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次なる統治機構改革(2): 政策コミュニティの実情と課題

民主制国家における政策過程は一般に、政党や中央省庁、業界団体、シンクタンク、NPO、地方公共団体、マスメディア、そして有権者などといった多様な政策主体が関与することによって成り立つ。
政策過程とは、政策が形成され、実施されるまでの一連の過程を指すものであり、単純化すれば以下のように整理できる。

1. 政策課題の提示
2. 政策課題の設定と政策資源の投入量の決定
3. 政策立案
4. 政策決定
5. 政策実施


勿論、これらの段階は必ずしも順を追って進められるものでもないし、相互に並行して進められることもある。当然、次の段階に進むことができずに立ち消えてしまう政策もある。
冒頭述べた通り、こうした一連の政策過程には様々な主体が関与することになる。これらの政策過程に影響を与える主体を一体的に捉え、これを政策コミュニティと呼ぶこととする。

日本の政策過程における政策コミュニティはいかなる形を取っているか。よく、戦後日本の政策過程は、終戦による軍部の崩壊を契機に長きにわたる官僚主導の時代に入り、20世紀末の統治機構改革を経て政治主導、官邸主導の時代に移ったなどと言われる。
結論から言えば、その内実が大きな変化を遂げていることは間違いないが、総体として見れば、日本の政策過程における中央省庁の影響力は依然として非常に強い。

政策過程の概観

以下、政策過程におけるそれぞれの段階について簡単に見ていく。ただし、本稿の狙いは公共政策論の紹介ではないので、議論の前提となる最低限の事柄に触れるに留める。

1. 課題提示

社会には無数の課題が存在するが、政策による解決に馴染まないものもある。いかなる問題が政策によって解決すべきと考えられるかは、時代や国によって大きく異なる。例えば、古くは安全保障や治安維持だけが国の役割だと考えられた時代もあるし、マクロ経済の問題が政策対応の対象と考えられるようになったのは第二次世界大戦以降である。DVなど家庭内の問題についても政策介入の必要性が認識されるようになったのは近年のことである。経営困難に陥った銀行や大企業を政策的に救済するか否かについては判断が分かれる場合がある。新たな技術の登場が、新たな社会課題を生み出したり、既存の社会課題に対する政策的解決の道を拓くこともある。
課題設定は、5つの段階の中でも明確なプロセスを踏まないことが多いため、ある課題が存在すると明確に整理することは難しく、逆に、マスメディアやNPO、企業や個人など多くの層が関与しうる政策段階であるとも言える。勿論、課題設定以降の段階に進むことを前提として、中央省庁や与党が能動的に課題を提示する場合もある。

2. 課題設定と政策資源の投入量の決定

何らかの課題が存在するとされた分野について、何ら対応をしないというポジションを取れば、多くの場合、政府は批判に晒されることから、一定のボリュームで提示がなされた政策課題については、多くの場合、少なくとも表面上は政策課題として設定されることになる(実態としてほとんど対応がなされていなくても、政府としてこれを課題として捉え、検討しているというポーズが取られる)。
他方、国の政策資源(予算、税源、人員など)は限られているため、あらゆる課題への対応に無尽蔵にその資源を投入することはできない。したがって、国が注力すべき課題を特定することが必要になる。

課題設定
既に述べた通り、提示された課題が社会において一定の支持を得た場合には、これが無視されることは少ない。政府は「計画」や「方針」などと名前のつく、政府あるいは省庁としての政策方針が総花的に記載された政策文書を大量に発行するが、そうした政策文書の中に一行書き込むだけでも、政府として取り組むべき課題として設定されたことになる。

■投入する政策資源の決定
ある社会課題が例え政策的な解決を目指すべき課題として設定されたとしても、その解決のために、政府の人員や予算といった政策資源をどれだけ投入するか(いわば、本腰を入れて対応するか否か)は、政策課題により千差万別である。
解決のための政策資源が十分に投入されなければ、効果的な政策を立案し、実施することは難しいため、政策過程において重要な段階であると言える。

3. 政策立案

解決すべき課題が特定された後、これを解決するための手法が検討される。予算、税、法律が代表的な政策手段とされるが、行政通達やビジョンの提示、場の提供などといった手法も用いられる。

