『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』を読む。 #326
ジョナサン・マレシックの『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』を読んだ。著者は学生の頃から夢見ていた大学教授になり、終身在職権まで得ているという恵まれた境遇だったにもかかわらず、バーンアウト(燃え尽き症候群)になった。そんな自身の経験をきっかけにバーンアウトについて調べた結果をまとめたのが本書である。この記事では本書の要点と個人的な感想を記してみる。
バーンアウトの定義
バーンアウトという言葉は医学的に定義されていないが、著者はマスラーク・バーンアウト・インベントリー(MBI)という学術的な定義を参照する。この指標によると、バーンアウトは消耗感、冷笑主義、無力感という3つの要素をすべて満たした状態と定義されるそうだ。もちろん、バーンアウトかどうかの境界線は明確ではないので、「バーンアウト・スペクトラム」というグラデーションであることも指摘している。つまり、3つの要素のうちどれか一つだけを感じる時もバーンアウトの兆候があるとみなせる。
ちなみに、バーンアウトという言葉が登場した背景に、「一九六〇年代に起こった理想主義の崩壊」(74ページ)があるとしている。アメリカ黄金時代の1960年代が終わり、ベトナム戦争の泥沼化やスタグフレーションに苦しむアメリカの国民感情はまさにバーンアウトだったようだ。この頃のアメリカ社会の雰囲気は、現在放送中のNHK『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』のアメリカ編でも感じられる。
原因は「期待と現実のギャップ」
さて、バーンアウトという言葉の定義や時代背景の次は、バーンアウトの原因を見ていく。本書では、バーンアウトに至るメカニズムを「仕事に対する『期待』と『現実』のギャップの大きさ」で説明している。つまり、仕事に対する期待が高まっている一方で現実の労働環境は悪化していることがバーンアウトを生んでいると著者は考えている。
「現実」に起こっている労働環境の悪化として、派遣社員やギグ・エコノミーの普及による雇用の不安定化、サービス中心の経済へのシフトに伴う感情労働の増加を挙げている。
興味深いのは、「プロ意識」という言葉に疑問を呈している点である。雇用主から労働者に求められるものが労働力(ただ職務をこなせばいい)だけでなく、やる気や忠誠心などの精神的な領域にまで広がっているのも仕事を過酷にしているということだ。日本語で言えば、「社会人」という言葉などに労働者に向けられる理想の高さが表れているかもしれない。
こうした厳しい現実にもかかわらず、労働者側が抱く仕事への期待が増していることがバーンアウトにつながる。つまり、仕事を単なるお金を得る手段としてでなく、自己実現や社会貢献などの高尚な意味が付与され過ぎているということだ。
しかし、「一生懸命働けば良い人生を送れるという理想」は幻想であることを、プラトンの唱えた「高貴な嘘」という概念を引用しながら指摘する。
では、この「高貴な嘘」はどこから生まれたのか? その理由としては、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の説明を採用している。つまり、勤勉に働くことが神に選ばれて救済されたことを証明するのであり、不安を癒す唯一の手段なのだ。ルターの聖書翻訳で生まれた「天職」の概念によって、ますます仕事による自己実現が理想とされるようになった。
このように、「天職を通して自己実現と社会貢献をしましょう」という文化的プレッシャーがあることで採用時にも働く時も「プロ意識」=勤勉さが求められるなかで、雇用は流動性=不安定さが増して労働者同士の「プロ意識」競争は激化する。そして、バーンアウトは働きづらい社会でも勤勉であり続けた末の殉教であるから一向になくならないというわけだ。
バーンアウトを防ぐには?
