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2024年3月11日 聴覚の問題

今日は、3月11日。
東日本大震災が起こった日です。
あれから、13年経ちますが、様々な悲しみがある方は沢山おられるでしょう。
能登半島での震災があり、各地での地震もあった2024年は、これまでよりさらに、この国に住んでいる以上、誰だって被災者になる可能性があるということを心していかねばならないと感じています。
災害の被害に遭われた方が少しでも安らぎますように。

さて、今回は
体調不良時の五感について掘り下げるシリーズ第三弾です。
第一弾と第二弾はこちらです。

今回は聴覚についてです。
体調不良の時、触覚と嗅覚が暴走する人間ですが、聴覚も、ややコントロールが弱くなる傾向にあります。
特に、人の声、機械の駆動音である、ホワイトノイズが大きく聞こえる気がします。
ただ触覚と嗅覚ほどの暴走ではないかもしれません。
いつもより、少し大きく聞こえるくらいです。
ただ、もともと聴覚も敏感なので、体調関係なく、聴覚に振り回されている気もします。

聴覚が敏感というと、「聞こえない音域が聞こえるということか?」と問われそうですが、
経年劣化で、少しずつ聞こえにくくなっている自覚がありますので、それは違います。
それでは「絶対音感がある」とか「語学が得意」ということと関連があるのかと思われるかもしれませんが、そういうことでもありません。
そういうわかりやすい利点がほとんどないタイプの敏感さを持っているのです。

まず、カクテルパーティ効果があまり機能していません。
カクテルパーティ効果とは、簡単にいうと、パーティのような騒がしい場所でもしゃべっている相手の会話のみがクリアに聞こえるというものです。

それがうまく機能していません。
半径5メートル以内で話されると、それがマルチ商法の勧誘だろうが、電話の会話だろうが、すべて耳に入ってきてしまいます。
音量はあまり関係なく、距離が関係あるようです。また、話の内容が悪意のあるもの、緊迫したものの場合、より、耳へ入ってきてしまいます。
学生の頃、友達と喫茶店でお茶をしていた時のことを思い出します。
近くのテーブルでマルチ商法の勧誘が始まってしまい、心配でたまらなくなった結果、大きな声で「それは詐欺ですよ」というひとりごとを言ってしまったことがあります。
面と向かっていた友達は呆れ顔、そして少しばかり離れた席にいたマルチ商法の勧誘者はひどく狼狽していました。
「詐欺なんかではないです」と取り繕う声が出たところで、店を出たのを覚えています。
外食が得意ではないのは、この聴覚の敏感さのせいでしょう。
また、駅のホームで迷子になりながら声高にしゃべっている観光客と遭遇するのもなかなかに辛く(正しい情報を伝えるべきか迷う)、人が多い場所が苦手です。
嗅覚も敏感で人の体臭も辛い上に、騒がしいところは向かないということになります。
ですから、ライブハウスやクラブ、お酒やタバコとともに音楽を楽しむような場所へは行こうという気になりません。同じ理由で、バーや居酒屋、パチンコ屋、ゲームセンターにも苦手です。
音と匂いが沢山あり、近くに人がいるというのは、聴覚過敏、嗅覚過敏を併せ持つ人間には、なかなかに辛い状況なのです。
現在は電車内では、イヤホンをしていることが多いです。以前は電子耳栓を使っていました。イヤホンをしている人が電車に乗っているのは至って普通の光景になったので、悪目立ちすることがなくなったのはありがたいばかりです。
全ての音を消音する必要はないので、耳にイヤホンをしていても常に音楽やAudibleを聴いているわけではありません。
大体の場合、何もかけずにイヤホンをしているだけです。
イヤホンをしていると、ちょうどカーテンがない窓に、薄いレースのカーテンがかかったような感じになります。向こうの様子は伺えるものの、刺激はグッと下がるのです。

次に、これはかなり説明しにくい感覚なのですが、、人間の声を聞いていると、手触りのようなものを感じるのです。
例えば、誰かに暴力を振るっている人の声を聞くと、紙やすりのようなざらざらした感じや棘のような引っ掛かりを感じます。
その人がどれほどこちらに向かって、丁寧に話しかけてくれていても、声の手触りは変えられません。言葉遣いや声の大きさの問題ではないからです。
例えば、とても慇懃に話す男性と関わったことがあります。丁寧な話し方なのに、声の手ざわりはざらざらしているので、常に緊張して応対していました。
知人にそのことを打ち明けると、過去にDVの加害者であったらしいと教えてもらいました。
また、テレビで特集されている女性映画監督のドキュメンタリーを見た時も、その声の手触りにびっくりしました。柔らかい声なのに手触りがざらざらしているのです。
いつか監督作品を見ようと思っていたのですが、いっぺんに嫌になってしまいました。しばらくしてその女性監督は、スタッフへの暴力事件を報道されていました。
伊藤計劃は「虐殺器官」で、虐殺には文法があると言っていますが、個人的には、「暴力には手触りがある」ような気がします。暴力を振るうことになれた人の声には皮膚を引っ掻くような、ざらざらとした手触りがあります。 
これは感覚なので、頭で考えているというものではありません。
食事の際、お茶碗や箸を持っている時、食べながら、焼き物の硬さや木の滑らかさを同時に感じるのと似ています。
ただそこに感覚があります。
もちろん、思い込みや勘違いなのかもしれません。
でもかなり当たるので、新しい人間と出会う時にはどうしても一次判定として使ってしまっています。

この話題について、Bluesky で相互の方々とやりとりをする機会があり、
自分の感覚について、整理することができました。
やはり他者に説明することで、自覚し、明確になる部分がある、と感じた次第です。
(ゆごさん、ソベ子さん、ありがとうございました。)

またゆごさんが
「共感覚」という言葉を使っておられて、
「そう呼べば良いのか!!」となりました。
つまるところ、自分が先ほどからつらつらと書いていることは、『人間の声に手触りを感じる共感覚』なのかもしれません。つまり、聴覚と触覚の共感覚というわけです。
そうして、
よくよく振り返ってみると話しながら、
他人の声の手触りを感じ、
それに呼応するような自分の声の手触りも確かめていることを発見しました。
ツルツルと滑り、硬い陶器のような自分の声、これは緊張している声です。
たわめられて曲げられた曲線と層を持つわっぱ弁当箱のような手触りの時は調子がいい時です。
調子の良い時は程よくひずんでいるのです。
楽しい時はふわふわとした綿のような柔らかさ、空気が沢山入っています。
自分の気持ちが混乱して怒っている時、声は平たくのばされ、ひどく冷たく、そしてチクチクしています。

新たな友達を作ること、浅くて広い付き合いが苦手なのですが、
それはこの共感覚を持っていると、声からさまざまな情報を得てしまうからかもしれません。
世の中には知らない方が良いことも沢山ありますが、そういうことも、何となく感じてしまう可能性も十分あるわけです。

自分の聴覚については
これまでも「かなり敏感で独特だな」とは感じてはいました。
しかし今回記事を書くにあたって、
色々と考えてみて、わかったことも沢山あります。
自分とは長い付き合いですが、まだ、さほど理解できていないということ、
そして、多くの人は声の手触りなどをさほど感じているわけではないということ、
自分は思考ではなく、感覚でさまざまな判断をしているということです。
五感、まだまだ奥が深いです。



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