4. 政策決定

立案された政策に何らかの権威付けを行い、国としての意思決定とする。正統性の高いものとしては国会による議決や閣議決定などがあるが、大臣による決裁や中央省庁によるプレスリリース、記者会見による発表といった方法も用いられる。
中央省庁において一定の政策資源を投入し、政策立案が済んだ段階になって、当該政策が決定に至らないことはほとんど無い。政策過程に強い影響力を持つ政策主体が特定の政策が決定されることに反対するような場合には、そうした政策はそもそも政策立案の段階まで進まないからである。

5. 政策実施

決定された政策を執行する段階である。例えば企業に対する補助金措置であれば省庁による認定と企業活動、軍事政策であれば装備の調達や部隊の展開、福祉政策であれば人員の配置とサービスの提供など、政策分野によってその方法は様々である。

日本の政策過程においては、中央省庁が突出した影響力を有している

上記の通り政策過程を概観すると、政策の内実に大きな影響を与えそうなのは、政策資源の投入量の決定と政策立案の二つの段階であるように思われる。
結論を先取りすれば、日本の政策過程においては、これら二つの段階に関して、あらゆる政策主体の中でも中央省庁の影響力が突出して強い。中央省庁以外の主体に目を向ければ、与党及び官邸が政策資源の投入量の決定には強い影響を有しているものの、その影響力は限られた領域のみにおいて発揮される。また、与党や官邸が影響力を発揮できる場面においても、与党や官邸は官邸官僚の存在や、部会での根回し、政治との人間関係を通じて中央省庁から一定の影響を受けている。
政策立案に関しては現状、中央省庁以外にこれに強く作用できる政策主体は存在しないと言ってよい。
そして、中央省庁と政治、官邸以外の主体がこうしたプロセスに作用することはほとんど無い。すなわち、野党や民間企業、政治家個人が抱える政策スタッフ、シンクタンクといった、中央省庁、与党、官邸以外の政策主体が持つ政策過程への影響力は極めて限定的である。
以下、これらのプロセスを中央省庁、与党、官邸の三者にフォーカスして見ていく。

政策資源の投入量の決定

ある課題が政策的な対応が必要な課題であるとされても、その解決のために然るべき人員や予算が充てられなければ、然るべき政策を立案することはできない。そして、ある課題が政策的解決を必要とする社会課題として設定されても、その全てについて、迅速かつ効果的な政策を立案できるだけの政策資源を充てることは難しい。
こうした「政策資源の投入量」の判断について、主要な政策主体となるのは中央省庁と与党、官邸である。

■中央省庁
ある政策の検討にどれだけの人員を配置し、どれだけの予算や税源を充てることが妥当であるかという判断は、個々の省庁の内部における技術的な調整に属する領域が非常に広いため、基本的には中央省庁の力が強くなりやすい領域である。
とりわけ人員の配置に関しては、そもそも、ある政策を検討するのにどれだけの人数の職員を配置することが妥当であるかを外部の目から見て判断することは非常に難しいし、そこに配置される職員の資質などは、まさにその職員のことを個人的に知っている人間でなければ判断できない。
政策実務に携わる管理職以下の職員の人事権が各省庁に分散し、外部からの介入の余地が無い日本においては、個々の政策課題に対して、人員という政策資源をいかなる形で配置するかは、中央省庁の専権的な決定事項であると言ってよい。
予算や税源は、人員と同様に有限な政策資源であるが、その配分に関しては、与党の関与する余地が非常に大きい。人員と違ってこれらの政策資源は数量的な判断が可能であり、ある程度客観的な判断が可能であることに加えて、日本の政策過程においては、国の予算や税制を決定するためには国会の審議を経る必要があるからである。だが、与党が関与できるのは大枠に係る部分のみであり、細部にわたる技術的な調整は、中央省庁の内部で判断されることになる。

