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3.11 あの日が私の原点でした

どうも、ウクモリ ヒロオです。

今週も金曜日まで悔いなく働きました。スマホで出来ることが増えたため、例えば契約書のファクトチェックといったジックリと向き合わないといけない業務を除き、基本的には仕事は極力翌日に残さないよう努力しています。スマホとPCを駆使しながらnoteを書くようになってからは、移動中の時間などを利用し、出来るところまで進めておいて、夕方までに仕上げる・・・noteの執筆活動以外でも、そんなやり方が出来るようになりました。

noteは基本的には出社後、もしくは昼食時に書き始めることが多いのですが、既に習慣化されているため、重い腰を上げて・・・というシチュエーションや、義務感で書くことがほとんどありません。今思えば、2020年10月にnoteを再開した時、「自然体の自分を表現しよう」と決めたことが、とても良かったです。ネタだけは豊富にあるので(笑)

noteの執筆活動のように、前向きに取り組めることが多くなった今、なにかに依存することが少なくなりました。仕事では、主体的に何かを生み出す側に立つケースが多くなり、プライベートでは何がしたいのかを大切にするようになりました。分かりやすい例でいえば、最近はライブに行く機会が再び増えつつありますが、「自分は誰のライブに行きたいのか」を大切にするようになりました。なので、友人と会えずとも楽しめるようになりました。音楽仲間との楽しい時間も大切ですが、皆と合わせ過ぎる必要はないのかな・・・とスタンスが微妙に変わってきています。

今週は浜松に行きましたが、新たな仕組みを創り出すプロセスを楽しみながら、ご縁を広げているので、とても楽しく仕事が出来ています。先日語った通り、共存共栄という言葉に出会ったからこそ、こういった挑戦も出来るようになったことに感謝しています。

こんなことを書いていますが、私は以前はとても依存的で、何か問題が起こると他責にしていた時期があります。あの当時を振り返ると、負の連鎖を自ら引き起こしていたことが、今だから分かります。

私が変わったきっかけは何だったか。
思い出すと、原点は3月11日にありました。

激しい揺れが起こった時、私は中央高速の調布インターから高速に乗るところでした。橋脚が折れるんじゃないかと思いつつも、先を進みましたが、国立インターで一般道へでなければいけませんでした。ラジオを聴きながら、さまざまな被害が出ているのが分かったのですが、甲州街道は渋滞が激しく、会社に戻れたのは4時間経った夕方でした。その間、クルマでテレビを観ながら、衝撃的な映像が幾度に渡って放送されていたことも強烈に覚えています。

帰社したものの、連絡が取れない社員や、帰宅が困難な社員、そして子供と連絡が取れずに取り乱す社員・・・当たり前だったものが目の前でガラガラと崩れてしまった状況に、何も判断出来なかった私がいました。自宅からペットボトルの水を運び、コンビニで社員数分の食料を買ったものの、そこからは各自が危険を犯しながら帰路に着きました。

今だったら、別のことをしていたな

今だから言えますが、依存的だった当時の私には、あの時の日々は文字通り苦行の連続でした。ただ、普段の生活が戻ってくるにつれ、少しずつ状況を判断し、何かしらの決断出来るようになってきました。

今まで経営者として、様々なことを乗り越えられたのは、社員の献身があったからだと、今でも思っています。そして、私が少しずつ決断出来るようになったのも、社員がその分しっかりと支えてくれたからだと。

だから今があります

コロナ禍は毎週のように就業規則や仕事のルールを変え、私が社員のために懸命になれたのも、そんな環境があったからこそです。

今年もあの日が来ます。これまでの災害で犠牲になられた方や、能登で苦しんでいる方々を想いながら、月曜日を過ごそうと思います。

こんなことを語るつつ、今日のnoteを終えたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。感謝!

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