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【ネタバレ注意】映画「CODA あいのうた」感想〜音のない世界の住民との距離感〜

本日の金曜ロードショーにて、2022年に日本で公開されたアメリカ映画「CODA あいのうた」が放送されるそうです。
1年前にこの映画を映画館で2回鑑賞し、ものすごく心を撃たれました。
映画を観て語りたいことが溢れ、当時個人でやっていたものの全然放置していおたブログを久々に更新したほどです。
というわけで、当時のブログ記事に加筆修正した上で、こちらに再投稿したいと思います。

映画の概要:娘以外の3人が聾唖の家族。娘は音楽の夢を持ってしまう

タイトルの「CODA(コーダ)」は、「Children of Deaf Adults=“耳の聴こえない両親に育てられた子ども”」のこと。

引用元:「コーダ あいのうた : 作品情報 - 映画.com」

父、母、兄、妹の4人家族が中心で映画は進みます。
主人公は、妹のルビー。
ルビー以外は、全員が聾唖(聴覚障がい者)です。
聴覚障がい者にも色々な段階があるらしく、
私が小学生の頃クラスメイトにいた聴覚障がいの友達は「ぼんやり聴こえる」とのことでしたが、
この家族については、後ろで怒鳴っても気づかないレベルに「何も聴こえない」ようです。
父・兄・ルビーの3人で毎朝午前3時から漁船に乗って漁に出るのが家族の仕事。
漁船が受信した無線を取るのも、海上保安官からの注意に応じるのも、港で卸業者とのやり取りや価格交渉をおこなうのも、全部健聴者であるルビーの仕事。
兄は、妹に依存せざるを得ない現状を不満に思っており、ヘソを曲げたり健聴者と同じように振る舞おうとしてうまく行かずにトラブルになったり、常にイラついています。
父や母はルビーに頼りきり。
ルビーに医者の付き添いもさせ、「インキンタムシだから薬を塗って、しばらく夫婦のセックスは控えてください」みたいな医者からのの指示もなんの抵抗もなく通訳させます。
常に家族の面倒と漁、そして学生生活を往復して疲れているルビーですが、「これが私の人生なんだ」と半ば納得・諦めのような感情を持っているようでした。

そんなある日、気になる男の子と同じ選択クラスに入りたいがために、合唱クラスを選択したルビー。
それをキッカケに、担当教師から音楽の才能を見出され、自身も音楽の魅力に取り憑かれていきます。
教師から「音楽の大学へ進学すべきだ。学費も出るし、俺もサポートする」と口説かれ、その気になるルビーですが、
音楽がどんなものかわからない両親は彼女の夢を理解できないし、「残された私たちはどうするの」と、彼女の夢より現状維持を望んでしまいます。
兄はそんな状況に苛立ってばかり。

家族を憎んでしまい、衝突してしまうルビー。
一度ルビーが漁に出るのをボイコットして、兄と父のみで漁にでた時、運悪く海上保安官の取り締まりに遭い、健聴者なしで船に乗ることを固く禁じられ、更に家族にとってルビーは必要不可欠な存在になってしまいます。

ルビーは夢を諦めて家族とこれからも生活や仕事を共にすることを受け入れますが、合唱発表会にてルビーの歌に感動する観客を見た家族の感情に変化が生まれます。

・・・というお話。
ざっくりほぼ全部話してしまいました。

映画の特徴

この映画は、ストーリラインやタイトルだけ見ると、感動的で繊細な映画だと思われがちです。
しかし、それ以上に小ネタやノリが軽快で、大爆笑できる映画でもあるのです。
キャラが立っていて、親しみの湧く登場人物ばかり。
辛いシーンもありますが、悲壮感はあまりないので身構えずに観れることも特徴です。
この映画での大きな特徴だと思う点を2点紹介します。

映画の特徴①基本、下ネタが多い

壮大な感動映画のような印象を受けますが、あくまで軽いノリで映画は進んでいきます。
音が聴こえないからこそ自分たちの出す音にも無頓着な両親が、娘の隣の部屋ででかい音を出して愛し合ったり、
オナラをスカしっ屁にする発想がなく、でかい音を出してオナラをしたり、
ルビーの友達が、兄を気に入ったため手話でアプローチをしたがった際に、「ヘルペス持ち」という意味の手話を口説き手話として教えたり。
そんな、「あるある(?)」ネタがクスッと笑えます。

映画の特徴②聴覚障がい者の役は本当に聴覚障害者の俳優が演じる。故に物凄い

この映画の特徴ですが、聴覚障がい者の役は、全て聴覚障がい者の役者が演じています。
故に、手話がバリバリネイティブで、迷いがない。
なので、全然手話がわからない私たちにもスッと入ってきます。
これを見ると、日本の映画やドラマで見る手話ってたどたどしいなあ・・・と感じます。ほぼ健聴者が演じている場合が多いですから仕方ないですが・・・
この映画で、「手話に感情を載せる」という技を初めて見ました。
手話越しに溢れんばかりの感情が伝わってくるのです。

この映画の印象深いシーン

妹に手話で「怒鳴る」兄の演技が物凄い(この映画で一番凄かった)

家族のために夢を諦めてしまうルビーに、兄の怒りは爆発します。
兄は、家族全員が妹に頼り切りな状況に対して「このままじゃいけない」と分かっており、同時に、自分ではどうしようもない現状に絶望しています。
このままルビーが夢を妥協し、家族を助けることを優先してしまえば、今後更なる試練が訪れることも分かっています。それでも、兄自身ではどうしようもない。
そんなやりきれない兄の思いを、ルビーに対してぶつけるシーンがあります。
表情、身振り等を使って、全身で怒り・悲しみ・絶望・その他膨大な感情を表現していて、本当にすごかったです。
その間大きな音を出すわけでもなく、画面にはずっと静寂が流れているのですが、
映画を観ていて、自分に対して絶叫されているような衝撃がありました。
相手は手話で話しているのに、怒鳴られているような感覚。
手話で「怒鳴る」という新しい表現方法は初めてで、このシーンは一番印象に残りました。

