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遠藤周作『海と毒薬』




人間は、自分自身でしか、己を裁けないのではないだろうか。

すべての責任が想像力の中で生み出されるのならば、すべての罪も想像力をつくり出す自分自身の中で産まれるのだろう。


遠藤周作の『海と毒薬』をはじめて読んだのは、大学の文学の授業だった。授業時間が限られているので、この作品に限らず、授業で読む小説のほとんどは先生が選んだ一部の文章だった。

物語の大筋が説明され、先生が文章を読むのを聞きながら、文字を追った私の中に取り残されたのは、今覚えている限り、黒い海と、罪と罰と、作中に出てくる「詩」だった。

確か試験でも『海と毒薬』を選んで書いた。思えば授業で取り扱った『海と毒薬』『沈黙』『白い人、黄色い人』の三作品で、私はすっかりこの作者が好きになってしまったのだ。

作品と作者に対する好意からか、作中の詩、立原道造の「雲の祭日」がずっと頭から離れなかったからか、大学生活の後半で、本を全体を通して読み直そうと思い立った。古本屋で、ページが少し黄ばんでしまっているが、それなりにちゃんと仕舞われていたであろう綺麗な状態の『海と毒薬』を買った。

実際読み直しはじめたのは卒業した去年で、一時期別の本を読んで少し間が空いてしまったが、今日それを読み終えた。やはり筋書きを知っていてでも、全体を通して読むことに意味がある作品だと感じた。

この作品はある事件について書かれているが、佐伯彰一の解説にある通り、これは「事件小説」ではなく、「問い」と「意味」である。

それで、『海と毒薬』について考えたことを少し書きたい。正直、大学の頃の自分の所感をちょいと借用したいところだが、残念ながらテスト用紙は返されなかったので、はじめから考えて、書いていこうと思う。


罪と罰。

たとえば小説冒頭にある、街で普通に暮らしている男性の周りでは、戦争という名目の下、最低でも1人2人殺しているような人間が、自分の周りにうろちょろいたりする。普通な顔をして、自分と同じように普通な暮らしを送っている。

たとえば戸田は、自分が犯した罪らしいことを並べ、良心の呵責を自分の中で幾度もさがしては見つけられずにいた。あの事件に関与してしまった彼はついに一片の罪も感じることなく、罪自体よりも、罪を感じない自分を不気味がり、恐れた。

罪の意識とは、なんなのだろうか。

「良心的」という言葉がどれだけの重さで人の内で稼働しているのかは、人によって違うはずだ。そもそも戸田のように、良心を持たない人だっているだろう。罪を罪だと思わなければ、それは同等に、罰し得る存在もないのではないだろうか。信じる神がいない場合、裁判官と執行人とは自分だ。罪とはこれほどにも公的な言葉なのに、その実どうしようもなく個人的な概念だと思う。

世界では国それぞれに罪を犯した場合の「法律」があるが、それはある意味人間が「勝手に」設けたルールに従わなければ、ルールに則って罰せられるというだけの、あくまで人間社会で生きるための「規則」であって、『海と毒薬』で扱っている「罪」というのは「罪そのもの」なのだと思う。つまり、他人、社会、法律を取っ払ってなお残ってしまう苦しみ、それが「罪そのもの」である。他人や社会からの呵責にのみ恐れを感じることは、罪を恐れているのではない。

「法律」があるから、「法律に従う」大衆の目があるから、罪を犯した人間は罰せられる、社会から罰せられるべきだと罵倒される。しかし、それが機能しない、例えば戦時中であった場合に初めて、人の抱える「罪の意識」が露呈する。

だから、「罪そのもの」に対する罰というのも、本当のところ、己で裁き、己で受けることしかできないのだろう。

勝呂は「何もできなかった」「何もしなかった」ことを罪だと感じた。それを罪だと受け止め、何度も何度も罪だと認識することが、これから先永遠に背負って行くことが、彼の「罰」なのだろう。

とやかく何かのために罪を犯し、それが仕方なかった場合であったとしても、罪を感じずに、罪だとは思わずに生きている人の方が、戸田とりも勝呂よりも、よっぽど恐ろしい。無意識とはそういうことだろう。しかし、この罪も、あくまで私がそれは罪ではないだろうか、と私の良心ではかったもので、罪だと思わない人には、実際のところ、罪ではないのだ。罪とは、何処までも個人的なものでしかないから。

そういう意味では、ヒルダも、今の時代であればあの行動はもちろん「正しい」らしいことなのだろうが、誰もが死んでいくような、殺されていくような時代で、さらには殺すような時代で、神を信じていない人間に対し神に裁かれる罪を問うたところで、「聖人面」などと憎まれるのがオチだった。

もっと幼い頃は、人をいじめたり、悪口を言ったり、要らない悪態をついたりするような、いかにも物語の悪役の行動を、どうしてみんなみんな平気でやるのだろうかと不思議に思ったものだ。自分で自分を嫌いにならないのだろうかと。今となっては大して不思議に思わなくなってしまった。みんなみんな、良心のありようが異なる上、罪の意識が根本から繋がっていないのだと理解した。

罪を抱えることも、罪を抱えられないのを認識してしまうことも、生きていくには重すぎる。

罪を抱えられない戸田は、海に背を向け、階段を降りていった。罪を抱え、その罪によって罰せられる勝呂は、屋上でただただ黒い海を眺め、あの詩を頭の中で…

羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ おまへの散らすのは
白い しいろい絮の列

帆の雲とオルガンの雲 椅子の雲
きえぎえに浮いているのは刷毛の雲
空の雲...雲の空よ 青空よ
ひねもすしいろい波の群

ささへもなしに薔薇紅色に
ふと蒼ざめて死ぬ雲よ 黄昏よ
空の向こうの国ばかり...

また或るときは蒸気の虹にてらされて
真白の鳩は暈となる
雲ははるばる 日もすがら

立原道造「雲の祭日」



2024.1.25   星期四   晴れ
(本日は椎名林檎「宗教」を鬼リピ)

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