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【よしなしごと】配慮疲れの世の中に

最近なんだか、生きづらくなったなと思わないだろうか。

特に、30代以上の昭和〜平成初期生まれの方に問いたい。

私たちが子どもの頃、何の疑いもなく生きてきた世の中の常識が、ここ数年で激しく変化しているように感じないか、と。

変化が嫌なわけではないのだが、何が問題かというと、「配慮疲れ」だ。

もちろん配慮がないことによって今まで苦痛に感じ被害を受けてきた方がいることはわかる。

でもそう感じる人もいるから、と何でもかんでも制限していたら、本当に何も言えなくなってしまう。

私が特に「疲れ」を感じるのは、子どもにまつわる話。

私はずっと子どもが欲しくて、望んで妊娠・出産した。
結婚してからなかなかできなかったから不妊治療クリニックにも通い、流産も経験して、やっとの思いで愛しい我が子に出会えた。

でもそれは別に世間がそれを推奨しているから、一般的とされているから、そうしたわけじゃない。
子どもを持つ方が少数派であっても、私は堂々と子どもが欲しいと言い、実行していたと思う。

それなのに、最近はそれが当たり前とされるのを嫌う風潮が大きくなってきたばかりに、逆に子どもに関することを発言しづらくなってきているように感じる。

結婚や出産はおめでたいことである、というのは昔も今も変わりないのではないか?
出産に至っては、母子共に命懸けの出来事で、奇跡みたいなもので、成功は客観的に見て喜ばしいもののはずだ。

ところが、自分が単純に子どもが嫌いだからとか、望んでも子どもができないからとか、自分の状況によってそれが叶わないからと、それが叶った人のことを呪うような発言をする人がいる。
そういった人の気分を害するから、と嬉しいことも飲み込ませる圧力が最近よく感じられる。

嫉妬するのは仕方ない。心の中は自由だ。
だからといって、それに対する配慮を他人に求めるようになったら、キリがない。
「嫉妬しちゃうからその話しないで!」が主流としてまかり通っていいのか。

このように、今まで抑圧されてきた側の意見が注目され、黙って飲み込んできた人たちが一斉に賛同して押し上げ、市民権を獲得する。
それ自体は悪いことではないし、各種ハラスメントのようにそれが対策されることによって明らかに弱者救済になるというか、加害被害が明確で被害者を守るものになるのであれば、推奨されるべきムーブメントだと思う。

でも、基本的には良いことなのに、個人の感覚の問題で、自分が好ましく思わないものに対して見たくも聞きたくもないからと他人の好むものを否定して弾圧するのは、少し横暴ではないだろうか。
見たくも聞きたくもなければ、自分が遠ざかればいいだけの話だ。

これは特にSNSで顕著に見られる。

「誰かの推しは誰かの地雷」
以前どこかでこんな文言を見かけた。
全くその通りで、だからこそお互いに好きなものは否定せず自衛してうまく棲み分けしましょうね、ということだろう。

しかしこの「自衛」とか「棲み分け」とかができない人間が、自分と合わないものに対して攻撃的になる。
好きなものを発信しているだけの人に対して、平気で「それ地雷です。消してください」とか言ってのけるのだ。

私は早く子どもがほしいけどなかなかできなくて不妊治療クリニックまで通っているのに、自分より後に結婚してすぐに子どもができた後輩を何人も見てきたが、その人自体に嫌悪感を抱いたことはない。
「なんで自分はできないんだろう…」とつらくはなるし、なるべく見ないようにしようとは思うけれど、あくまで自分の心の中の問題であって、他人を責める問題でもないし、子どもが生まれること自体は喜ばしいと思う。

流産を経験した時も、手術後ちょうど数人で飲み会があり、気晴らしになるかと思って参加したが、その中の一人が妊娠して既に安定期に入っていることを知り、気持ちがぐちゃぐちゃになった覚えがある。
でもその人に対して悪く思う気持ちは湧かない。ひたすら自分が話の中でうまく笑顔が作れているか、発言は周りを気遣えているかを気にして、精神的に疲れはしたけれど、それも自分の中で完結する……させるべき問題だ。

「自衛」の仕方は色々ある。

聞きたくない話題なら、あまり反応しないとか、その場から離れるとか、別の話題に逸らそうと自分から話を振るとか。
SNSなら察知した瞬間よく見ずにスルーするとか、そもそもミュートなどしておくとか。
信頼関係を築いていて、何でも話せる相手であれば、正直に事情を話して避けてもらってもいい。
そういう関係であれば、話題に出して乗ってこない時点で少しは察してくれると思う。

そもそも自慢にもとれる内容であれば、できた人間なら自分から進んではしないだろう。
話し方で周りの印象も異なるはずだ。
でもその人にとって単純に嬉しいことがあって、ちょっとした報告であれば、その人が好きなら、素直に喜べるのではないだろうか。

多分私の感覚は、それこそ最近糾弾されている「昭和」に近いものがあると思う。

それに染まっているというよりは、別にそれを当然とも思わないがそれに対して別に嫌悪感も抱かない、というところだ。

結婚・出産に関して、よく目にする、周りのこういう言葉が嫌だ、と言われている言葉が、別に気にならない。
例えば、結婚したらすぐ子どもは、とか、2人目がどうとか。
自分が今は望まないとかならさらっと流しているだろうし、実際はすぐ欲しかったからなかなかできなくて〜くらいに言ったり、2人目も希望しているのでその体で話されても特に違和感なく話を進めてしまう。

おそらくそういうのに嫌悪感を抱くのは、プライベートでセンシティブな問題に干渉してくるのが嫌なんだろうと思う。
でも私は答えるのが嫌なら言わないだけだしあまり繊細な心を持ち合わせていないので平気だ。

それに、相手にもよると思うが、幸い私の周りには悪意を持ってそういうことを言う人はいないので、できるだけ相手にとって気持ち良い応答をしたいと考えると、自然と素直な言葉が出てくる。
「昭和」にも対応できてしまえるのだ。

どちらが正しいとか言うつもりはない。
なるべくなら人が傷つかない方がいいとも思うし、悪しき慣習は淘汰されるべきだと思う。

ただ、お互いを縛りあってどんどん窮屈になっていくこの世の中の動きに関しては、なんだかな、と思ってしまう。

だからといって何ができるわけでもなく、きっと同じ思いを抱く同年代以上の人とひっそりノスタルジックな気持ちを共有するだけなんだろうが。

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