■与党
これに対して与党は、その重要と考える政策に関連する会議体(「部会」や「調査会」、「本部」といった名称が用いられる)を立ち上げ、中央省庁に対して一定の政策資源を投入して政策立案に当たることや、その進捗について報告することを求めることで、中央省庁における政策資源の投入に係る判断に関与しようとする。
自民党は55年体制の成立以降、長期政権の中で中央省庁の職員と属人的な関係性を構築している。中央省庁の側から見れば、会議体で自身の関連する政策分野に対して何らかの関与をしようとしている議員が、将来的に官邸幹部や閣僚になる可能性や、現役・将来の閣僚、官邸幹部に影響力を持つポジションに着く可能性があることを考慮すると、これに対して応ずる強いインセンティブが働くのである。また、予算や税源の投入量の判断については、既に述べた通り、国会審議を経る必要のあることから、大枠の意思決定については与党の影響力が強く働く。
なお、こうしたプロセスに係る与党の意思決定に対して、中央省庁の側は「根回し」と呼ばれるプロセスを通じて作用を試みることが知られている。中央省庁は、その重要と考える政策について、与党議員、とりわけ当該政策分野における有力な議員に対して、プロアクティブに説明を行い、中央省庁の方針に理解を求めることで、議員が上記の会議体運営を通じたプロセスの中で中央省庁の方針に積極的に反対することを防いだり、中央省庁の方針を後押しする趣旨の発信を喚起したり、場合によっては中央省庁の意図に即した指示を出すことを求めたりすることがある。
したがって、表向きは与党が独自に意思決定をして中央省庁と対峙しているように見えても、実際には中央省庁の意図を汲んで発信をしているという場合も往々にしてある。

■官邸
与党と中央省庁の関係性に比べると、官邸と中央省庁のそれはやや複雑である。官邸は、統治機構改革を経て強大な権力を掌握した内閣総理大臣を中心とする官邸幹部と、これを支えるスタッフであるごく一部の中央省庁の職員(いわゆる官邸官僚)から構成される。官邸官僚は、官邸幹部の意思を中央省庁に伝達する役割を担うとともに、中央省庁の意思を官邸幹部にインプットする役割も持つ。
中央省庁から見れば政府の意思決定機関の頂点にある内閣総理大臣の意思を体現する官邸の指示は重い意味を持つ。また、官邸幹部は与党の有力者である場合が多いから、官邸幹部の意思は与党の集合的な意思に近接するものであり、中央省庁にとっては官邸の具体的な指示に反くことは基本的に難しい。こうした過程において、内閣人事局が有する指定職以上の幹部に対する人事権も一定の役割を果たしている。
官邸は与党の集合的な意思を制度的に中央省庁の上部に位置付け、これを貫徹するための装置であると言える。

