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書評:ハンス・ケルゼン(長尾龍一・植田俊太郎訳)『民主主義の本質と価値』岩波文庫、2015年。

ハンス・ケルゼン(長尾龍一・植田俊太郎訳)『民主主義の本質と価値 他一篇』岩波文庫、2015年。

◇ 民主主義に対する誤解と誤用との戦い


民主主義は、十九世紀と二十世紀の精神をほとんど普遍的にした標語である。しかし、まさにそのゆえにこそ、あらゆる標語と同様に、民主主義という言葉はその確乎たる意味を喪失してしまった。人々は政治的流行に押し流されて、ありとあらゆる機会に、ありとあらゆる目的のためにこの言葉を用いなければならないと思いこみ、民主主義はあらゆる政治概念の中でもっとも濫用された概念となった。

ハンス・ケルゼン(長尾龍一・植田俊太郎訳)『民主主義の本質と価値 他一篇』岩波文庫、2015年、11-12頁。

 ナチズムが時代を次々と席巻していくなかで、一貫して徹底的にイデオロギー批判者でありつづけたのがオーストリアの公法学者・ハンス・ケルゼン(1881年-1973年)です。今回取り上げるのは、ケルゼンが1920年に発表した民主主義・議会主義擁護の一書です。民主主義とは人民による支配のことで、内容ではなく「だれが支配するか」という形式にこだわった純粋法学を代表する古典的名著と呼ばれています。

 ファシズムが台頭するその時期、戦前ドイツで、ケルゼンは一方の立場を代表する法学者カール・シュミット(1888年-1985年)と論争しています。シュミットは議会制民主主義を否定し、独裁を肯定した人物として知られております。民主主義と自由主義の理念は、もともと密接な関係に合ったわけではないことに注目したシュミットは、その二つが結びつく過程をたどることで、議会主義を批判しました。独裁へと道を開いたその論理は、ナチズムの理論的支柱となり、第二次世界大戦後には逮捕されています(ニュルンベルク裁判では不起訴)。優柔不断な政治的ロマン主義が権威に修練していく時代においてこそ、決断を下す独裁者が必要であるとの主張は、あせりやいらだちを反映したものであることは言うまでもありません。

 こうしたシュミットに対して、ケルゼンは正反対の立場に立ちます。シュミットの独裁肯定論は民主主義の一つの帰結と捉えたものですが、ケルゼンは独裁を民主主義に対する脅威として退けます。

 民主主義とは、自由と平等(の保障)を本質的な特徴とする政治システムです。ケルゼンにとって民主主義と独裁とは互いに相容れない概念と言わざるを得ません。独裁は抑圧と隷属をもたらすのに対し、民主主義は支配者と被支配者の一致を目指すものです。その「現在」がいくら問題があるものだとしても容易に独裁で置換できるものではなく、絶えず鍛え直すこと、あるいは誤解を解いていくことをケルゼンは目指した。

 シュミットの民主主義批判あるいは自由主義批判は、ワイマール共和国の限界をつぶさに直視した危機に端を発するもので、その逆説的な批判は、民主主義の危機が高まる今日においても、決して無益なものではありません。

 しかし、ワイマール共和国がそうであったように、民主主義ほど脆弱な制度はありません。そして、民主主義の名のもとに民主主義は内部から崩壊してしまうという欠陥を秘めています。「もう、民主主義は無用だ」という議論がワイマール共和国以降も何度も再演されてきましたが、民主主義批判に安直に喝采を送るというわけにもいかないでしょう。制度としての民主主義がなければ、私たちの自由も平等も保障され得ないからです。だからこそシュミットではなく、ケルゼンに注目する努力が必要だと僕は考えています。

