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貸本漫画について

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貸本劇画誌「影」「街」の古本価格は? プレミアは?

貸本劇画誌「影」「街」の古本価格は? プレミアは?

劇画の生みの親とも言われる劇画誌の「影」(日の丸文庫)と「街」(セントラル文庫)。

ゴルゴ13のさいとう・たかをや佐藤まさあき、辰巳ヨシヒロ、松本正彦などを世に出した劇画誌です。

「影」は1956年(昭和31年)5月に大阪の出版社・日の丸文庫により創刊。

「街」は1957年(昭和32年)に名古屋で卸事業を営んでいた東海図書が出版事業を営むようになり、創刊しました。

60年以上前に創刊した両

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貸本漫画 白土三平「忍者武芸帳 影丸伝」(三洋社)の発行部数

貸本漫画 白土三平「忍者武芸帳 影丸伝」(三洋社)の発行部数

白土三平の代表作のひとつである「忍者武芸帳 影丸伝」は、長井勝一社長の三洋社から1959年(昭和34)に発売されました。全17巻です。

60年以上も昔の漫画ながら、今も読み継がれている傑作です。

小学館は1966年(昭和41)にゴールデンコミックスで「忍者武芸帳 影丸伝」を発売したのを皮切りに、愛蔵版、小学館文庫、小学館叢書等で何度も復刻をさせています。

直近ではコンビニ向けの廉価版コミック

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貸本漫画の部数と貸本屋の軒数について

貸本漫画の部数と貸本屋の軒数について

平成、令和の時代ではすっかり姿を消してしまった貸本店。

最盛期の昭和30年代には、日本全国に30,000店もあったと言われています。

新刊書店は最も多かった1990年代でも、最大で26,000店舗でした。

貸本店がいかに、当時の日本に根付いていたかがよくわかります。

ちなみに、コンビニは日本全国に約60,000店あり、最も多いセブンイレブンで21,000店、2位のファミリーマートで17,0

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劇画の第一人者・松本正彦の作品は令和のいま、どこで読めるのか?

劇画の第一人者・松本正彦の作品は令和のいま、どこで読めるのか?

日の丸文庫の「影」に創刊号から執筆し、「駒画」を提唱した松本正彦さん。

「影」は松本正彦さんと辰巳ヨシヒロさんの二人がいなければ、創刊していませんでした。

日の丸文庫が倒産してからは、辰巳ヨシヒロさん、「ゴルゴ13」のさいとう・たかをさんと一緒に大阪から国分寺に上京し、「劇画村」の一人となりました。

のちに「駒画」をやめ、辰巳ヨシヒロさんが立ち上げた「劇画工房」に仲間入りし、「劇画」を使い始

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「教養としてのマンガ」(橋下博)を読んだ感想~貸本漫画について

「教養としてのマンガ」(橋下博)を読んだ感想~貸本漫画について

昭和30年ごろの貸本漫画文化や、ビンテージコミックに興味があり「教養としてのマンガ」を読みました。

著者の橋本博さんは面白い経歴の方で、国連の事務総長を目指していたといいます。

国連ではたらくことが難しいが、橋本さんはその手前までたどり着きます。

熊本県庁勤務、退職して西ドイツの国際機関で職を得るのです。

ここで外国人との人事の争いに敗れて日本に戻ります。

元来、マンガ好きだったこともあ

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さいとう・たかをの貸本漫画の原稿料と発行部数・実売部数について

さいとう・たかをの貸本漫画の原稿料と発行部数・実売部数について

「ゴルゴ13」のさいとう・たかをさん、

デビューは貸本漫画です。

大阪の八興出版社・日の丸文庫から

「空気男爵」を 出しました。

19歳の時です。

理容師をしながら、

一年かけて描きあげたのです。

辰巳ヨシヒロさんや松本正彦さんらと

短編誌「影」に執筆し、

貸本漫画界のスターダムにのし上がります。

当時の原稿料について、

「オレのまんが道」(小学館)にあります。

Amazo

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「ドカベン」水島新司の日の丸文庫「影」デビュー作と現在※ご冥福をお祈りします※