政策立案

日本においてこの段階は、その上流から下流にわたってほぼ全て中央省庁によって担われ、これに業界団体が関与する形を取る。政策の枠組みの設定や解決の方向性の決定から、補助金支給の要件設定、支給率の決定など制度の詳細が組み上げに至るまで、そのプロセスには幹部から若手職員まで幅広いレイヤーが関与する。なお、ある政策の所管省庁の大臣が、当該省庁が所掌する特定の政策領域に強い関心を持っている場合などを例外として、政治家個人がこのプロセスに関わることもほとんど無い。
ある課題を解決するために、補助金や税制、情報提供などといった数多ある政策手段の中からいかなる手法を選択し、どの程度の強度でそうした政策を実施するか、そのために必要になる行政手続は何で、それをクリアするためにいかなる段階を踏むかなどといった技術的な調整は、政策に関する専門的な知見なしには不可能であり、日本においては、中央省庁が、その有する人員や専門的知見、情報網を動員することめ、これを一手に担っている。したがって、政策資源の投入量の判断において強い力を発揮する与党や官邸も、個々の政策立案に関与することはほとんどない。
とは言え、中央省庁がこうした事柄について独断で判断することはほとんどなく、政策立案のあらゆる段階において、業界団体などをはじめとする利害関係者との調整を経て進められることがほとんどである。中央省庁には「原課」と呼ばれる、個々の業界を所掌する部署が存在し、業界団体を始めとする、ある政策領域について利害を有する関係者との調整を担うのは原課の役割である。原課は日々の行政活動において政策に係る情報の多くを業界に依存している他、中央省庁の官僚と関連業界の社員は、相互の属する組織における長期的な雇用を前提として、そのキャリアを通じて人間関係を構築しながら貸し借り関係の中で仕事をしていくことになるため、両者が真っ向から対立するということは非常に珍しい。
なお、業界団体は、当該業界に近い政治家からすれば選挙の際の後ろ盾になってくれる存在、いわば票源であり、中央省庁と業界団体の利害があまりに激しく対立した場合には、業界団体は、中央省庁の政策方針を挫くために政治家に訴える場合がある。業界団体が持つこうした力の強弱は業界により千差万別で、一般に業界団体の規模と凝集性がその力を測る度合いになると言われる。
したがって、ある政策の内容に業界団体が強く反発をし、当該業界団体が政治を通じて中央省庁の意思決定に実体的に関与することを試みたときは、場合によっては、中央省庁が意図した政策が実現できなかったり、表向き体裁を整えながらも実体上は政策が骨抜きになっていることもある。
だが、業界団体が反発しない政策(業界団体を構成する企業が対象となる振興的な措置や、潜在的な新規参入事業者に対する規制措置など、業界団体にとって利益になる政策)や、そもそも業界団体の力が弱かったり存在しない政策領域においては、業界団体との調整に係る膨大な調整や、法律や予算といった制度や、その決定過程に関わる高度な専門知識を伴う政策立案は、こうした事務を処理するための人的資源や情報を独占的に有している中央省庁がその大部分を担うことになるのである。
近年は、政策過程の透明性を高めるために「審議会」と呼ばれる会議体を中央省庁に設置し、ここに業界団体や、学者や弁護士などといった当該政策分野の専門家を委員として招聘して、政策に係る議論をすることが増えた。だが、そうした場においても、審議会の「事務局」としての中央省庁の担当部署が提示した政策案をベースに議論がなされることがほとんどであり、委員として招聘される専門家も中央省庁が選定している以上、ここで中央省庁の方針と異なる結論が出されることはまず無い。
なお、政策立案に必要な情報の収集や詳細なスキームの設計をシンクタンクやコンサルティングファームに外注することも多いが、政策のアウトプットに関わる主要な要素の組み上げを中央省庁が外部に委託することは無い。

政策コミュニティにおいて中央省庁が突出した力を持つことの問題

統治機構改革により、日本の政策過程における与党や官邸の影響力は大きく向上したが、上記の通り、依然として中央省庁が日本の政策過程において発揮する影響力は非常に強いと言える。私が以前「時代認識と政策について」で述べた、日本の統治機構が持つ意思決定の「形式」とは、具体的にはこうしたものである。同記事で示した通り、こうした「形式」は、現代の日本が抱える政策課題との関係で、何らかの問題を抱えていると考えられる。
なお、同記事で述べた通り、こうした「形式」は、歴史的文脈や手続を経た結果として成り立っているものであり、その形式が想定する一定の環境を前提としたときに、有効性を持っている可能性が高い。
容易に考えられるのは、中央省庁が突出した力を持つ「形式」は、例えば海外の技術や制度、社会情勢といった、政策立案のために不可欠な情報を入手することが、中央省庁以外の主体にとっては容易ではなく、また、そうした情報をベースに取るべき政策の判断やその立案に際しても、社会課題が今ほど多様化していなかったために、中央省庁が有しない高度な専門性や、中央省庁が苦手とする柔軟で迅速な意思決定を必要としないというような時代が仮にあったのだとすれば、そうした情報を中央省庁が一元的に集約し、これを中央省庁が活用して政策立案を行うことが合理的であったという可能性である。
だが同記事で述べたように、こうした形式のもとで運営されてたきた政策過程を通じて、バブルが弾けて以降の30年間にわたって、日本の経済社会状況が好転せず、日本を取り巻く安全保障環境も悪化し続けてきたということもまた事実である。
そうであれば、本稿で明らかにした、「政策コミュニティ」において中央省庁が突出した影響力を持っているという「形式」には、現代の日本が抱える政策課題に適切に対処できない何らかの弱点があると想定し、その弱点がいかなるものであるかを考えることは無意味ではあるまい。
前置きが長くなったが、日本の政策過程の「形式」について、指摘したい課題は以下の3つである。