 しかし、民主主義の理想に敵対しているのは、理論的基礎を新共産主義の教義におき、ロシア・ボルシェヴィズムによって現実化されているプロレタリア独裁のみではない。プロレタリアによるこの運動がヨーロッパの精神と政治に惹起した強烈な衝撃は、その反作用として、ブルジョワジーの反民主主義を生み出した。それを理論的・実践的に表現しているのが、イタリア・ファシズムである。

ケルゼン、前掲書、13頁。

多数派は少数派の存在を前提とする

 議会制の多数決原理は、まさにこの階級支配を阻止するためにこそ適している。そのことは、この原理が経験上少数者保護と親和的であることにすでに示されている。なぜなら、多数派ということは概念上少数派の存在を前提としており、それゆえに多数者の権利は少数者の存在県を前提としているからである。そこから、多数者から少数者を保護することの(「必然性」とまでは言えないかもしれないが)「可能性」が帰結される。いわゆる基本権・自由権・人権・市民権の本質的役割はこの少数者保護である。

ケルゼン、前掲書、73頁。

 誰もが自由であり対等であることを保障する制度は、それが完全ではないにしても、おそらく民主制と議会制度を用いるほかありません。本書では、国民、議会、多数決原理、行政といった具体的な課題を取り上げ、ケルゼンは、民主主義と議会制につきまとう誤解や誤用を解いていこうと試みます。あわせて自由や民主主義の形式の問題、そして世界観などシステムを背景から支える問題群との接点についても解き明かしていきます。

 ここでは、民主主義を象徴する多数決原理について取り上げてみたいと思います。
 民主主義の理念は個人の自由に水源を持ち、価値相対主義に基づく民主主義が個人の平等を保障するものになります。しかし意思決定においては、多数決という手段を取る他ありません。

 議会制度は常に何事かを決定しなければなりませんが、常に全会一致となるわけではありません。そしてその代表を選ぶ選挙にしても同じことで、多数決という手法が使われるのが一般的です。ここで問題になってくるのが、多数派の少数派への圧迫という難問です。

 過去十数年あまりの日本の政治を象徴するのもこの多数決というキーワードではないでしょうか。

 「選挙で多数派をしめたのだから黙って従え」

 「多数決で決まったことだから、黙って従え」

 こうしたフレーズを何度も聞かされたのではないでしょうか? 

 しかし、多数で決まったことだから「正しい」のでしょうか? あるいは、多数で決まったことだから黙って従う必要があるのでしょうか? こうした多数派の圧倒を前にすると多数決というあり方に疑問を抱かざるを得ません。

 その意味では、疑問を抱かせる多数決理解こそ誤っているのかも知れません。ケルゼンは多数決を論じた箇所で、「多数派ということは概念上少数派の存在を前提としており、それゆえに多数者の権利は少数者の存在権を前提」としているから「多数者から少数者を保護すること」の「可能性」が帰結されると指摘しています。多数決で物事を決着しなければならないことは日常茶飯事です。しかしそのことで少数派が無視されたり、少数者保護を旨とする「基本権・自由権・人権・市民権の本質的役割」が損なわれるようなカタチでの決定や内容であった場合、それは誤りであると理解せざるを得ません。


 多数決原理は多数派の少数派に対する支配の原理としてあらわれるように見え、そして現実はそうした言説が多々流されています。しかし、多数決原理によって形成された「団体意志は、多数者の少数者に対する一方的支配としてではなく、両集団の相互的影響の結果として、相対立する政治的意志方向の合成力として生ずるもの」だから、少数派に対する一方的支配は、「永続的には可能でない」とされます。


 少数派をも納得させるために多数決という最終決定へ至る議論があるはずです。それを無視した決着だけあるとすれば、それが民主主義の破壊行為であることは言うまでもありません。そしてそうであるならば「黙って従え」という言い方は、いかなる決定であろうが軽々しく出てくるものではないでしょう。

