見出し画像

祖父が歩いた支那事変〜行軍〜

蕪湖を発った祖父は、小さい汽船に乗って揚子江の対岸に渡りました。

そして和県、含山城、巣県と次々に占領。

祖父はその快進撃の道中、内地の十三連隊で訓練していた頃の事を思い出していました。

ーーーーーーーーー

出征前のある時、内務班で忙しく仕事をしていると、「四月生まれの者は講堂に集合」と声がかかったのです。

祖父は四月八日生まれでした。

驚いて二階に飛んでゆけば、四、五名の兵隊が集まっていました。

すると、砲隊長のS吉大尉が各自の湯飲みに自前の水筒から、手づから酒を注いでくださるのでした。

S吉大尉は月初めに、誕生月の兵隊の誕生祝いをしてくださっていたのです。

「皆それぞれの故郷の方向に向かって、父母上にお礼申し上げる」
と言われては、兵隊達は父母恋しさと、隊長の温情に、涙と共に湯飲みの酒をぐーっと呑み干したものでありました。

ーーーーーーー

そして今、今年の誕生日は討伐戦に明け暮れる日々の中で、その忙しさに忘れ去られていたのでした。

巣県から先は山岳地帯になっており、時折石畳の上を歩くこともありました。昔ながらの文明の高さを感じたものでした。

山を乗り越え、河を渡り、畑をつききって進み続けると、立派な城壁が見えました。

盧州城です。

祖父達はわずかばかりの抵抗を受けるも、難なく占領に成功しました。

敵の城を占領する事は、北支戦線の保定占領以来、すっかり慣れっこになっていて、その要領は「敏速、果敢、焼かず、犯さず」という事になっています。

ほとんど逃げる敵との時間の差がなく入城するのですが、常に敵兵の姿を見失ってしまうのでした。

必死で逃げるので、その早さは理解できるとしても、実際のところは直ちに武器を隠して、住民に早替わりしていたとしか考えられないのです。

盧州城でも、占領の次の朝には治安維持会が出来上がって、日軍歓迎を打ち出していましたが、案外にもタバコを悠然とくゆらせていた主要人物こそが支那軍の将校であったのかも知れないのです。

戦地においては、「戦闘員と非戦闘員の区別」をつける事は非常に重要です。

沖縄戦では、民間人と日本軍が同じ地域内で行動したため、米軍は避難する民間人の列に容赦なく機銃掃射を加えました。

ベトナム戦争では、ゲリラ戦術を展開するベトコンに対して米軍は村ごと焼き払い、全滅させました。

戦闘員と非戦闘員が混じっていたら、容赦無く全員殺されてしまうのが普通なのです。

米軍と比較しても、祖父達日本軍は非常に紳士的な対応をしていたのだと思います。

さて、相変わらず祖父達の進撃速度は速く、正規の補給が追いつくはずもありませんでした。

国民党軍が逃げ去った後の村々から食料を手に入れるしかなかったのですが、祖父達はこれを「蒋介石給与」と呼んでいたようです。

米はだいたい、民家の軒先に吊るされているものを拝借し、家庭菜園で作られていたキュウリなどを副食にしていました。

確かに掠奪といえば掠奪かもしれませんが、支那共産党が主張する「日本軍は奪い尽くした」とはあまりにもかけ離れた実態であります。

ある日の未明、大独山から物凄い銃声、砲声が聞こえてきました。

緊急出動となり、現場へ向かうとすでに敵の姿はなく、大独山中腹にある凹地に陣を構えていた友軍の一個分隊が壊滅していました。

昨夜、この分隊は何十倍もの兵力の敵軍に包囲され、弾薬は撃ち尽くし、白兵戦になった末、頭をカチ割られて殺されていたのです。

祖父の部隊を含む第三大隊の数個中隊はいつの間にか大独山を中心に山ぐるみで包囲されていたのです。

それからは、大独山を中心にしてぐるぐる回りながらの激戦が幾夜とも続きました。

ある夜、水田を通過して体制を整えていた祖父の部隊から50m先に敵兵の影が移動しているのが確認できました。

これは囲まれるな、と祖父が思っていると、いきなりチャルメラを吹き鳴らしながら「ライライ」と敵兵が飛び出してきました。

夜であり、射撃準備もしておらず、大隊砲は使えません。

白兵戦となりました。

祖父達は「いざ白兵戦となれば必ず血路が開かれる」という必勝の信念があったそうです。

白兵戦とは、刀剣などの近接用の武器による戦闘のことです。

信じられない事ですが、日本軍は白兵戦が強く、沖縄戦でも体格で勝る米軍に対し、白兵戦では優位に立っています。

どうやら体格で劣る日本人は、伝統の剣術と、敵と刺し違える「覚悟」で敵軍を凌駕していたようです。

現代社会を生きる日本人の私としては「自分がアメリカ人と戦って勝つ」などという事は想像にも及ばない事であります。

祖父を巻き込んだ白兵戦はひとかたまりになりましたが、やがて双方離れ始め、落ち着く事になりました。

危機を脱した、という安堵感が生まれ、喉の渇きに気づくのでした。

蕪湖を出発して以来、和県、含山、巣県、盧州と数々の城を攻略してきましたが、日本軍はその周囲を「面」として支配できていたわけではなく、点と点を線で結んでいただけでありました。

敵兵は、その中で手薄なところを狙って攻勢を仕掛けてきます。

巣県においては、ツンコピンは排水溝を伝って忍び込み、手榴弾を投げ込んでくる有様で、守備隊は毎夜の如く襲撃を受けていました。

「南京大虐殺」などと言われていますが、一体どこにそんな弾薬、武器、そして暇があったのでしょうか。

さて、盧州での戦闘がひと段落すると、補充として新兵が合流してきました。

歩兵第13連隊の快進撃を追うのは相当な苦労だったと言います。

祖父の部隊にも初年兵が数名入ってきました。

ある日、初年兵の砂辺が油を一缶見つけてきました。

夕食には豚肉、野菜などのフライが作られ、粉醤油をかけて美味しい美味しいと皆で食べたのでした。

しかしせっかくのご馳走であったにも関わらず、初年兵達は夜半から嘔吐、下痢を繰り返して苦しみ出しました。

実は、砂辺が見つけてきた油は和紙に塗るための桐油であり、食用ではなかったのです。

苦しみ悶える新兵達をよそに、祖父達古参兵はケロッとしていました。

出征以来、長い悪食に耐えてきたおかげでありましょう。