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償いとは:「WILL」と「プリズン・サークル」を観て考えたこと

※ネタバレあり※

2月から3月上旬にかけて観た2本の映画が、どちらも社会的に許されないことをした人たちのドキュメンタリーだった。2月末に鑑賞した「プリズン・サークル」は島根県の刑務所で行われている再犯防止プログラムに参加する少年たちを追った作品、3月上旬に鑑賞した「WILL」は週刊誌に不倫を報じられて人生が一変した俳優・東出昌大に密着した作品だ。

「プリズン・サークル」に登場する再犯防止プログラム「TC(Therapeutic Community: 回復共同体)」の中では、本来の償いとは何なのかが現代の精神医療に基づいて定義され、受刑者たちが様々なワークを通して自分の罪と向き合ってゆく。受刑者たちは輪になって座り、臨床心理士たちの指導に従って、自分の加害だけでなく被害体験も語り合う。虐待やいじめ、ネグレクトなど、過酷なエピソードもある。
自身が味わった理不尽な出来事を言葉にし、辛かったのだと認識し直すことで、少年たちは自らの加害によって傷ついた人たちのことも想像できるようになってゆく。少年たちの顔にはモザイクがかかっているにもかかわらず、プログラム参加を経て表情も言葉も劇的に変化したことが映像から伝わってきて、胸が熱くなった。このプログラムに参加した人の再犯率はしなかった人より低いという統計も出ているそうだ。

一方「WILL」では、東出さんが仕事の傍らライフワークである狩猟をしたり、山小屋の狩猟仲間たちと語り合ったりしながら、過去を振り返り今後の生き方を模索する様子が展開される。何をどうしたら過去に自分がしたことを償ったと言えるのか東出さん自身も掴めていないし、監督や周囲の人々が自分なりの考えを示すシーンもない。
もちろん、東京での多忙な生活やマスコミの取材攻撃に疲弊していた東出さんが、山というサードプレイスを得て精神的に持ち直したことは意味があると感じる。また、マスコミの報道により「東出昌大=クズ男」というイメージを植え付けられてしまった私のような人間にとって、東出さんなりの葛藤や美意識を伝えるこの映画は、安易なラベリングを超えた東出昌大像を見せてくれる有意義な作品だった。
しかし一方で、過去に東出さんの行動によって4人家族での生活を永久に失ってしまった人々や、(一時的にではあれ)俳優業ができなくなってしまった女性がこの映画を観ても、東出さんが自分のしたことに正面から向き合っているとは感じられないだろうなとも思った。
このような感想を抱くに至ったのはなぜなのか、「プリズン・サークル」の話も交えながら整理してみる。

※「WILL」の感想は、あくまでも映画館で上映された140分の作品に対するものです。
編集で切られた映像を見れば東出さんの印象が変わるかもしれませんが、本編を見た人間はこう受け取ったという記録として参考にしていただければと思います。

断片的に語られる、東出昌大の生きづらさ

映画冒頭で、エリザベス宮地監督は、都内の東出さんの家でカメラを回す。東出さんは、自分はあんまり自分のことを喋る方ではないと監督にカメラ越しに語りかけ、「500時間ぐらいカメラ回さないと自分のこと喋らないと思う」と言う。実際に、自分の現状や過去の行いについて本人が理路整然と喋るシーンはどこにもなかった。観ているこちらは、本人の何気ない言葉や仕草から東出さんの考えを逆算するしかない。

狩猟や山での生活に惹かれた理由を問われた東出さんは、東京で俳優として暮らしていた時に感じた違和感を口にする。仕事に追われ、いかに短時間に効率的にこなすかを考えながら摂る食事は「味がしない」。コンビニ弁当の唐揚げもハンバーグも鶏や牛の死によってもたらされたものなのに、そうした生き物たちへの感謝もなく、ただただ無感動に胃に流し込んでいた。
しかし、自分で狩り、自分で捌いた鹿の肉は「味がする」。罪悪感と共に、命をいただいているという実感を持って口にする肉は、食べて生きるという人間の営みを思い出させてくれたという。
この考え方は、東出さんが師と慕う猟師・服部文祥さんの言葉にも現れている。地球上の資源を前例のないペースで消費する人間は、地球にとって癌細胞のような存在ではないか? という発言には、納得するしかなかった。