政策判断が各省庁の所掌を前提としたものとならざるを得ず、省庁横断的な目線での政策判断が難しいこと

既に述べたように、中央省庁は所掌する業界との長期的な関係性の中で業務を行なっており、こうした関係性は原課と呼ばれる個々の担当課によって構築されている。したがって、中央省庁の意思決定においてはボトムアップの契機が非常に強い。こうした組織構造は、決められた政策方針を推進する上で個々の業界との関係で摩擦や急進的な変化が生じないように、業界特性に応じて政策を柔軟にカスタマイズしたり、業界固有のニーズに対応するための政策を作る際には効果的に機能する。
だが、こうしたボトムアップの契機に特徴づけられた政策過程は、裏を返せば、既存の業界団体との関係で摩擦を生んだり、その利益を害する可能性のある急進的な制度変更をすることには向かない。また、個別の利害関係者との綿密な調整を行い、可能な限りその合意を取り付けてから意思決定を行うために、例え利害関係者の大多数が賛成していても、一部が反対していれば意思決定がしづらくなり、結果として物事を迅速に決めたり、大幅な制度変更をすることは難しい。
ボトムアップであるがゆえに、個々の業界との関係性を持たない横串の部局には権限が乏しく、情報も集まらないため、効果的に調整機能を発揮することは難しい。
また、意思決定がボトムアップである以上、ある政策に関して省庁間の基本的なスタンスが相違する場合には、政策決定そのものが困難になることもある。
中央省庁がこうした構造的な性質を抱えている以上、中央省庁以外の政策主体において、中央省庁が有するこうした弱点を修正することが必要である。こうした、中央省庁の意思決定に係る過程が有するボトムアップの契機に起因する問題は、既に議論した通り、1990年代の統治機構改革においても強く認識され、その解決が試みられたものであるが、改革の成果が十分に上がっているとは言えない。

人員配置の柔軟性が乏しく、政策立案に必要な専門性を組織として確保することが難しいこと

中央省庁の人事制度は新卒一括採用をそのベースとしており、長期的なキャリア形成を前提として人事配置を行う。したがって、一度組織において採用した人間は組織内における何らかのポジションでもって処遇していく必要がある。このため、何らかの新たな業務が発生したときには、その業務に適切な能力を有した人間を外部から雇い入れるのではなく、その組織の内部にいる人間の中で最もその業務を処理するのに適していると思われる人間を当該業務に充てることになる。また、職員は特段の専門的な能力を前提とせずに採用され、ジョブローテーションの中でそうした能力を高めることが期待されるわけでもない。したがって、よほど高い意識を持って、例えそれが組織からの評価に繋がらなくとも自らの能力を高めようという意思を持った極めて稀有な人間でない限りは、一度採用された職員は、何ら専門的な能力を身につけないままキャリアを形成していくことになる(「新しい個人主義: 中央省庁における集団主義に関する私見」参照)。
したがって、社会の変化に伴って、組織の構成員が有しない新たな専門性を必要とする業務が仮に発生したとしても、そうした能力を組織の外部からも内部からも調達することが難しいため、結果として、そうした場面において、有効な政策を立案することが困難な場合がある。
こうした問題は、政策過程のうち、政策立案の場面において露見するものである。したがって一つ目に述べた課題に比べると、与党や官邸の関与により修正することの難しい弱点であり、1990年代の統治機構改革が目指した方向性からは解決されない問題であると言える。

