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抱きしめたい

遊園地の野外ステージで、子どもたちと一緒にヒーローショーを見ていた。遠い昔の、とても暑い夏の日のことだ。
世界征服を企む悪の組織が登場し、いかにも怖そうな首領が宣言する。
「ここに集まっている子どもたちを、今からさらってしまうぞ!」

手に持ったソフトクリームを舐めるのも忘れて、息子は息を呑み、恐怖のあまり強張った表情でステージを見つめている。
すると、進行役のお姉さんが
「さあ、みんな、大きな声で力一杯、ヒーローを呼びましょう!」

ぽたぽたと滴るソフトクリーム。息子は一生懸命、切羽詰まった大きな声でヒーローの名を叫ぶ。表情は真剣そのものだ。
やがて颯爽と登場したヒーローは、次々と華麗に悪の組織を倒していく。
「みんなの勇気のおかげだよ!」
会場中の子どもたちが喝采し、歓喜の声を上げた。

その光景に息子は安堵しつつも、まだどこか不安げな怯えた表情を浮かべていた。
私はなぜか無性に切なくなって、苦しくて、泣きそうになる。息子の小さな手を、ただギュッと握りしめた。


ドラマや映画を見ていると、夫婦や恋人、親子が、公衆の面前でハグし合うシーンがしょっちゅう出てくる。
時代設定が現代ならともかく、戦前の昭和初期や、時には戦国時代を描いた時代劇においても、主人公たちは何度も互いを抱きしめ合う。
この時代の日本で(何なら、ごく最近まで)そんな文化はなかったでしょう? と、小さな違和感を感じつつも、見ていてやっぱりじーんとする。

私は長年、身体接触が苦手で、気軽にボディタッチする人にはどこか馴染めず、無意識にそういう人を避けてきたように思う。
最近になってそれが、発達性トラウマ障害の後遺症による親密性の回避なのだと判明した。

子どもたちが幼い頃には人並みに、一日に何度も抱っこしたけれど、そのほとんどが移動や運搬の手段だった。そうしてそれもせいぜい、子どもたちが小学校に入る前までのことだった。
もっとたくさん抱きしめれば良かった、と、今になって思う。
辛い時や悲しい時はもちろん、何気ない日常の中で、たくさんたくさん抱きしめれば良かった。


今年もまた、年末年始に子どもたちが帰省した。
何か必要なものはある? と尋ねると息子は、部屋の照明の豆電球が点けられない、と言う。
聞けば、高校生の時に紐を引きちぎってしまって以来、家を出るまで何年もずっと困っていたらしい。
息子は幼い頃から暗闇が苦手で、寝室には常夜灯が必要だった。

彼以外はその部屋で眠らなかったので、豆電球の紐がちぎれていることなど、私はまったく気付かなかった。
そういう訳で初売りの家電量販店に出かけ、リモコンで調光操作のできる新しい照明器具を買ってきた。息子は取り付け説明書をちらと見ただけで、ものの数分で付け替えてくれた。


もっと早く言ってくれればいいのに……と言いかけて、私は口ごもる。
ついこの間まで私たちは、気安くそんな会話ができる関係性ではなかったのだ。目立った暴力や罵詈雑言がなくなっても、長いこと息子は、私たち両親を無視し、関わりたくないオーラをギンギンに発していた。

一度壊れた関係を修復するのは、並大抵のことではない。それは例えば、豆電球の一つを点すような、ほんのささやかな明かりから、時間をかけてゆっくりと光と温度を広げていくようなものなのだ。

思えば息子は、あの幼い日に、悪の組織にさらわれそうになって怯えていた、あのままの感受性で、思春期の荒波を生きてきたのかもしれない。
世界は常に悪意に満ちていて、傷付いた痛みはあまりにも大きく、すべてを怒りに置き換えて、ただ親へ投げつけることしかできなかったのだろう。

すでに私の身長を追い越し、顔つきもすっかり変わってしまったけれど、息子は時折、驚くほど幼い頃と同じ表情をする。
楽しそうに笑った顔も、少し不安そうな横顔も、安堵した時の目の感じも、どれもみな、私のよく知っているものばかりだ。


上の娘は、職場の人間関係に悩み、転職を考えて行き詰まり、先日とうとう体調を崩してしまったのだという。
それらの経緯を私は、お正月に顔を合わせて、はじめて聞いた。娘は、まあまあ大変だったんだよ、と薄い笑みを浮かべている。

「その時、言ってくれれば、すぐに行ったのに」
と私が言うと
「お母さんが、言えばすぐに駆け付けてくれるだろうなってわかってた。だからそれは、最後の切り札かなって」
「そんなカード、大事に取っておかなくてもいいじゃない。何度でも使ったらいいのに……」
そう言いながら、私はやっぱり泣きそうになる。

娘は仕事の都合で、一足先に帰ることになった。
食事を終えて駅まで見送った時、私は、今しかない、と勇気を振り絞って、思い切ってハグをした。
無性に照れ臭くて、無駄に背中をポンポンと叩く。お互いにダウンジャケットを着ていたから、もこもこしていて、何だかよくわからない手触りだ。

会社に残るか、辞めるか、の二択じゃなくて、これから先どう生きたいかを考えてみて。答えは必ず見つかるよ。
私は耳元で、大丈夫と囁いた。
自分自身にも言い聞かせるように。何度も。


息子には、さすがにまだ、ハグはできない。
何しろやっと、豆電球が点いたばかりなのだから。






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