確かに、都市の中で暮らし、コンビニやスーパーに並ぶ肉や野菜を買って生きる生活をしていれば、自分たちは他の生き物を殺し、命をいただいて生かされているという実感は持てなくなってゆく。それでいいのか? 東出さんや服部さんの問いかけによって、自分の行いが自然や地球に与える影響についてあまりにも考えてこなかったことに気付かされた。

そして、東出さんの言葉からは、現代の日本で俳優として生きることのしんどさも垣間見えた。
東出さんの山小屋を訪れた俳優仲間の女性2人が登場したシーンがあったのだが、2人とも真剣に鹿の肉を捌き、自然の中での暮らしを満喫していた。週刊誌には「山で3人の女優とハーレム生活」という紹介のされ方をしていたが、恋愛関係にあるような雰囲気はなく、友人として関わっているように見えた。週刊誌報道の悪意を感じざるを得なかった。
また、宮地監督が山小屋でカメラを回していた折、作業をしていた東出さんが不意に「俳優は、綺麗にしてなきゃいけない」「自分をよく見せるのが得意な人はいいけど、俺は、もっと素の自分を見せたい」と口にしたシーンもあった。

確かに、俳優はお芝居の技術だけでなく、人間性や素行やファッションセンスなどの点も注目され、優劣をつけられる。映画や舞台で人の心を動かすお芝居ができても、テレビのバラエティで面白い話ができないとか、私服がダサいとか、交際相手が本人のスペックと釣り合っていないとか、仕事と直接関係ない理由でケチをつけられる。事実に基づかないゴシップ記事によって、おかしな噂が流されることもある。SNSが社会に浸透した今では、アンチの発言も検索すればすぐに見られてしまう。
さらに、CMの仕事もしている俳優であれば、パブリックイメージを悪化させるようなことはできなくなる。撮影所や舞台や稽古場から出ても、世間が望む「俳優・東出昌大」でいなければならない。スポンサーや事務所に迷惑をかけないために。

そして、ひとたびパブリックイメージを大きく裏切る行為がマスコミに見つかれば、バッシングの餌食となる。
家や事務所、時には実家にまで週刊誌やテレビ局の記者が押しかける。仕事に行かなければならないのに、アポなし取材の記者がコメントを執拗に求める。見ず知らずの人間がSNSのコメント欄に暴言を書き連ねたり、事務所に抗議したり、嫌がらせのために自宅を特定しようとしたりする。
たとえ俳優やタレントが実際に問題を起こしたとしても、被害者でもないのに制裁を加えようとする一般人の歪んだ正義感には違和感を覚える。週刊誌の報道は、場合によっては俳優や有名人から受けた被害をもみ消された一般人の救済に繋がるのですべてが悪とは思わないが、それでも取材対象のプライバシーはもっと配慮されるべきと感じる。本人とは直接関係ない家族まで追いかけるのはマナー違反だし、週刊誌の読者も記者にそこまで求めるべきではない。

いいお芝居をするために必要な努力なら、俳優として成長するためのステップとして引き受ける必要があるだろう。しかし、お芝居のプロというだけで、世間から減点されないための努力をさせられるというのは、よく考えれば理不尽な話だ。

しかも、辛いと口にしようものなら、俳優になりたくてもチャンスが貰えず諦める人だっていっぱいいるんだから、人より稼いでいるんだから、選ばれた側のお前はそのぐらい我慢しろという批判が湧いてくるのは自明である。

