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老いて、病んで、生きる。過酷な選択肢と、明確な境界線。

私には、年の離れた姉がいる。

姉妹ではあるけれど、同じ家で暮らしたのは私が10歳のころまでだから、共通の思い出はとても少ない。

幼なかったころの、姉からの意地悪な仕打ちや、無視されて悲しかった記憶は、私の中で長い間、封印されていたけれど、人生に迷い、生きることが苦しくてたまらなくなった時、うつ病と一緒に生々しく蘇った。

けれどもやがて年月とともに、それらの出来事さえも風化し、私は姉のことを、憎むわけでもなく、かと言って許すわけでもなく、つかず離れず一定の距離を保って生きていく術を身に着けた。

最近では数年に一度、顔を合わす程度の付き合いだった。


姉は昨年、ステージ4の癌を告知されて、定期的な抗がん剤治療が必要になった。

そして急な体調の悪化で仕事を失い、収入が減少し、住まいを移らざるを得なくなった。けれども環境の変化に適応することは難しく、一人暮らしのアパートで途端に心を病み、やがて生活は破綻した。


癌の治療を受けている総合病院には精神科がなく、精神疾患の疑われる患者は受け入れてもらえなかった。

紹介を受けて精神科の専門病院を訪ねると、「当院では癌の治療が行えない」「ステージ4の場合、急変する可能性があり、救命等の対応ができない」などの理由で断られ続けた。

いくつもの病院を訪ね、事情を話して懇願し、ようやく受け入れてくれた精神科病院に入院できたとき、私たち親族は本当にほっとした。


統合失調症の診断と、ステージ4の癌。姉はおよそ半年の間、二つの病院を行ったり来たりした。

総合病院の主治医は、癌治療はあくまでも通院が基本であり、現状では入院治療の必要はないと、にべもなく言う。精神科病院の主治医は、もう入院治療の必要のないところまで回復したからと、退院を勧める。

姉の暮らしはまた、振り出しに戻った。


困り果てた私たちに、精神科病院から提案があった。

当院の別の病棟でなら、自立に向けての入院治療を行えます。ただし現在、大部屋は空いていません。室料1日3000円をご負担いただく二人部屋しかありませんが、いいですか?

1ヶ月約90000円を、保険診療とは別に自費で負担するということだ。それ以外にも食費や洗濯代など、実費徴収される項目が多数あり、入院費は大きく膨らむ。

本人は思考が停止していて、どうしたいかと聞いても、わからない、わからないと繰り返す。

大部屋が空き次第に移ることを前提に、私たちは承諾した。そうするより他なかった。


その病棟には、ほとんどが寝たきりの重篤な患者ばかりが収容されていた。一日中、大声を出す人、ヒステリックにわめく人、ずっと独り言を言い続ける人。動けない人のところへは、ひっきりなしに看護師や職員が出入りして声をかける。

それは、家族の手には負えない、重度の精神障害、身体障害の患者を、差額ベッド代という名目で割り増し料金を請求し、いわば社会的入院させる病棟だった。

嫌なら出るしかない。けれども他に、受け入れてくれる病院も、施設もない。

一人暮らしのアパートで、自費で介護ヘルパーを頼みながら、途方もない孤独と苦しさとともに生きるのか。

大きな自己負担をして、阿鼻叫喚の地獄の中で、身の回りの世話をしてもらって生きるのか。

姉には、あまりにも過酷な選択肢しか、残されていない。


通院の付き添いを頼んだ家政婦さんが、詳しい事情を何も知らず、無邪気に、「姉妹っていいですね。いくつになっても寄り添って、助け合うことがてきて」と笑う。

「さっきおっしゃってたんですよ。妹が産まれた日のことを、今でも覚えてるって。すごく可愛かったのよって」


私は、不意に胸が詰まる。

その言葉は、その思いは、きっと真実だ。

けれども後に、私を疎んじて、からかい、いじめた心根もまた、真実だ。


私は苦しみの中で、境界線を引くことを学んできた。だから今、できることと、できないこととを明確に分けて考えることができる。

私は親族として、事務的な手続きをすべて引き受けている。

市役所、保健所、地域包括センター、社会福祉協議会、家政婦紹介所と、思いつくところはすべて訪ね、公的に受けられる援助を調べて申請した。身元保証人のサインもするし、印鑑も押す。

けれども決して、同居はしない。介護もしない。

そんな妹を、表立って責める人は、今はいない。皆一様に理解を示してくれる。そのくらいには、社会は変わってきたのかもしれない。


けれども⋯⋯、と、ふと思う。

あれは、近い将来の私の姿ではないのか? 自分の将来は決してこうではない、と言い切れる人など、果たしているのだろうか?

今よりもっと年老いた時の、私の選択肢が、そんなに豊富に用意されているとは到底、思えない。結局は、最悪か、とことん最悪か、の二択しかないのではないか。

ぼさぼさの白髪頭で、皺くちゃのシャツを着て、看護師さんに手を引かれ、よちよちと歩く。姉の後姿は、実年齢よりもずっと年老いた老婆に見えた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。