合唱発表会を聴覚障がい者の視点で観るシーン。この瞬間、映画の主人公は娘→父親に代わる

娘の合唱発表会を家族で観覧するシーン。
最初の大勢の合唱シーンは、音が聴こえない家族の集中力は散々。
家族同士で手話で会話して、ボタンが外れかけて気になるだの、壇上から遠く唇も読めないから司会者が何を言っているのかわからないだの、ほぼ関心なしなのが伝わってきます。

しかし、次のシーンで一気に雰囲気が変わります。
ルビーとボーイフレンドのみでのデュエット曲目が始まった瞬間、壇上では歌声が響いているはずなのに、いきなり映画全体が無音になります。
そして、父親の視点になります。
聴覚障がい者の見る世界っていうのは、我々は映画を見る中で十分想像できていたはずですが、
壇上で歌っているはずなのに静寂が流れているというシーンで、思った以上に聴覚障がいのある人にとっての歌というものを思い知らされます。
口がぱくぱく動いているだけ。何も聴こえない。そりゃ、娘が音楽の夢を持っても理解するのは難しいよなあという感じでした。

集中できないが故に、父親の目は観客に向かいます。
うっとりと聞き惚れる客、思わず涙を流す客、スタンディングオベーションで感動を示す客・・・。娘の歌は聴こえない。でも、娘の歌声が人の心を動かしていることは、ハッキリと感じることができたのです。

このシーンから、ほぼルビー一人の視点で進行していた映画に、父親の視点が加わります。
個人的な考察ですが、このシーンから主人公は父親になったのではないかと思います。

発表会後家に帰り、父親は娘に「俺のために歌ってくれ」とお願いします。
普通に歌っても歌声は届かないため、娘の顔に触れて大声で歌ってもらうことで、振動や表情から懸命に歌を感じようとする父親。
(映画最初の方のシーンで、若干伏線はありました。父親は車で爆音のラップソングを流すのが好き。ズンズン体に響くと、少し音楽を感じられるみたい)
懸命な双方の歩み寄りで娘の歌を感じることができた父親は、娘の夢を認めようと決心します。

家族に歌を「聴かせる」シーン。

家族の協力のもと、音楽大学の歌唱試験で審査員の前で歌うところまで漕ぎ着けたルビー。
娘の歌の夢を理解することにした家族は、試験の会場に潜入して娘の歌を見守ることにします。
会場の隅にいる家族の姿を見たルビーは、歌いながら手話で歌詞を表現して、家族に歌を「聴かせる」ことに成功します。

私はこの映画を見るまで想像力が欠如しており、
予告編でルビーが手話で歌詞を表現しているシーンを見てこう思っていました。
「手話で歌詞表現してどうすんの?字幕で歌詞映したり、詩を書き起こして筆談するのとなにが違うの?」
それは、生まれつき聴覚障がいを持った人が「どのように世界を見ているのか」全く理解していなかったからだと思います。

音を聴いたことがない人が想像する音楽って、我々が思う以上に難しいものなのかもしれません。
まず、音に高低があることすらわからないかもしれない
一人一人が発する声に個性があることすらわからないかもしれない。
声や音に、強弱や抑揚があることすらわからないかもしれない。
手をパンパンと叩いた時の音と、太鼓をドンと叩いた時の音の違いすら想像できないかもしれない。

そんな人々が考える音楽って、想像以上に掴めない謎の存在かもしれません。
単に歌詞を手話で表現するだけであれば、
ニュース番組のバリアフリー放送で、キャスターの横でおこなわれる手話とあまり変わりはないと思います。
しかし、ルビーの歌に沿った手話の動きは、メロディラインや抑揚や感情を表現することに成功しているように見えました。
生まれてからずっと、家族のために手話を自分の言葉として扱ってきたからこそできた表現だと思います。
兄がルビーに感情をぶつけた時に「手話で怒鳴る」という表現を私は感じましたが、
このシーンのルビーからは「手話で歌う」という表現を感じました。

振り返れば、小学生のころ、何かの取り組み(学習発表会かな?)で、合唱曲を手話つきで歌うということをしたことがあります。
教科書だかプリントだかに書いてある手の絵を手本に「この歌詞の時はこの手の動き」みたいな感じに練習して、本番までになんとか形になってはいたのですが、
この映画を見た後だと本当に形だけだったなあと実感しました。(仮に聴覚障がいの人がその出し物を見たときにどう感じるのかはわかりませんが)
まず歌詞を解釈して、自分の言葉で手話に変換して、そして受け手に向けて伝えるための表現を考えて、という過程を踏まないと、
本当の意味で、聴覚障がい者の人に歌を「聴かせる」ことは不可能だと個人的に思います。
小学生の私たちがやっていたことっていうのは、所詮「歌を説明する」ことに過ぎなかったんじゃないかなーと。
まあ、本当に手話をネイティブレベルに使える人にしかできない技だと思うので、小学生の出し物にそれを求めるのはお門違いだとは思いますが。

とにかく、家族に歌を「聴かせる」ことに成功したルビー。
大学に合格し、家族とも本当の意味で理解しあうことができたハッピーエンドでした。
ルビーが独り立ちしたあとの家族がどうなったのかはよくわかりませんが、うまくいきそうな雰囲気になっていたので、おそらく大丈夫でしょう。

まとめ

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