確かに東出さんは、2人の女性と子供たちに対して不誠実なことをした。その責任を取る必要はある。
しかし、それとは別に、東出さんは現代の労働や芸能界の在り方に精神を削られ、眠れなくなるほど追い詰められていた。このようなシステムを温存していいのか? という問題提起は貴重だし、必要だ。
鑑賞後は、自分は芸能人を一人の人間として見られていたかどうか改めて考えている。肉を食べる時は若干背筋が伸びている。

大事なことが語られていない気がする

東出さんは、この企画を承諾した理由について、3人の子供たちに自分の思いを伝えるためだと語った。自分も色々考えて生きているのだと分かってほしい、そんな言葉があったと記憶している。
(詳しい事情は説明されなかったが、恐らく子供と会う機会を与えられていないのだと思う。)

東出さんが子供たちに、マスコミによって歪められた父親像ではなく素の自分自身を見せることを目指したのであれば、それは成功していると感じる。
しかし、東出さんが4人家族での暮らしを壊したことについて子供たちへの説明責任を果たすことを目指していたのなら、残念ながらそれは達成されていないと思う(もちろんそれを判断するのは3人の子供たちなのだが、私が子供だったらそういう印象を持つだろう)。
「家庭が壊れると分かっていながら、なぜ母親とは別の女性と交際したのか」という、最も重要な問いへの答えがないからだ。

不倫について突っ込んだ話がないのは、母親ともう一人の女性のプライバシーに配慮した結果なのかもしれないが、子供たちと丁寧に向き合いたいなら、そのくだりに触れることは必須だと感じる。
誰でも観られてしまう映画で不倫の話ができないなら、本人だけに宛てたビデオメッセージなどの手段で、きちんと経緯を説明し、今後同じことをしないために何をするのか伝えるべきではないだろうか(ただ、映像の送信を含む子供への接触が法的に禁じられているなら、この手段は使えないですね……)。

「プリズン・サークル」の印象的なシーン

このように考えたのは、「プリズン・サークル」内の、更生ってこういうことだよねと強く感じたシーンが頭にあったからだ。
ある少年が、プログラムに参加してしばらく経った時、こんな話をしていた(記憶を元に書いているので実際の言葉と全部同じではないですが、このような内容でした)。

自分は小さい頃、夜の仕事をしているお母さんが、夕方に自分を託児所に預けて行ってしまうのが悲しかった。お母さんは二度と戻ってこない気がしたから。
大人になって、同棲中の彼女が出掛けようとする時、なぜ行くんだとキレてしまうことがよくあった。このプログラムで小さい頃の話をしたことがきっかけで、自分がキレたのは、一人で残されて寂しかった記憶が蘇るからなんだと分かった。
でも、彼女にしてみれば、出かけようとしただけでキレたり暴力を振るわれたりするなんて怖かっただろうし、納得できなかっただろうな。申し訳ないことをしてしまった。

この少年が逮捕されたのは彼女を殴ったからではなく、別の傷害事件によってだった。しかし、それまで他人の痛みにも自分の痛みにも無感覚だった少年が、プログラムを通じて自分の味わった痛みを人と繰り返し分かち合ううちに、人の痛みを想像できるようになった。暴力を振るわれた側がどう感じ何を失うのか想像することを覚えた少年は、もはやかつての少年とは別人だった。この人は、出所して誰かに嫌な思いをさせられても、殴らずに思い留まるのではないかと想像した。
過去に暴力を振るわれた彼女がこれを見たら、ちゃんと自分のしたことに向き合って反省してくれた、と感じるのではないか(少なくとも私がその彼女ならそう思う)。元彼は、自分が暴力を振るった理由をきちんと理解し、それが相手にどれほどのダメージを与えるのか想像できるようになったのだから。彼女が暴力を振るわれたことを思い出しながら「私は無価値だから、雑に扱われても仕方ないのかな」「私がもっと美人だったら、大事にしてもらえたんだろうか」などと自分を責めることもなくなるはずだ。
教育学者・上間陽子も、プログラムに寄稿した文の中で、このように述べている。
「私たちが望んでいたものは、加害者に罪の重さを重さそのものとしてわかってもらうことではなかったか?」

