世界と拮抗すること。
本当に芸術にとって、売れる・売れないは関係なくて、「やりつづければいつか誰かがみてくれる」とか「あの素晴らしい作家も生前には評価されず死後に有名になった」とかも関係なくて、売れる・売れないという人や世間の評価に囚われてしまって、本当は描けたはずのいい絵が、人の評価軸の中での作品、その中での創作過程になってしまうというのはこの世の中できっとたくさんあって、すごく悲しい。
それでも、やはり人が何かを続けるにあたって、何らかの評価を求めてしまうのは必然だし、当然のことだ。だから、売れる・売れないとか、有名かそうでないかという評価軸が対外的な力をもってしまうのも仕方がなくて、でも、結局そこはプレイヤーの側が忍耐しなければならないのではないか。
人に、いいなと思ってもらえることと、お金で買われることは、確かに地続きにあるが、懸隔もある。
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例えばエミリ・ディキンソンは生涯無名のまま詩を書き続けたが、それはできることなのだ。そうあることはできるのだ。
しかし、それはただ一人で書き続けることではなくて、友人や理解者、いくつかの発表の機会、手紙などとともにあった。
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しかし、それとは別に、多くの素人たちの表現の拙さにも悲しみが湧く。世界と拮抗することを諦めてしまった、あるいはそこまで耐えきれなかった人たち。
しかし、やはり売れる状況に満足してしまった人、世間を評価軸においてしまった人のつまらなさもまた悲しい。
これも、同じく世界と拮抗できずに、人の評価軸の中にこもって、修練をしたり模倣したりしてしまっている。