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投資#182 学び残し感が学習意欲をそそる


書籍の情報


タイトル:昭和史 松本清張と私 大正末期~二・二六事件
著者:渡部昇一
出版社:株式会社ビジネス社
発行日:2005年12月14日

書籍の抜粋


共産党のこうした動きに応じてつくられたのが治安維持法でした。最初につくられたのは大正十四年(一九二五)、加藤高明内閣のときのことです。それまでは日本政府もまだ、ソ連の世界政策の恐るべき全貌をよく知らなかったといえます。
ただし前述したように、最初につくられた治安維持法に死刑はありませんでした。昭和三年(一九二八年)、田中義一内閣のときの改正で最高刑が死刑になりました。このころになると、ソ連が何を企んでいるのか、コミンテルンが何を意図しているのか、また日本共産党が何を狙っているのか、そのあたりがだんだんはっきりしてきたからです。
すなわち、天皇を無くそうというのが第一目標だということがわかってきたので、日本政府としても対策を迫られ、昭和三年の改正で治安維持法に「死刑」を入れることになったのです。
このあたりの解釈について松本さんは、《のちの田中内閣によってこの治安維持法がさらに改正され、死刑を含む重刑になるのだが、この背景には満州と中国東部侵略計画の進行がある》と書いていますが、私には納得がいきません。
やはり、敵(コミンテルンや日本の共産党)の恐るべき姿がしだいにわかってきたから日本政府も対抗措置を取るようになったのだと解釈するのが、日本人としてはふつうではないでしょうか。しかも松本さんの論は、治安維持法で死刑になった人はひとりもいなかったという重要な面に一言もふれていません。
そうなのです、治安維持法で死刑になった共産党員はひとりもいませんでした。これこそ、日本という国の特色というべきでしょう。
元首の地位を奪おうという大逆罪に対してすら、取締りと司法の現場では死刑を適用していません。そんな穏健な姿勢が日本の風土にはあったのです。そしてそれが日本の国柄(くにがら)となっていたのです。
こう書くと、すぐ小林多喜二の名や『日本資本主義発達史』(岩波文庫)を書いた共産党委員長・野呂栄太郎(のろえいたろう)の名を出してきて、「彼らは治安維持法で殺されたのだ」という反論が飛び出します。
しかし野呂栄太郎は重症の肺結核でしたから、どこにいたって死んでいたのではないでしょうか。たまたま獄中で病状が悪化して北品川病院に運び込まれ、そこで死んだというのが事実関係のすべてです。
また小林多喜二が取調べの最中に死んだことはたしかですが、死刑になったわけではありません。取調べにあたった築地署の係官も殺すつもりなどなかったはずです。
繰り返せば、昭和三年の改正以降、治安維持法には「死刑」の条項があったのです。したがって合法的に死刑を宣告し、合法的に死刑に処すこともできました。それなのになぜあえて死刑を適用せず、世間から指弾を受けかねない「虐殺」を行う必要があったというのでしょう。
重要なのはあくまで―死刑になった共産党員・アナーキストはいなかった、という点です。本章で何度か言及した田中清玄氏は武装共産党を指導し、逮捕され、そして転向した元日本共産党委員長ですが、その『清玄血風録』の連載のなかでこう書いています。
《共産党を非合法化した国で、死刑が一人も出なかったのは日本だけだ。韓国、北朝鮮、中国、共産ロシアで、われわれのような激しい反体制活動を左右を問わずやって見ろ、すぐ逮捕、そして銃殺だ》(第六回)
《だれが「治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない》という最高方針を決めさせたのであるか。(中略)
当然「人」が吾々を死刑から救ってくれたのだ。(中略)自由主義的かつ国際的視野と知識を持った中堅・若手の検事団であったのである》(同上)
田中氏の記述によれば、田中義一首相や革新将校、その尻馬に乗る右翼は、国体護持の立場から共産党員の大量死刑を申し入れてきたこともあったそうです。しかし、「治安維持法からひとりの死刑も出さない」と申し合わせてきた検事団は、そうした要求をすべて撥ねつけたといいます。

第6章 日本共産党の問題
治安維持法で死刑はひとりも出なかった

感想


昭和の時代に入ると
学校の歴史の授業は
小中高いつも、
加速していきます(笑)

現代に到着するまで、
終わらせなければならない
からだとは思います。

さて、教科のなかでも「歴史」は、
好きな部類でした。
特に、日本史は、です。

日本史が好きな人は、
上を見たらきりがないし、
下を見てもきりがない
でしょうけれども。

恐らくテストによく出る
のだとは思いますが、
治安維持法についても記憶が
あります。

治安維持法の部分を習って、
第二次世界大戦に向かう中で
世の中が暗くなって
来たなと印象を持ったのを
覚えています。

小林多喜二は、取り調べ中に
なくなったのですか。

治安維持法ができたから、
取り調べられたとの因果関係は
あるでしょうが、

治安維持法で死んだとは
言えなさそうですね。

「治安維持法からひとりの
死刑も出さない」と
申し合わせてきた検事団

があったとは知りませんでした。

この部分は歴史の教科書に
書いてあるのですかね?

また、治安維持法で死刑は
ひとりも出なかった

ということも書いてなかったのかな。

少なくとも記憶にございません
程度なのですが。

人それぞれとは思いますが、
アラフォーになって、
再度、歴史に興味を持つもの
なのですかね。

特に、授業がさっさかと
進んでしまった部分は、
何か学び残しがある感じがして
調べたくなってしまいます。

きっと、明治時代以降は、
そうなんだと思いますが、
令和に近くなればなるほど、

学校で学んだのは平成の時代
でしたので、
平成に近くなればなるほど、

学びたくなりますね。

現代社会という科目が
あったのでは?

という指摘もありそうですが、
こっちは・・・・。

ひとまず、まとめます。

まとめ

学び残し感が学習意欲をそそる


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