「ドカベン」水島新司の日の丸文庫「影」デビュー作と現在※ご冥福をお祈りします※

「ドカベン」や「あぶさん」など、野球漫画で一時代をきずいた水島新司さん。

そのデビューについて、中野晴行さんの「手塚治虫と路地裏のマンガたち」に書かれています。

Amazonで「手塚治虫と路地裏のマンガたち」を見てみる

水島新司さんは1939(昭和14)年4月10日に、新潟で生まれました。

同い年の漫画家は、ちばてつやさん、中沢 啓治さん、森田 拳次さん、佐藤まさあきさん、矢口高雄さん、水

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さいとう・たかをが分業制のプロダクションを設立した理由

さいとう・たかをが分業制のプロダクションを設立した理由

劇画の第一人者で、「ゴルゴ13」の作者であるさいとう・たかをさん。

プロダクションを設立し、

漫画家で分業制をはじめた第一人者でもあります。

設立は昭和35年。

当時はまだ、漫画は漫画家がひとりで描くもの、

という常識がありました。

さいとう・たかをさんの劇画工房の仲間である、

辰巳ヨシヒロさんや松本正彦さん、佐藤まさあきさんもそうでした。

なぜ、プロダクションを設立して分業制にし

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貸本漫画が復刻できない理由

貸本漫画が復刻できない理由

日本全国に30,000店舗あり、庶民の生活にとけこんでいた貸本屋。

2020年、一般の書店は9,000店舗あります。

コンビニは60,000店です。

貸本屋の30,000店舗のすごさがわかりますね。

とくに、子どもたちは貸本マンガのとりこになっていました。

貸本屋の全盛期は昭和35年前後です。

いまから60年ぐらい前の話です。

当時の子どもたちであるいまのお爺さんたちも、

何十年ぶ

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赤本マンガの東京と大阪の違いについて

赤本マンガの東京と大阪の違いについて

藤子不二雄や赤塚不二夫、石ノ森章太郎にも影響をあたえた

手塚治虫の「新宝島」は、赤本マンガです。

赤本マンガは、東京と大阪で違いがありました。

竹内オサムの「戦後マンガ50年史」に記載があります。

1949年の「週刊朝日」に、取次業をやっている「沢田」という人が

登場し、赤本業界について語っています。

大阪の赤本マンガは、

「造本・内容ともに東京と比べると粗悪」

でした。

東京と

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「ゴルゴ13」さいとう・たかをの理容師時代から劇画貸本デビューまで

「ゴルゴ13」さいとう・たかをの理容師時代から劇画貸本デビューまで

1968年から「ビッグコミック」(小学館)で連載の「ゴルゴ13」。

作者のさいとう・たかをさんは、

漫画家になる前は理容師をしていました。

ハードボイルドなさいとう・たかを先生が理容師?

とおどろく人も多いでしょう。

自伝に書かれています。

理容師時代から、貸本漫画家としてデビューするまでを紹介します。

目次理容師になったきっかけ
まんがの腕
貸し本デビューまで

【理容師になったき

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悪書追放運動で貸本漫画のなにが問題視されたのか

悪書追放運動で貸本漫画のなにが問題視されたのか

1950年代におきた悪書追放運動。

手塚治虫の漫画ですら子どもに害を与えるとされ、

焚書(焼かれる)されるということがありました。

なにが問題にされたのかについて、書いていきます。

目次漫画の内容と出版社について
貸本の清潔さについて
まとめ

【漫画の内容と出版社について】

竹内オサムの「戦後マンガ50年史」に

詳細な内容がありました。

山梨読書普及組合の基準

1、出版社名、住所

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赤本漫画の原稿料と出版社の儲けについて

赤本漫画の原稿料と出版社の儲けについて

戦後の漫画文化を支えたのは、赤本漫画です。

40万部売れたといわれる、

手塚治虫の「新宝島」(育英出版)も赤本です。

赤本漫画の原稿料と、出版社の儲けについて書きます。

「週刊朝日」(1949年4月24日号)の記事と、

竹内オサムの「戦後マンガ50年史」を参考にしています。

目次漫画家の原稿料
出版社の儲け
まとめ

【漫画家の原稿料】印税方式ではなく、「原稿料」でした。

40万部と

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貸本屋は子どもにどれだけ浸透していたか

貸本屋は子どもにどれだけ浸透していたか

これまでも貸本屋について書いてきました。

貸本屋文化から劇画が生まれました。

辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、松本まさひこなどの劇画工房のメンバー。

「影」を出していた日の丸文庫には、水島新司が働いていました。

貸本があったこらこそ、現在の日本の漫画の隆盛があるのです。

最盛期に、貸本屋は30,000店もあったといいます。

普通の新刊書店は、1996年の26000店舗が最大です。

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