大きすぎる主語に対する釈然としない気持ち

「WILL」に話を戻そう。東出さんは映像の中で、山を歩いたり鹿の皮を剥いだり山小屋の人々と交流しながら、色々な話をする。狩猟の場でする話なので、「自然と人間」のようなテーマが多くなるせいもあるだろうが、東出さんは「人は~」「人間は~」「命は~」というスケールの大きな話をしがちな印象を受けた。「人はみな大河の一滴」とか(五木寛之の影響?)、「人はなぜ過ちを犯し、傷つけ合うのか」とか。

印象に残っているのは、後半の方で、東出さんが一人の女性と山小屋で喋っていたシーンだ。女性に「知らない人からも無神経に叩かれたりして、怒りとか、恨みとかないの?」といったような質問を投げかけられて、東出さんは「自分はもういちいち怒らないことにした」と返した。女性は「それは、おかしいよ」と強めの口調で反論したが、東出さんは「いちいち怒っても無駄だし、気にしない。そういう人は放っておけばいい」といったようなことを答えた。

東出さんのこれらの発言を「達観してる」と解釈する人もいるだろうと思う。
しかし、私自身は、どこか逃げているように感じた。

確かに、憎悪や嫉妬やプライドといった負の感情を持っていない人間はいないだろう。罪を犯したり、傷つけ合う人間も沢山いる。
それでも、何とか人を傷つけないように踏みとどまる人だっている。踏みとどまる人と、踏みとどまれなかった人を、同じ「人間」というカテゴリーで括り、同列に語るのはあまりにも雑だ。

そして、東出さんは、文春の報道が事実であれば、踏みとどまることができなかった。
東出さんが今すべきなのは、「人間」というマクロな視点でものを語ることではなく、ちっぽけな「俺」「私」をミクロな視点で掘り下げることではないのか。
二度と同じことを繰り返さないために、どのような状況で自分はあのような行動に走るのか、どうすればそれを防げるのかを、場合によっては専門家も交えながら模索することではないのか。

また、それをする上で、自分が東京で俳優として生きていた時、不倫に及んだ時に味わっていたストレスを整理することも必要になってくるだろう。
山小屋で女性に言われたように、芸能人に過度な期待をする人々から受けたストレスを振り返ることも、自身が後先を考えない行為に走る時の状況を知る上では意味があるように思う。

一方で、今の東出さんにこれをやらせるのはあまりにも酷だ。
自身の被害や加害と向き合うことは、心理的な安全が確保された状態でやらなければ逆効果になるという。
俳優業を再開した東出さんは、恐らく俳優としてのストレスから完全に逃れられるわけではない。
自分を取り戻すために確保した山小屋はあっても、優しそうに見えたガソリンスタンドのおばちゃんに住所を晒され、もはや完全にプライベートな空間とは言えなくなってしまった。山の人々の中には、人間対人間で付き合うのではなく、東出さんを芸能人としてもてはやす人もいる。つまり、東出さんは現在も、芸能界で器用に生きることを一部の人から要求されているのだ。
社会と繋がっている山小屋は、社会から隔絶された刑務所と同じレベルで安全が確保されているとは言えない。

「人は~」「人間は~」という語りは、もしかしたら東出さんが心を守るために意図的にやっているのかもしれない。自分や周囲の人々が持つ業を見つめてしんどくならないために、見える世界の解像度を下げて凌いでいる可能性もある。
その態度を続けて子供たちへの説明責任が果たせるとは思えないが、精神的な安定を取り戻すためには、問題を保留する時間も必要なのだろうか。
加害者でもあり被害者でもある人をどう捉えるべきか。結論は出ていない。

(そして、これは私の単なる憶測だが、東出さんの状況はこの漫画に近いのかも? と思っている。アルコールや薬物への依存のように、本人の努力だけではどうにもならないような。)

