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「ラベル」がなくても生きていける、その希望へ向けて

久々に「これは何かを言わなくては…」と駆り立てられる本があったので感想を徒然します。

きっかけ

以前、同じ著者の『中国化する日本 増補版』をどこかのレビューで見かけて、面白そうだと思って読んで実際面白かったので(高校世界史の知識を踏まえて「認識が塗り替わる」様をリアルタイムで味わえる…ってなかなか無い読書体験です)気になる著者の一人でした。

そんな折、私の大学時代の先輩が冒頭の『知性は死なない』をFacebookで紹介されており、そこから著者(與那覇さん)が病を患っていたこと(そして明白に知人の知人だったこと)を知り、種々の偶然が重なっていることを知りました。(ちなみに、その先輩本人も面白い方だったので納得感が異様でした…w)

こうなるともう買うしか無い…ということでAmazonでポチり、手元に本がやってきました。

この文のスタンス

この『知性は死なない 平成の鬱をこえて』(以下本書)は、「平成という世の統括・提言」「なぜ全世界でリベラル・インテリが敗北しているのか」について論じるという性格もあり、そちらの面でも非常に面白く読めます。

ただ、本書の主眼は「『能力』『言語/身体』概念の捉え直し」にあると思いますし、私はその点により深く感銘を受けたので、自分の経験と照らし合わせて簡単に書いてみることにしました。

そういうわけで、いわゆる「自分語り」を嫌う向きにはオススメできません。本書では著者自身の来歴・経験を書く際、可能な限り固有名詞を排除して記述していたので(学者としての著者の来歴を素直に記載すると、とかく妙な誤解を受けがちな固有名詞が並ぶのでこの措置は正しかったと思います)、私もそれに敬意を表して倣います。

能力を失う恐怖——能力への誤解

一番心に刺さったあたりは下記です。

精神的に追い詰められていた時期に、まず徐々に能力の低下が起こり、それでもどうにか仕事をつづけようともがくうちに、そもそも文章を読み書きできなくなるところまで症状が進み、「こんな自分ではもうなんの仕事もできない」と思わざるをえなくなって、ついに生きる意志が消滅したという印象です。(『知性は死なない 平成の鬱をこえて』p.58 L.15-18)

確かに、一定程度精神的に追い詰められると知的能力は減退します。これは私自身も(病と診断されたことはないにせよ)経験したことです。

詳細・経緯は省略しますが、「まとまった量の文章が受けつけず、休日に本が全く読めない(通常時は本代に月1万、最も多いときは2~3万円使っているのですが、その時期に入った時は全く買わなくなります)」「思考がまとまらず、明瞭に話せない」時期は私にも時折ありましたし、現在も定期的にあらわれます。

私自身、「安定出力」が最も苦手で、思春期以降は「すごく調子がいい時」と「すごくダメな時」を行ったり来たりする生活をずっと繰り返しています。少しでも波を抑えるよう試行錯誤はしていて、以前よりは安定してきているとは思うのですが、今も波がある状態です。

(過去にはその自分の特性に嘘をついて無病欠で週6(!)勤務をしていたことがあるのですが、今は割り切って、ダメな時は遅刻と半休を駆使し、定期的に長期休暇を入れる、可能な限り有給を使い切るスタイルで生きています)

「知的能力が低減した状態が怖い」というのは読み書き/思考能力(言語能力)を自分の軸だと一度でも考えたことがある人間であれば、多かれ少なかれ経験しているのではないかと思います。

でも、それは違う、と著者は指摘します。

能力・属性を失っても生きていける

属性や能力がすべてではないということ。それをうしなってなお、のこる人との関係という概念があり、自分がいまだそれにアクセスできていなかったとしても、やがてつながる可能性はだれにも否定できないということ。(『知性は死なない 平成の鬱をこえて』p.246 L.4-6)

正直に言うと、今の会社には明白に「能力」を買われて入社し(※入社面接でSPI・筆記試験・ケーススタディ・口頭試問のフルコースを通りました)、その「属性」で比較的快適に暮らしている人間なので「能力を失ってもいい」と言明する自信は現時点では、私にはありません。

ただ、それらを失ってもつきあってくれるであろう友人・家族はたしかにいるという認識が私を支えているので、その認識が最後の防波堤になりうる、ということについては私も明白に同意します。

(そして、私が危うい中でも病まずにいられた要因の一つは、その認識を抱えて生きていられたからだとも思います)

能力の違いを超えて生きる——難問への答え

少々長いですが、引用します。

将棋や囲碁のような完全実力のゲームや、スポーツ競技一般は、プレイヤーどうしの能力が均衡していないと、たのしめないばあいがあります。それにたいして、不慣れな人がまじっても「その人のチョンボをいかに防ぐか」までが込みで、あたらしいゲームになったのだと考えなおせるデザインになっているのが、このゲーム(※筆者注:「マスカレイド」という仮面舞踏会モチーフのボードゲーム)の魅力です。
そしてそれはまさに、はたらくということ、よりひろくいって社会的に生きるということのモデルでもあります。
「全員が有能」な会社や社会というのは、思考実験としてはありえますが、前者はまずめったに存在せず、後者は存在したためしがありません。大学の学者がいかに「反知性主義」をなげこうとも、世論の流れを変えられないように、人びとのあいだに「能力の差」はつねにあるのです。
その差異が破局につながらず、むしろたがいに心地よさを共有できるような空間をデザインする知恵こそが、いまもとめられています。(『知性は死なない 平成の鬱をこえて』p.251 L.12-p.252 L.4)

上記の主題は美しいです。

おそらく美しさゆえに「具体的な提言が無いではないか!」式の感想もいくつか実在するでしょうが、この「具体的な提言」を作るのは彼ではなく、企業で働く私、私達の仕事なのだろうと思います。

私の体感としても、種々の分断・タコツボ化は進んでおり、ただちに遍く(ユニバーサルに、全世界的に)上記のような空間をデザインできるか?と問われると首を傾げざるをえません。

でも、各個人が見える範囲で、「協力することがよいことだ」と感じられる場を作る努力はできるはずで、それらの集積は各自の持ち場でできるのではないかとも思います。

私自身は明白にコミュ障なので、顔がわかる半径5メートルくらいしか働きかけられません。過去に公開で文章も書いていましたが、他者評価を内在化しすぎて心身のバランスを崩しがちだったので、最終的には「公開で書く」ことから離れる判断をしました。(※このあたりのメカニズムについても本書で記載があります。興味がある方はぜひ!)

それでもようやく、「自身の行動が誰かの助けになれている」という実感も得られるようになったので、少しずつではありますが、外に向けて表明・シェアする練習も始めることにしました。

それがいつ実を結ぶかはわかりませんが、振り返りながらも少しずつ進めることで大きな成果になると理解できるようになったので(これは現職で得られた一番いい知見でした。半年前や1年前の自分自身やチームを振り返ると大体「遠くに来たな…」という感想が出ます)、地道に生きていく予定です。

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