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津波と放射能汚染で消えた街・JR常磐線・富岡駅前

 2011年の東日本大震災後、フクシマに取材に行くと、よく足を運ぶ場所がある。福島第一原発から約15キロ南にあるJR常磐線・富岡駅(双葉郡富岡町)である。同じ場所に何度も行ってみることで「復興」の実像が見える。一種の「定点観測」である。

(冒頭の写真は2014年5月15日に撮影した富岡駅の様子。津波が運んだ自動車がホームで引っかかってそのまま草むしていた)

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(2017年9月15日付『河北新報』より)

 2011年3月11日、太平洋の海岸線から300メートルしか離れていなかった同駅は、津波の直撃を受けた。津波は線路やホームを呑み込み、さらに駅前の商店街になだれ込んだ。駅舎は水圧で木っ端みじんになって流され、コンクリートの土台部分だけを残して消えてしまった。駅前商店街にあった飲み屋や美容院、食料品店にも津波は流れ込み、街を破壊した。

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赤マークが移築後の富岡駅。黄色マークが震災前の駅舎の位置。右に太平洋岸が見える。白い屋根は除染で出た放射能を帯びた廃棄物の処理場。その隣には黒い放射性廃棄物を詰めたバッグの山が見える。(GoogleMapより)。


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津波で破壊される前のJR富岡駅=2003年1月撮影。

ウエブサイト「さいきの駅舎訪問」より

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↑2014年5月15日のJR富岡駅。

駅舎が津波に流されて消え、土台だけが残っている。駅の向こう側が海岸線。津波は向こう側から手前に来た。


 破壊された街は震災後約4年間そのまま放置された。放射能汚染のため、住民が後片付けや復旧作業のために自分の家や店に戻ることができなくなったのである。

 震災の翌日の3月12日、福島第一原発の危機が悪化し、富岡町は全区域が半径20キロ以内の「警戒区域」に入った。約1万6000人の町民全員に避難命令が出された。津波で破壊された家や店を片付ける時間も与えられないまま、町民たちは町外(隣の川内村→郡山市)へ転々と避難せざるをえなかった。「数日で帰れる」と思い、財布と携帯電話程度しか持たずに避難した人たちも多かった。

 立ち入りが解除されて以後、私はこの駅前の「街だった場所」に何度も足を運んだ。いつまで経っても、街のあちこちに、津波が運んできた自動車がごろごろと転がり、錆びつき、泥に雑草が茂ったまま放置されていた。住民が消え、廃墟になった家々を雑草が覆い、飛び散った壁材や瓦が乾いて粉末になって風に舞っても、街はそのままだった。他の地域では復興が進んでも、この街だけは、2011年3月11日のまま時間が止まっていた。

 やがて、3・11の被害を見学しようという人たちが車やバスで同駅を訪れるようになった。いつの間にか、花や飲料が供えられ、駅前に津波の犠牲者を弔う祭壇ができた。その一方で、常磐線と海の間の幅約300メートルの土地には、除染で出た放射性ごみを詰めた黒いプラスティックバッグ(フレコンバッグ)が丘のように積み上げられ、埋め尽くしていった。再び津波が襲来することを恐れて、もう誰も住む人がいなくなった場所だ。

 2015年1月になって、駅の解体が始まった。津波に流されず残っていた跨線橋がなくなった。駅だけが解体されるのかと思ったら、違った。津波で壊された駅前の家や店も、無傷だった家も、街全体が壊され、消えてしまった。駅舎そのものも、100メートルほど移動した。くねくねと曲がっていた小道をぶち抜いて、二車線の直線道路が敷き直された。線路をまたぐ高架橋も計画されている。街全体が破壊されたことを奇貨として、行政が一帯を区画整理してしまったのだ。

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2017年4月26日のJR富岡駅前。駅舎そのものが左方向へ100mほど動いたため、上の写真と同じ角度でも風景がまったく変わってしまった。

 家や店がなくなり、道路も付け替えられ、風景が一変した。どこに何があったのかわからなくなった。自分が、かつての街のどこに立っているのかもわからなくなった。

 私が今回、富岡駅を訪れた2017年10月18日は、ちょうど同駅までの列車の運行が6年7ヶ月ぶりに再開される(10月21日)直前だった。かつてのひなびた赤い屋根の駅舎は、LEDライトに照らされた近未来的な建物に変貌していた。区画整理された街に、ピカピカの新築の建物が整然と並んでいた。ただ住民の姿だけがなかった。がらんとしたその風景は、住宅展示場のようだった。

(私が撮影したものではないが、再建された富岡駅とその周辺の変貌ぶりはこちらの動画を参照されたい)

 かつてここには、駅前旅館があった。中華料理屋があった。理髪店や美容院があった。本屋があった。酒屋やスーパーがあった。小さいながら、そこで人々の生活が成立している様子が伺えた。

 いま、その街はほとんどが更地にされた。昼間は工事や除染関係者が忙しそうに動き回っている。しかし、夕方彼らが宿舎に戻ると、街からは人の姿が消える。住民の姿は見かけなかった。

 これほど徹底的に風景が変わってしまうと、たとえ住民たちが戻ってきても、そこがかつての自分たちの「ふるさと」だと思えるのだろうか。

 私なら、そうは思えない。私は、同じ「JR富岡駅前」に戻っても、よその街にいるように感じる。長い年月をかけてできあがった「まち」は、一度失われてしまうと、もうその蓄積を取り戻すことはできない。それが現場に何度も立った私の実感だ。

 私には、それがとてもむごいことに思える。人々が長年大切にしていた「ふるさと」が街ごと痕跡もなく消えてしまったのだ。

 原発事故が起きず、津波による破壊だけだったら、と私は思いを巡らさずにはいられない。

 津波による破壊を免れた建物もたくさんあった。すぐに修理して、津波が運んだ泥を掃除すればまた使えた建物もあった。しかし、住む人のいなくなった家は、3〜4年と経つにつれ、壊れた窓や壁から雨風が吹き込んで、急速に朽ちていった。また、ネズミそのほかの動物が侵入して家財道具をかじり、フンをして、人が住める状態ではなくなった。

 放射能で汚染された家財道具は、いくら大切な思い出の品でも、もう持ち出せないことを住民は知っていた。それならいっそ街全体を建て替えてしまおう。あるいは、他の街に移ろう。住民がそんな決断をしたことは、仕方のないことに思える。

 せめて私にできることは、ここでひとつの街がまるごと消えてしまったことを歴史の記録に残すことだ。そうしないと、街が失われた事実そのものが忘却の中に消えてしまう。

 その「失われた街」を歩いてみよう。

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