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負け犬の遠吠え 大東亜戦争36 マリアナ諸島の戦い③サイパン島陥落

1944年6月19日に日米機動部隊の決戦「マリアナ沖海戦」が行われていましたが、その間、サイパンの日本軍残存兵力(推定15000名)は来るはずもない補給と援軍を信じてタポチョ山に防衛線を構築していました。

米軍のサイパン攻略の一次作戦は「アスリート飛行場の占領」二次作戦は「日本軍残存兵力の殲滅」となっていました。

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6月22日、態勢を整えた米軍はいよいよタポチョ山の防衛線に攻撃を仕掛けます。

米軍はしらみつぶしに砲撃を行い、切れ目なく並んだ歩兵を進めて火炎放射で全てを焼き払い、戦車で全てを吹き飛ばしました。

日本軍にはもはや武器も弾もありません。

爆薬を背負って戦車に飛び込み、命と引き換えに爆破して行動不能にします。

またある者は至近距離から手榴弾を投げつけて接近戦を挑むのでした。

この頑強な抵抗に米軍は一向に進軍する事ができず、数千名の死傷者を出したタポチョ山の渓谷は「死の谷」と呼ばれる事になります。

米兵の死体袋は山のように積み上げられ、埋葬が間に合わず沖合で水葬されたそうです。

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6月24日までは日本軍の必死の抵抗の甲斐あって、タポチョ山山頂を死守していました。

このため、米軍のH・スミス司令官が陸軍少将R・スミスを解任し、お互いに非難しあう「スミス対スミス事件」が起こるほどで、日本軍の抵抗がいかに凄まじかったのかを物語っています。

25日、度重なる米軍の攻撃で次第に兵力を失っていた日本軍は、味方将兵の遺体を収容する余裕すらなくなり、戦場には遺棄された遺体がめだつようになってきます。

日本兵の投げた手榴弾に覆いかぶさって仲間を救ったハロルド一等兵のような者も出てきたように、米軍も必死でした。

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26日、遂にタポチョ山は米軍によって占領され、日本軍は兵力の8〜9割を失い、組織的な先頭は困難になってしまいました。

タポチョ山をめぐる戦闘だけで、米軍の死傷者は4000名近くにのぼったと言われています。

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6月28日、米軍はサイパン最大の市街地ガラパンを攻撃します。

残存日本兵は建物を利用して白兵戦を展開し、三日間飲まず食わずで戦い続けましたが、やがて全滅しました。

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遂に日本軍は7月7日、全軍で玉砕突撃する事を決定します。

陸海軍のみならず、警察官や一般邦人も混じった3000名の混成部隊の中には武器がない者も多く、棒に銃剣をつけたり、石を持つ者もいました。

この情報を得て警戒を固める米軍に、日本軍の突撃が開始されます。

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米軍は一斉射撃を加えて日本兵はバタバタと倒れていきますが、戦友の死体を乗り越えてひるむことなく突撃する日本軍に飲み込まれ、なんと第一線を突破されてしまいます。

結局、退却して体制を整えた米軍によって日本軍は全滅させられましたが、米軍にも658名の死傷者が出ました。

こうして、サイパン島での日本軍の組織的な抵抗が終わったのです。

日本軍の戦死者は3万人以上となりました。

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サイパン島の基地にはB29がずらりと並べられ、日本本土への爆撃が可能になりました。

将棋でいうなら「詰み」です。日本の敗戦が確定したのです。

しかし「このぐらいにしといたるわ」という考えは連合国側にはありませんでした。

これ以降の戦闘は、連合国による「オーバーキル」であるという事を訴えさせていただきます。

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