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曾祖母のこと

私が生まれ育った家には、明治生まれの曾祖母と、大正生まれの祖父母、そして昭和生まれの両親と私たちこどもが一緒に暮らしていた。
100歳で亡くなったその曾祖母はとても我の強いおばあさんで、「気の合う友達は自分」と口癖のように言い、80代くらいの頃は食事と風呂以外の時間を敷地内の離れで暮らしていた。

庭先の離れなので親も私が曾祖母の離れに行くのを特に気に留めてもおらず、ひとりで遊びに行っては曾祖母から内緒でチョコレートをもらっていたくらい、かわいがってもらっていた。
曾祖母の部屋には、般若やおかめ、その他幼い私にはよくわからないたくさんのお面が長押に飾られていてちょっと怖いイメージがあったからか、私以外のきょうだいやいとこ達はその部屋にはほとんど足を踏み入れていなかったということもあるのだろう。
私が広告の裏に絵を描いたり簡単なパズルで遊ばせてもらったりしている近くで編み物をしたりしていて、たまに私の描いた絵の端に描いたもののお題みたいに文字を書いてくれていた事を、その当時は「大人だから」と思っていたが、今になって考えると明治生まれの女性がサラサラと字を書いているのは当時の大変教養のあるおばあさんだったんだろうと思う。
日本酒が好きで、タバコを吸う、ちょっと奔放で気が強いけれど、私にとってはそれが曾祖母だった。


小学生も高学年くらいになって、あまり曾祖母の部屋には行かなくなった頃、母屋で祖父母と父が昔の曾祖母の話をしてくれた。

夫である曽祖父を50代で亡くし、60代の頃は精神的に不安定になり灯油をかぶっては「死んでやる!」と叫んだりしていたらしい。
父が成人式のために下宿先から帰ってきたら、「老人ホームの見学に付き合え」と言われて、父は成人式に行くことなく1日何件かの施設を見て回った挙句「あんな自由のない生活なんてできるか!」と入居を諦めたなんて話もあった。
そうして何年かを過ごし、父が結婚をして、その配偶者である母がどこかで見たり教わったりして作る洋風の食事が曾祖母のお気に入りになり、少しずつ様子が安定してきたという。
両親の第一子である私の兄は、両親の結婚後3年たってから授かったのだが、その直前に曾祖母が「昔は三年子なきは家を去れって言われたもんだ」と言ったのを、母はずっと忘れられないと苦しそうに言っていた。
母は曾祖母のお気に入りだったから、きっと「今はそんなこと言われないいい時代になった」と言いたかったんじゃないかと私は思うのだけど、悩んでる母にはもちろんそんな風には受け取れなかったし、そもそもそんな事を口にすべきではないという時代でもなかったのだろう。
「兄と年子で私が生まれ、その後は自殺の真似事のようなおかしなことは一切しなくなった」と父から聞いて、家の大人たちが思う「我儘なばーさん」と私の見ている曾祖母が全然違うものなのだと知った。

実家が岡山にある曾祖母が神奈川にいるのは、「ばーさんがじーさん連れて実家を飛び出してきた」からだと聞かされていた。
庄屋的な実家の娘の曾祖母が、使用人的なお家の温厚な曾祖父を気に入り、親戚のいる北海道に出ていってしまったんだとか。
祖父母も父も、何度聞いても「大人しいじーさんだったから連れてっちゃったんだよ」と言う。しかも、「ばーさんは我儘だから冬の北海道に嫌気がさして神奈川に移り住んだ」と。
大人になってからよくよく聞いてみると、その冬に第一子の祖父が生まれているらしい。
つまり、『身分違いの恋』からの『身籠って駆け落ち』をして、それで『親族を頼ってなんとか出産』したが『乳児の生きる環境としての不安から気候の穏やかな土地への移住』、そして『大事な夫を亡くしての精神疾患』ではないか!
背景の有無や私の年齢による理解力の差によってこうも一つの事実が違って聞こえるとは。
世の中には、まだ自分の理解できない事がたくさんあるんだろう。年をとることはいいことばかりじゃないけれど、レベルアップを重ねて物事の両面が見える人になっていきたいと強く思った。


それにしても、そんな壮大な恋物語を「我儘なばーさん」で片付けられても平気な顔をしていたある意味強靭な曾祖母本人に、生前もっと話を聞いておけばよかったと思う。

…そんな話を最近私の夫やこどもにした。
私の家系の女性の積極性や強さをなんとなく感じている家族達は笑いながら聞いていたけど…身内の中でいちばん曾祖母に似てるの、私なのね。
曾祖母に会ったこともない夫は、「うん、たぶんそうだと思う」って笑うけど、絶対に早死しないでとお願いした。




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