それ以外の興味深かった点

「WILL」は基本的には東出さんのドキュメンタリーだが、結果的に社会問題も映り込んでいる。

東出さんは地元の猟友会に入り、山の麓の農協から依頼を受けて、先輩の会員と共に指定された頭数の獣を駆除する。農家の育てているシャインマスカットなどの作物が鹿をはじめとする野生動物に食べられてしまうと、莫大な損失に繋がるためだ。
しかし、駆除した獣たちは、捌かれず土に埋められる。本来であれば、必要な分だけ殺し、肉や毛皮をいただいて活用するのが狩猟のマナーだが、頭数が多すぎて捌ききれないため、このような扱いになっている。
そもそも獣たちが食料を求めて畑のある山の麓に降りてくる原因は、人間が山に杉ばかり植え、獣たちの餌や住処になる環境を損なってきたことにある。獣を駆除するだけでなく、獣が住める環境の再生も必要なのではないか? そんな問題提起も地味になされていた。

地方への移住の難しさも、リアルに伝わってきた。
猟友会のおじさんたちは、東出さんの車が山道で脱輪してしまった時、みんなで駆けつけて車を車道に戻してくれた。東出さんはこのような絆に感謝する一方で、プライベートな領域に悪びれず介入してくる地元民の態度に戸惑ってもいた。
地元民ではない女性の猟師が、猟友会という男社会における小競り合いについて懸念を口にする場面もあった。
地方の密な人間関係は、人々がお互いに干渉し合わない都会の生活にはない息苦しさを孕んでいる。地方に移住した多くの若者が抱えるであろうジレンマが、映像だと説得力を持って迫ってくる。

突撃取材に来た週刊女性の取材陣2人が、東出さんの提案でなぜか山小屋に泊まって帰る様子は微笑ましかった。
カメラマンの男性が、東出さんの車にサビ取り剤を吹きかけながら(泊めてもらったお礼?)、「何でこんな仕事してるんだって気持ちになったりもしますけど……まあ生活しなきゃいけないんで……(仕事以外で)撮りたいものも特にないっすね……」と語っていたのが記憶に残っている。それでいいのかと思う反面、現実にはこういう風に生きている人がほとんどかも、と気付かされる。さりげなく人生の真実を見せつけられたような。

雪山をゆく猟師たちの姿や、薄暗い山小屋でのストイックな暮らしぶりなどは、映像として美しかった。
銃で撃たれた獣が転げ回る様子や、目を開いたまま死んでゆく様子、腹を割くと現れる真っ赤なはらわたなどは刺激が強かったが、自分はこの作業を精肉解体業の人にやらせているのだと思うと、きちんと直視しなければならないと思わされた。

そして、エリザベス宮地監督の、穏やかであっさりした佇まいが良かった。
答えを誘導したりせず、東出さんやカメラの前にいる人自身の言葉を丁寧に拾う姿勢が印象に残った。

最後に

「プリズン・サークル」を観た後は爽やかな気持ちで映画館を後にしたが、「WILL」を観た後は自分の中に様々な問いや思いが渦巻いていた。対照的な2作品だが、どちらも「償う」というテーマを考えるヒントを様々な角度から与えてくれた。このタイミングで出会えて良かったと感じる。

私自身も、犯罪や訴訟になるような次元ではなくても色々な形で人を傷つけてきたし、今後も傷つけるだろう。
どんなに気を付けても人を傷つけないように生きることは不可能だが、せめてこうした作品に触れて、ダメージを与えてしまった相手への向き合い方、自分が受けたダメージへの向き合い方を学べればと思う。
「償いとは?」という問いに直面した様々な人の生に触れ、その問いを巡る葛藤やその人なりの答えを自分の中にストックしておけば、必要な時に取り出して、自分や誰かのために使えるかもしれない。

そして、完全に「プリズン・サークル」の受け売りになるが、東出さんにも幸せになる資格はあると思う。
一連の出来事と向き合い、同じことを繰り返さない自分になって、生を全うしてほしい。東出さんに傷つけられた人たちがどんな気持ちかは分からないが、私自身はそう感じている。

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