が思っているのだからしょうがない。まあ、このマンションには11階から飛び降り自殺した人がいたというし、その幽霊が・・・いやそれはまた別の話だったかな、男女二人で飛び降りというのはおかしいような気もする。でも確か11階の廊下から飛び降りた人がいたという話も聞いたことがあるような気がする。このマンションの階段は内階段だが、各階の廊下は外廊下だから手すりを乗り越えれば飛び降りることは出来る。私は幽霊なんか信じていないが、今朝の階段はなにか変な感じがする。
会ってはいけないものに会ってしまうような気がする。

妙にびくびくした気持ちのまま階段を昇っていった。
5階まで昇った時、上の方で気配がした。髪の毛が逆立つようだった。しかし足を止めることができなかった。怖い怖い怖いと思いながら一歩一歩階段を上がっていった。
6階のエレベーターホールに人影があった。由美子先生だった。なんだ、由美子先生か、とちょっと拍子抜けしたような気持で階段を昇り、挨拶をしようとした。ずいぶん早いですね、とかなんとか言おうとした。その時、由美子先生も私に気が付いた。由美子先生が私を見た。そして、目を見開き、恐怖の叫び声をあげるように口を開いた。しかし声は出なかった。
恐ろしかった。由美子先生の顔から目をそらし、何も見なかったような風で階段を昇り続けた。
何だあの表情は。
あんな恐ろしい表情は見たことがない。
7階まで上がったが、今日はどうしても事務所に入る気にならなかった。そのまま階段を昇り続けた。
ここの事務所に長年勤めているが、7階より上に昇るのは初めてだった。9階まで昇ると、さすがに足が疲れて息が切れた。9階と10階の間の踊り場で少し休んだ。その踊り場で息を整えていると、今までに何度もこの踊り場で息を整えたことがあるような気がした。そんなはずはない。7階より上に昇るのは今日が初めてだ。事務所の前に来たのにどうしても事務所に入る気にならなかったのも今日が初めてだ。初めてだけれどもこれを何度も何度も繰り返しているような気がした。
早朝にこのマンションに着き、階段を昇り、そして7階の事務所の前まで来たがどうしても事務所に入る気にならず、初めて7階よりも上に昇り、息が切れて9階と10階の間の踊り場で立ち止まって息を整える。少しして息が整うとまた昇り始め、最上階の11階まで昇ると、11階の廊下の手すりを乗り越える。外廊下は表側の道路ではなくマンションの裏手の駐車場に面しているので、廊下の手すりを乗り越えて飛び降りると駐車場に落ちる。
それを何度も何度も繰り返している。
何故そんなことをしたのかわからない。たしかに仕事は忙しく、事務所の所長との関係は険悪で本当に嫌気がさしていたが、自分が精神的にそこまで追い詰められていたようには思えない。じっさいそんなに思い詰めていたわけではないのだ。ただ何故かその日だけはどうしても事務所に入る気にならなかった。だから初めて7階よりも上に昇った。そのまま最上階の11階まで昇るのは自然なことだった。そして11階の廊下の手すりに足をかけ、何のためらいもなく飛び降りたのだ。それを何度も繰り返している。
どのくらい繰り返しているのだろう。
今日まで、いや何度繰り返してもそれは今日なのだが、なんで今まで何度も何度も繰り返していることに気付かなかったのだろう。なんで今日、いやいつだって今日なのだが、なんで今そのことに気が付いたのだろう。
そうだ、由美子先生だ。由美子先生に出くわしたのは初めてだった。
あの顔。恐怖に見開かれた目。今にも叫び声が出そうな口。あんな恐ろしい顔は見たことがない。何よりも恐ろしいのは、あの恐ろしい顔で見られているのが自分だ、ということだった。
自分があんな顔で見られるような恐ろしいものになってしまったのだ、ということだった。

少し息が落ち着いてきたのでまた階段を昇り始めた。
10階、11階。
そして11階の廊下の手すりに足をかけると、何のためらいもなく飛び降りた。

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