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老いて、病んで、生きる①

友よ
みだりに世を嘆き 世をはかなむな
人と生まれ 人と生きる
それぞれの道に それぞれの悲しみ
それぞれの道に それぞれの苦しみ
友よ
しかしみんな生きてきた道
みんな歩いてきた道
君ひとりだけが 疲れたもうな

作者不詳の詩

私には、年の離れた二人の姉がいる。

長女と次女は一歳違いなので、一緒に仲良く遊んだり、おやつを分け合ったり、時には掴み合いの喧嘩をしたり、良くも悪くも姉妹らしく育った。

けれども、私は違った。
物心ついた頃には姉たちは、すでに中高生になっていて、私が10歳になるまでに二人とも独立して家を出た。
思えば私にとって二人の姉は、時折り気まぐれに遊んでくれる「親戚のお姉さん」のような存在だった。

近年になってある日、長く疎遠にしていた長女から突然、連絡があり「生活が破綻したから助けてほしい」と頼まれた。
長女に子どもはなく、夫とは随分前に死別していた。
その日から次女と私は、「唯一の親族」として、長女の暮らし全般に深く関わることになった。



私は昨年、長女がステージ4の癌を宣告され、さらに統合失調症と診断されて精神科病院へ「医療保護入院」したのち、いわゆる「社会的入院」をするまでの経緯を書いた。

これは、その「社会的入院」から、三か月ほど後の話である。



長女の入院している精神科病院から連絡があった。
「お姉さんが退院を希望されています」
「自立に向けて、とても意欲的です」
「統合失調症については、すでに入院治療の必要のないレベルにまで回復しています」

次女と私は、半信半疑で病院に向かった。
投薬治療の効果なのか、最後に会った日と比べると、長女はとても元気そうに見えた。
思考が停止して、あれほど「わからない。わからない」と繰り返していた人が、見違えるようにハキハキと話している。

「アパートに戻って、一人で暮らしてみようと思うの」
長女は、そうはっきりと言った。
「週に二回くらい、ヘルパーさんに来てもらって。訪問看護もお願いして。あとは自分で、やっていけると思う」
次女と私は、思わず顔を見合わせた。

退院カンファレンスには、病院のソーシャルワーカー、地域包括支援センターの職員、ケアマネージャーも同席していた。

長女は抗がん剤治療のため、総合病院へ隔週で通院しなければならない。
精神症状が完全に消えたわけではないから、新たな精神科クリニックへの通院と、服薬も欠かせない。

介護ヘルパー、訪問看護、通院介助の家政婦、お弁当の宅配サービス。
ケアマネージャーが長女のために最善を考え、できるだけ費用を抑えて、一週間の介護スケジュールを組んでくれた。

次女と私も、関係機関への連絡、通院の付き添い、一人ではできなくなっている金銭管理などを分担し、不安もあったけれど、ともかくやってみようと同意した。
元より、長女が自立して暮らしてくれることを、私たちは、誰よりも望んでいたのだから。


そうして迎えた退院の日。
病院長をはじめ、主治医、担当看護師、病棟看護師、ソーシャルワーカーらが総出で見送ってくれる中、次女の夫の運転する車に荷物を積み込み、長女は笑顔で手を振って病院を後にした。

「早速だけど今日の午後、ケアマネさんとヘルパーさん、訪問看護ステーションの担当者さんが来るからね」
車中でそう話すと、長女はさっきまでの笑顔を一転、曇らせ、険しい視線を向けた。
そして、
「どうして? 何しに来るの?」 
と、不服そうに聞く。
「⋯⋯どうしてって⋯⋯すぐに動いてもらうためには、契約書のサインをまとめてした方がいいでしょう?」
私がそう言うと
「⋯⋯契約? サインなんてしません!」
と長女は、怒気を孕んで言い放った。

途端に、車内の空気が凍り付いた。
私も次女も一瞬、言葉が見つからない。

「⋯⋯お姉ちゃん、どうして契約しないの?」
ようやく次女が、そう聞くと
「あんな所、早く出たかったから、ヘルパーさんとか適当に言っただけ。家に他人が入り込むのは嫌。お金を払うなんて勿体ない!」
長女は悪びれることなく、そう言う。


私はとても、気分が悪かった。
今にも大声で怒鳴りつけたい衝動に駆られる。
それを何とか我慢しながら私は、長女が精神科病院に入院することになった一年前の日のことを思い出していた。

その日長女は、予約の時間を過ぎても、抗がん剤治療の病院に来なかった。
アパートへ引っ越して、一人暮らしをはじめてから二か月。
そして最後に私たちと話してから、三週間近くが過ぎていた。

その間、次女と私は毎日のように、長女へメールを送り、電話にメッセージを残したけれど一切、返事はなかった。
アパートの集合ポストには郵便物やチラシがあふれ、しつこくインターフォンを鳴らしても応答がない。
合鍵を預けることを頑なに拒んだのは、長女本人だ。
私たちは、最悪の事態も想定しなければならなかった。

管理会社に紹介してもらった鍵業者が、
「万が一、亡くなっている場合には、決して手を触れず、すぐに警察に連絡してください」
と念を押す。
「残念ながら、近頃こういうケースは増えています」
と慣れた様子だった。

業者に鍵を壊してもらい、腐臭がしないか確認しながら、恐る恐る部屋に入る。
すると長女は、別人のように瘦せこけて、汚れた姿で布団にくるまって、震えながら泣いていた。

監視されている。盗聴、盗撮されている。情報が集められている。逮捕しに来る⋯⋯と、長女は嗚咽する。

水道水は(毒があるから)飲めない。
食事は(お腹が痛くなるから)食べられない。
お風呂は(怖くて)入れない。
電子レンジは(爆発するから)使えない――。

長女を受け入れてくれる精神科病院を探して、私たちは奔走した。

あの日の記憶は、次女にも私にも鮮明に残っていた。
いくら病状が回復したとは言え、たくさんの人の手を借りなければ、長女の生活が成り立たないのは明白だった。
そして、支援を受けることが今日の退院の条件でもあった。

今回の退院は間違いだったのかも知れない――。
ふと、そんな思いがよぎったけれど、今更もう、後戻りはできなかった。

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