主権者たる国民において、自らが国民国家の構成員であるという自覚が失われること

本稿の冒頭で述べた通り、本稿で議論している政策コミュニティのあり方という問題は、民主制を採用する国家の政策過程においてのみ問題となりうる。
民主制において、統治の正統性の根源は主権者たる国民にあるとされているが、実際の政策過程においては、国民は必ずしも自国の意思決定に主体的に関与しようという意思を持っているとは限らない。政策の目的が、国民生活の維持や向上、その安定性の確保にあるのだとすれば、政策の受益者である国民が政策過程に関与するという契機が弱ければ、政策はそうした目的に奉仕するための手段としての役割を見失いかねない。
国民が自らの国の意思決定の主体であるという自覚を持つためには、個々の国民が、自分自身と国家の間に、何らかの有機的な(アナログな、感情的な、非論理的な、などと言い換えてもよい)関係性を見出す必要がある。
こうした関係性を認識することは、すなわちナショナリズムを抱くということであると言ってもよい。ナショナリズムは古くから議論されている通り想像上の産物であるが、その想像力は、具体的にはメディアを通じて拡散される国民の代表者によって表象されるイメージによって喚起される部分が大きいように思われる。
国民の代表者である政治家が、メディアを通して発信するその言葉や行動でもって、国民が国家との間に有機的な関係性を見出すための触媒となることが仮にできていないのだとすると、それは、日本の政策過程において中央省庁が突出した影響力を持っていることと無関係ではないのではないだろうか。
正統性の根源であり、政策の受益者でもある主権者における、政策過程への関心が弱ければ、政策過程に主体的に関与しようとする国民が減少することは当然である。その結果として、政策に関する十分な議論がなされなくなるばかりか、政策に関する専門性を持つ国民の数やその能力が減退し、延いては国として政策を立案し運用する能力そのものが欠如するということになりかねない。

中央省庁の突出した影響力の背景には文化的要因がある

こうした状況をいかに解決すべきかということを考える前に、そもそも、日本の政策過程がどうしてこうした状況になっているのかについて考えたい。
省庁再編や官邸機能強化などを通じて、確かに中央省庁の力は与党や官邸といった政策主体に比して相対的に減退した。また、中央省庁への就職を希望する学生が減少したり、長期的な雇用を前提として採用したはずの職員の退職が急増するなど、中央省庁の人的資源に係る混乱が生じており、これが中央省庁が政策過程において有する影響力を減退させているという可能性もある。
そのような状況を経てもなお、戦後社会の中で中央省庁が与党や産業界との間に構築したネットワークや、個々の中央省庁が持つ膨大な情報と圧倒的な組織力は、中央省庁の影響力の源泉となり続けており、こうしたアセットを持つ中央省庁を政策過程に与える影響力において凌駕する主体が依然として現れていないというのが、今の日本の政策過程の現状ではないだろうか。
こうした状況は、意思決定と人間関係が不可分に結びついており、例え少数であっても反対意見が表面的に示されることを極度に嫌うという日本社会の文化的な特性と深い関係があるものと思われる(これは、中央省庁や民間企業が長期的な雇用を前提とした人間関係を構築し、これを足がかりにして物事を決めているという現象のことを指摘しているのではない。その背後にある、日本で日本語を使ってコミュニケーションをする人間同士に共有されている人間関係の態様が、ここで指摘したい論点である)。したがって、中央省庁が一度社会に張り巡らしたネットワークが簡単に効力を失うことは無いし、組織力と権威でもって迫ってくる中央省庁に対抗できるだけの訴求力を持った組織や政策主体も、簡単には現れないのではないだろうか(小室直樹が『危機の構造』で展開した、日本文化の特性から日本の組織が必然的に抱える問題に関する議論は、本稿における考察に示唆を与えるものである)。

政策コミュニティの改革には、中央省庁をいかに活用するかという視点が不可欠

したがって、このまま中央省庁が持つ力が、それ以外の政策主体に比べて相対的に減退していった結果として、これに代わる新たな政策主体が現れ、中央省庁の役割を代替していくと考えるのは、楽観的どころではなく、致命的な発想である。
問題は、本稿で述べた「形式」と、その背景にあると思われる文化的要因も視野に入れた上で、上記述べた3つの課題に対応するために、政策コミュニティをいかなる形に作り替えるかということである。そしてその際には、中央省庁が有する組織力や情報、ネットワークといったアセットを、政策過程のいかなる局面において、いかなる形で活用すべきかという視点が必ず必要である。

最も憂慮すべき未来は、中央省庁が政策過程に対する突出した影響力を有したまま、この過程を適切に担う能力を減退させていった結果として、日本の民主制が、国民の利害や繁栄に関わる課題について、主体的に政策を立案し、決定し、運用する能力を喪失することである。

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