 私たちは、政治的対立に折り合いをつける「妥協」に対して否定的なイメージを抱きがちです。端的に言うと「談合」のようなイメージです。しかし、ケルゼンはこの「妥協」を重視します。相互に納得がいくまで丁寧な議論を積み重ねて、多数派も少数派もこの中間線であればいたしかたないと考えていくようなすり合わせ、その議論こそ民主主義の要ではないでしょうか。現在の政治的動向を振り返ると、民主主義の大切な手続きが一切割愛されているように思えてしまうのは、多分、僕だけではないでしょう。

妥協とは分離力を抑制し、結合力を促進することである。すべての交換、すべての契約(Vertrag)は妥協である。妥協とは折り合う(sich vertragen)ことに他ならない。議会制における多数決原理が政治的対立の妥協の原理、調整の原理であることは、議会慣行を一別するのみでも明らかである。対立する利害の中間線を引くこと、対立方向に向かっている社会力の合成力を作り出すこと、これこそが議会手続の全体が目指していることである。

ケルゼン、前掲書、77-78頁。

◇ 現代日本でケルゼンを読むこと

絶対的真理と絶対的価値が人間的認識にとって閉ざされていると考える者は、自分の見解のみならず、それと対立する他者の見解をも、少なくとも可能なものと考えるであろう。それゆえ、相対主義こそ民主主義思想の前提とする世界観である。民主主義は万人の政治的意志を平等に評価し、あらゆる政治的信念・政治的意見、およびその表現としての政治的意志を平等に尊重する。それゆえに、民主主義は、あらゆる政治的信念に対して、平等な表現の機会、人々の心を把握するための自由競争の機会を与える。

ケルゼン、前掲書、129頁。

 ケルゼンは、多数派と少数派の調停として民主主義や議会制の手続きを重視しているようにも見え、事実、「民主主義は社会秩序を創造する一つの形式、一つの方法に過ぎない」とします。そして多数決原理でも言及しましたが、あらゆる立場が等しく尊重されなければならないという「相対主義こそ民主主義の前提とする世界観」であると定位します。そしてその障害となるのは、当然、「絶対的真理の認識、絶対的価値の洞察が可能である」という前提から出発することです。

 議会制はイギリスで育まれ、民主主義基礎論はフランスで育ちましたが、議会制と民主主義が常に戦い続けてきたのが、絶対的な世界観を前提とする立場といってよいでしょう。王権神授説然り、ロベスピエール然り……。

 圧政や圧迫は常に「絶対」的なるものを前提として、立ちはだかる者や異議申し立てをする者を排除してきました。

 そして、そうした暴力に対峙していくために、議会制と民主主義が確立されてきたといっても過言ではありません。だからこそ「相対主義こそ民主主義の前提とする世界観」には常に留意しておく必要があります。ただし、こうしたケルゼンの主張に対しては、民主主義を破壊しようとする立場の自由も許容されることから、独裁へと道を開くという批判も存在します。しかし、人間の基本権を否定しようとする立場は、意見や言説になり得るのでしょうか? この点から始めるべきであると僕は考えます。

 いずれにしても、ケルゼンのこうしたデモクラシー論が現実政治に反映されるためには、多数決の決議に入る前の、議会における活発な討論が行われていること、そしてそれを背景から支える主権者の積極的な参加が要請されることは言うまでもありません。さもなければ、ケルゼンがしてきする妥協の積極的な産物としての「団体意志」は形成されるはずもなく、多数派の少数派に対する一方的支配が現実に行われてしまうことになります。

 今日、カール・シュミットが憂え、そして混乱から安定への希望としての独裁を渇仰している雰囲気が濃厚に漂い、民主主義の危機を覚えるのは筆者だけではないでしょう。自由の理念は破壊不可能であるとしてそれを土台から鍛え直していく道筋を本書でハンス・ケルゼンは説きましたが、ケルゼンを必要とする現在の日本とは、民主主義の危機の時代かも知れません。

まあ、それは、僕ひとりの杞憂であればよいのですが。


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氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。