失敗は成功の母

昨日、研究授業が行われて、久々に先生方の前で授業をしました。

はい、失敗しました。そもそも、授業の趣旨をちゃんと理解していなかった。勝手な解釈で、根本的な部分がなってなかった。久々に指摘受けて、ちょっとへこんだ。あまり失敗するイメージ持ってなかったからな・・・。うーん、何があかんかったか、とにかく反省。失敗した原因を考えてみました。

本職である国語(現代文)の授業ではなく、コマ数の少ない道徳の授業だったのですが、担当して5年目ということもあり、まあ慣れた気でいたことは間違いない。「こうやっちゃえば何とかなるだろう」っていう、初年度に戻ってしまったような、自己満足な授業になってしまいました。その満足によって、上から目線の授業になってしまったし、伝えたいことが一方的になってしまいました。(生徒たちは一生懸命に聞いてくれました)

根本の目的を設定しにくいというか、意識しづらいのが道徳だと思うのですが、5年間やってることで分かった気になっていました。そもそも、教えることに答えなんてなくて日々試行錯誤しなきゃいけないはずなのに、なんかかまけて余裕こいてました。ダメダメですね。

授業内で設定したテーマが本質とずれていた。「自分とはなに?」がテーマだったのですが、正確に言えば、「『自分とはなに?』とはなに?」でした。自己分析、自分の特質を知ることではなく、更に高次のメタ視点で存在の妙を問うのが正しかった。

現代文にも共通するんですが、「答えがないもの」は問いにくい。だから、国語の時は大学入試っていうシステムを根拠に、答えを導く術を教えています。その上でそれぞれの思考を問い、補填しているのですがやはり難しい。学校教育が入試に対応したものだというのが、受験大国日本が成功してきた一つの理由だと僕は思うのです。知識詰め込み型は批判されたりするけど、一定の効果を得ている。サポートを足していけばもっとよいものになる。

しかし、ついつい明確な答えを求めがちです。今回も分かりやすい方に逃げてしまった。粘り強く、分からないものを考えさせて、もやもやが残るくらいで良かった。その勇気が持てなかったことが失敗した原因でしたね。

もっと考えて成長しなければ。この失敗を糧にする。失敗はいつだって僕の母。家で一人でへこんでたら、さっき実家の母さんから電話かかってきた。コロナが心配なんだって。心配してくれている人がいるってありがたい。ありがとう=有難う。つまり、なかなかないって事です。相手に指摘するのも勇気が要る事です。嫌われるリスクを負うわけなので。僕もよういいません。でも指摘してくれる人がいて、自分は大きくなれる。でも、言われるとやっぱりへこむ。それを意図せず和らげてくれる人が身近にいる。

明日もがんばらにゃー。

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