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回りくどい椅子

同棲を始めてから別れるカップルなんて、伝説上の存在だと思ってた。
百歩譲ってそういう末路を辿った恋人たちがいたとして、自分だけはそうならないと思ってた。そうならない相手だと思ってた。

一緒に暮らし始めてから相手の嫌なところばかり目につくようになって、互いに一人暮らししてたときよりも話す回数が減って……。
そのまま二人は伝説の存在となった。
もう数日もすれば引っ越し業者が来て、一生付き合ってくには到底相容れなかった相手の家具を一式、どこか知らない場所へ運んでいく。

読みかけの本を伏せて置くことも、シャンプーの詰め替えを面倒くさがってボトルに入れずに使うところも、歯ブラシの水をしっかり切らないところも、カミソリの刃を剥き出しにしておくところも、全てが嫌だった。
荷造りをしている彼の背中が、付き合っているときよりもみっともなく見えた。

「あ、そうだ。なんか一つ家具もらっていい? 餞別ってやつ」

こういう回りくどいところも腹立たしかった。
目当ての物はひとつしかないくせに。
そのイスでしょ。別にいいよ、もう要らないし。

「よくわかったね、この椅子、なんか好きなんだよな」

いつどこで買ったのかは忘れたが、値段は確か5,800円くらいだった、木製のダイニングチェア。値段相応に丈夫でオシャレだったが、ダイニングなんてない安アパートにそれは不釣り合いだった。
ずっと部屋の窓辺に置かれていて、彼が本を読むときによく座っていた。
だからもう、要らない。

数日後、広々とした自分だけの部屋を見て、大きな安堵と僅かな寂しさを覚えた。
どうせしばらく住んでから引き払う部屋だ。少しくらい我慢できる。
ただ、あの椅子が置かれていた窓辺には、何か別の家具を置いておこう。
あそこを見ると、何故か安堵と寂しさの割合が逆転してしまうから。

別れる前より散らかった部屋で目を覚ます。
読みかけの雑誌はその辺に転がっていて、もう二日も風呂に入ってない。
一番最後に歯磨いたのいつだったっけ。
認めたくはないが、別れの傷は思った以上に深かったようだ。
枕元に投げ出されたスマートフォンが鳴る、母親からだ。
今すぐニュースを観ろと喚く声が、すぐにぷつりと途切れた。
画面には充電切れのマーク。
コンビニのビニール袋の下に隠れていたリモコンを手に取り、テレビをつける。

男性がマンションの屋上から飛び降り自殺をしたニュースが流れていた。
名前も年齢も、元恋人のものと同じだった。
慌ててスマートフォンに充電ケーブルを挿す。
数秒の間を置き、再びホーム画面を映した端末でインターネットを開く。
震える指で「男性 飛び降り自殺」と検索すると、ニュースの記事が表示された。

男性はマンションの屋上に運び込んだ椅子を使い、柵を乗り越えて飛び降りたと、そう書かれていた。

屋上へ椅子を持っていく元恋人の姿を想像しながら、やっぱり回りくどいなと思った。
それとも、死に際に蹴り飛ばすことすらできないほど、あの椅子に愛着があったのだろうか。
そこまで気に入ってもらえたなら、あの椅子も本望だろう。

シャワーを浴びたら久しぶりに外へ出て、家具屋にでも行こう。
椅子を買ってきて、どっか高いところに行こう。
着いた場所で椅子の上に乗って、空を見上げてみよう。

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