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忘れられないあの日のこと

地震があって、津波が来て、原発事故が起きたあの日から、12年。

3月11日前後は、いつもあまりメディアに触れないようにしている。
ボランティアに通い始めてしばらくは、毎年被災地で、地元の人とゆっくり過ごしてきたけど、それもやめて何年か経つ。

被災した人にとって、被災した事実は一生残る。どこへも消えていかない。でも、そうじゃない人にとって、災害はどんどん過去のものとして遠ざかっていく。
その距離がしんどくて、テレビの特番なんかもほとんど観なくなった。

それと同時に、被災した地域の人たちと関わり続けることで、12年前の3月11日にそこにいなかったのに、知らないうちにいつの間にか、まるでそこにいたような感覚に染まっていくのが怖かった。
皆さんの気持ちが、わかったような風になりたくなかった。
わからなくてもいいから、そばにいたい。
そういう気持ちでいたかった。

明日、3月23日は、私も「そこにいた人」になった日だ。

実をいうと、6年前の当日のことはあまりよく覚えていない。
誰から連絡をもらったのかも、わからない。

ただ、わかめの収穫に出ていた漁船が転覆して、乗ってた3人が海に投げ出されたこと。
そのうち一人の女の子が遺体で見つかったことが、わかった。

船に乗ってたのは、私が復興支援ボランティアとして東北に通い始めたときからずっと、お世話になってきた人たちだった。

そのご一家は、津波で全壊した自宅を学生ボランティアの拠点として開放し、自らはその裏手の親戚(震災を機に他所に移住)の家を修繕して暮らしていた。

初めはご一家の生業である漁業のお手伝いをさせてもらった。
このおうちだけでなく、地域で何軒ものおうちでお手伝いをさせてもらって、それまでまったく知らなかった漁業の現場を知るようになり、問題点や課題も見えてくるようになった。
一方で、地元の人たちがどうにかして地域を活性化させたい、漁業を盛り上げたいと頑張る姿には、何度も心動かされた。

そうした地域の復興の中心にいた何軒かのひとつが、事故に遭った。

私はそのおうちに泊めてもらいながら、漁業のお手伝いをしたり、被災後に始めた民宿のお手伝いをしたり、いっしょにごはんをつくって食べたり、炬燵に入って、働き者のおばあちゃんの肩をもんだり手を揉んだり、なんだか親戚のようにおつきあいさせていただいていた。

あるとき、ここのおうちのお嬢さんたちの結婚話になって、「花ちゃんはなんで結婚しないの?」と訊かれた。
もともと結婚願望がないから一生ひとりでいいんだよ、と何気なく答えたら、みんなで「そんなの絶対だめだよ!」「一生ひとりなんてだめ!」と全否定され(田舎だからね)「じゃあどこそこんちの誰それなら…」と私の結婚話になりそうになって慌てたことがある。

そのおうちの人たちが、海で行方不明になっていた。

亡くなって見つかったお嬢さんは、少し前まで都市部で働いていて、家業を手伝いたいと仕事を辞めて戻ってきた矢先だった。
行方がわからない男の子は、このおうちの下のお嬢さんのお婿さんで、まだ2歳にならない男の子のパパだった。

あとで着ていたものが見つかったこのうちのご主人は、代々続く漁師の家の当主で、地元では「大手」のあるじだった。

全然喋らない人で、たとえば道で偶然出くわして「あー!元気ですかー!」なんて声をかけたら、一言も話さずにその場でおくさんに電話して、携帯電話を黙って突き出すような人だった(自分で話すより、おくさんと話した方が楽しいからと気を回してくれたんだけど、それにしても)。

無口ではあったけどリーダーシップがあって、ボランティアはみんな、このおうちの皆さんにとてもお世話になった。
地域の復興に尽力した人、ボランティアに手を貸してくれた人は他にも地域に何人もいたから、このご一家だけが特別というわけではなかったけど、少なくとも私にとっては、おうちにお邪魔するたびにお仏壇を拝ませてもらったり(仏間に泊まったことがあるため)、留守中の台所に勝手に上がって冷蔵庫に要冷蔵のお土産を入れて携帯に「冷蔵庫に〇〇入れといたから食べて。じゃあね」なんてメールしたりするような間柄になったのは、ここのおうちだけだった。
ほんとに親戚みたいだった。

亡くなって見つかったお嬢さんはほんとに残念だったけど、事故の報せを聞いてからずっと、あとの二人だけでもどうか無事で見つかってほしいと、ひたすら、心から祈り続けた。
3月の三陸の海の、しかも外洋がどれだけ寒くて冷たくてきついところか、それまでの活動で知ってはいたけど、それでも、生きていてほしいと必死に願わずにいられなかった。

いいニュースはないまま、日が暮れて、次の日になって、3日経った。
地元の人たちはみんな総出で、一生懸命探していた。
すごく心配だったけど、地域に移住した仲間は「離れていてできることは何もない」「待つしかない」と教えてくれた。
でもその事実が、もどかしかった。悲しかった。

やがて海上保安庁や警察の捜索が打ちきられても、地元の人はまだ探していた。

1ヶ月がたって、ご家族は、捜索をやめることを決めて、お葬式を出すことにした。

葬儀には参列したけど、私は最後まで、遺影を見ることができなかった。
みんながいなくなってしまったことが、もう会えないことが、どうしても信じられなかった。受け入れたくなかった。

正直にいえば、いまだって受け入れたくない。

世間は、震災の被災地のことを、何かの型にはめて語りたがる。

何もかも失っても再び立ち上がる勇気。
人々の絆。心のつながり。
困難に健気に立ち向かう力。
災害になんて負けたくないという心意気。
被災を教訓に、将来に役立てようと努力し続ける姿。

それだって素晴らしい。素晴らしいけども。

そんなんじゃ全然片づかないんだよ。それだけじゃないんだよ。もっと現実は残酷で、冷酷で、厳しくて、つらくて苦しくて寂しくて、そういう気持ちをどこかにしまって、どうにかこうにか笑顔を浮かべてる人だっているんだよ。

この12年に、この東北の地でたいせつな人を何人も失って、私は「そこにいた人」になった。

何をもってしても埋められない、心に大きく開いた穴を抱いて、私はこれからも生きていく。
残酷で、冷酷で、厳しくて、つらくて苦しくて寂しい現実を、みんなの隣で、歩いていく。

それが、この地に関わってきた人間の宿命だと思うから。

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