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拙著「小林秀雄論」より

拙著「小林秀雄論」より


「未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも彼はまさしく見たものは見たのである。」又「他界から取って来るものに形があれば形を与えるし、形のきまらぬものなら形のきまらぬ形を与える」(ランボオⅢ、千里眼の手紙)しかない。確かに、形になり得ぬものがある。
 カメレオンは色だけだが形は変容しない。ましてや、人間の複雑な心となればなおさらである。形にならぬ形、ある秘められた実体というものは確かに存在する。小林秀雄がある友人に語ったように「じっと見つめているんだ見て見て、見抜くまで見つめているんだよ、ただ見抜いただけではいけないんだよ。そこまで来たら、さっと底の底まで知りつくすことが出来るようにならなくてはいけないんだよ」と、この地点まで至らねばならぬ。そこまで至ればすでに対語など不用になる、つまり「以心伝心」の境地だからである。

 青山二郎との対談の中で小林秀雄は日常秘めていた本音を語っている、彼は言う「否定する精神なんてないさ。僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後はあすこなんだよ。キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば自分が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。――」
 さらに、「牧師だって絵かきと同じだ。」と。又、「――何のためにパレットを人間が持たなければいけないのだ。絵の具を混ぜなければいけないんだ。どうしてそんなまわりくどい手段を取るのか、キリストみたいに一目でもって人が癒されればいいじゃないか。何んで手が要るんだい、道具が要るんだい、ゴッホはそういうことろまで来たのだよ。だけどそれがゴッホの運命さ、そんなことをゴッホはとてもよく分かっていたのだけれども、どうすることもできなかったんだ。」と。そのゴッホの痛感した、味わった「いかにかすべきわが心」を、小林秀雄も骨の髄まで味わった。
 青山二郎はそんな思いは「あこがれ」にすぎぬと言う。この溝は深い、――小さな円も大きな円も同じ円だからである。ただ青山二郎はそこまでしか見えなかったにすぎぬ、人間存在に対する不信が完全に払拭し得なかったに過ぎぬ。その視点からすれば小林秀雄は所詮「蒸気ポンプ」の煙にすぎないのである。もしくは魚をつる、その手つきだけで、等々。だから小林秀雄としては「――自分の運命を甘受するんだ。甘受するよりしょうがない。考えればそういうところに行くのだよ。」と言わざるを得ない。断わっておくが、青山二郎に友情が無いなどとここで言っているわけではない。むしろ、深く小林秀雄には同情している、ただ、その同情のべールが小林秀雄の真意を汲み取ることが、観ることが出来なかったにすぎぬ。――だから小林秀雄は自分に与えられた運命を「甘受」する、するしかないとしか言えぬ、語れぬ。

小林秀雄は「魂の深淵の旅」の成果を確かめる、再確認の意味をも含めた実験的表現を「近代絵画」で試みた。出来うる限り他者の魂の在り方、意図、心の動きに即して、――魂の遠近法と透徹した科学者の無私の精神をもって。自らの「自我の奥底を覗き込んだ芸術家達」の肖像画を描く。

「マネからゴッホやゴーガンに至る道は、ボードレールからランボオやヴェルレーヌに至る道であった」と。そして、それを日常化する思想家的存在として「ピカソ」を最終章にもってくる。小林秀雄はピカソを自分と似た「宿命」を胸中深く蔵した存在と、観た。ピカソのなかに「自己解体」の果てに至った自己の「断片」をいかに、個人の名において「生命的に統一」するか?と真摯におのれの問題と化した、果した芸術家の魂を観た。観えてなを、それを「宗教の名」において語らず、「体系」の名において語らず「いかに自由に」表現しうるか?と、日常化しうるか?と、――ピカソは「万人の自画像」を描こうとした。その内的歩みにどれほど深く秘められた孤独と、悲哀、絶望がピカソを襲ったか、いかにそれを乗り超える内的努力をし続けたかを、小林秀雄の慧眼はしっかと見抜き、見据えていた。ピカソに対して一番長い文章を必要としたのはそのためである。そこいらの美術評論家の上っ面をなでるような分析的表現とは雲泥の差がある。「近代絵画」は小林秀雄の心が「素裸」のまま、存在と存在が融合しつつ、ぶつかり、火花を散らし、そして「親心の眼差し」で、深い共感をもって現わした、かつてないほど比類なき芸術家の「魂の肖像画」なのである。
 歯ぎしりが楽音に、忍耐が空間へ、悲哀が慈しみに、孤独と苦悩が魂と魂の生きた織物へと、――ついに、毒が薬へと変容する。肉を具えた「同胞」への限りない「深い真面目な愛」が日常の意識と化し、不動のものとなる。次の文章は小林秀雄の批評の極意と言ってもよい。

「セザンヌは、自然というところを感覚と言ってもよかったのである。或は感動とか魂とか言ってもよかったであろう。感覚を解放するとか純化するとかいう事は、感覚から感受性を隔離するということではない。そういう工夫は、感覚に対する言わば外的注釈にすぎない。在るがままで、自足しているが、望めば望むだけいくらでも豊かにもなるし、深くもなる。そういう感覚はある。画家たらんと決意すれば立ちどころにある。静かに組み合わせ、握りしめた両手の中にある。一方の端は、自然に触れ、一方の端は、心の琴線に触れていて、その間に何の術策も這入って来る余地はない。大事なのは、この巧まない感覚の新鮮な状態を保持し育成する事なのだ。彼の言葉に従えば、油断すれば、あらゆる言葉となって、行動となってばらばらに散って了う、この不安定なものを繰り返し、静かに両手のうちに握り合わす事なのだ。『いつまでも、自分の開いた道の原始人に止まろうと努める事なのだ』。自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事だ。セザンヌの実感或は信念よりすれば、自然にも心の琴線があるという事である」(拙著「小林秀雄論」より抜粋)

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