バーンアウトの原因が仕事に対する期待と現実のギャップであるならば、バーンアウトを防ぐ方法は期待と現実のギャップを埋めていく、つまり、①期待を下げる、②現実も期待に近づける、という2つのアプローチが考えられる。
①仕事への期待を下げるとは、自己実現と仕事を区別するということになる。自分の衣食住を確保する生活費を稼ぐための労働であると割り切って、仕事以外の時間=余暇で自己実現を目指すことも選択肢の一つだ。また、②現実の労働環境を改善するためのアイデアとして、労働時間の短縮やベーシックインカムの導入などが紹介されている。
期待と現実のギャップを埋めるための具体例も紹介されている。たとえば、ベネディクト会というキリスト教系のコミュニティにおける修道士の暮らしが取り上げられている。修道士たちは毎日数時間の祈りの時間を確保することを最優先としており、たとえ仕事を増やせば儲けが増える可能性があるとしても祈りの時間を削らないようにしているそうだ。この仕事の時間が終われば仕事を忘れるという精神的鍛練のおかげか、実際にバーンアウトに陥る修道士はいないらしい。
ちなみに、著者は終身雇用の代わりに別の大学の非常勤講師として職を得ている。バーンアウト前に比べて75%も給料が減ったが、それでも今の方が充実している(おかげで本書も執筆できた)そうだ。仕事で自己実現をしようとしなくてもよいというアドバイスは「『プロ意識』を持て、勤勉であれ」という常識と反するが、「バーンアウトという殉教を避けて健やかに生きろ」というヒューマニズムな提言として新鮮に聞こえる。仕事と生きがいは「混ぜるな危険」なのかもしれない。
個人的な感想メモ
勤勉さを求める本能
キリスト教や資本主義に由来するアメリカの勤勉さを称賛する文化がバーンアウトの原因であると考察されていたが、フリーライダーばかりでは社会が回らなくなるという構造とフリーライダーを忌むように進化した本能も影響しているように思う。
フリーライダーとは社会から恩恵を受けているのに社会貢献をしない人を指す言葉であり、現代社会で言えば「給料が低い人」に向けられる目でもある。たとえば、総収入が890万~920万円を超えない世帯は税金を納める額よりも公共サービスを受け取る額が上回るため「社会のお荷物」だと言う声もある。
そんな考えの社会から「あいつはフリーライダーではないか?」という疑いの目を向けられてしまえば、社会から追放されて支援が得られなくなる。だから、「私はこの集団の役に立っていることをアピールしなければ」という本能が埋め込まれていてもおかしくない。
アメリカや日本などの国を問わず「お金を稼ぐ力=人間としての価値」という思い込みは根深い。バーンアウトの原因は文化的なのか、それとも本能的なのかも議論の余地があるだろう。
酷使される馬と愛される猫
どれだけ社会のために頑張ったとしても、頑張れなくなれば捨てられる。それもまた事実だ。ジョージ・オーウェルの『動物農場』に登場する馬のボクサーは、必死に働いた末に体を壊すと食肉工場に送られる。バーンアウトになった労働者も自己都合による退職扱いで解雇されるだけ。「一生懸命頑張れば良い人生を送れる」というのは幻想で、上の立場に利用されて最後は捨てられるだけなのだろうか。
このバーンアウトの虚しさを前にすると、材木として有用ではないからこそ伐採されずに生き残る老木にまつわる「無用の用」や、美しい甲羅のせいで人に捕まるよりも泥の中で生きていたいという亀にまつわる「曳尾塗中」などの荘子の話を思い出す。実は「仕事ができる」と思われない方が資本主義における賢い処世術なのでないか? バーンアウトを巡る話をしているとそんな気がしてくる。本書で紹介されているプエルトリコ人アーティストのエリカ・メナの言葉も印象的だ。
馬のように利用されていく家畜的な生き方と、猫のように愛されるペット的な生き方。どちらが幸せな生き方なのか。バーンアウトから火の例えを借りるならば、じわじわと長く燃える炭火のような生き方もあるということだろうか。バーンアウトして灰になってしまいそうならば、炭として燃え続ける生き方にシフトしてもよさそうだ。
なんでも「仕事」と呼ぶ時代
クリシェな引用で恐縮だが、ケインズは「100年後(2030年)には週15時間働けば十分な時代が到来する」と述べた。2023年現在、日本では週40時間労働が基本であるため、この予言は外れているという文脈でしばしば引用される。しかし、生きていくために必要な生産だけに絞れば、実は週15時間で成立しているのかもしれない。
ケインズの予言が外れているように思える原因は、全てが商品になる資本主義では商品(サービスを含む)を生み出す活動全てが仕事とみなされることがあるだろう。たとえば、友人との雑談を録画してネット上で公開すれば、コンテンツ作成をしていたことになる。この行為は「友人と遊んだ」とも「ビジネスパートナーと仕事をした」とも言える。私がこうして読書での学びをまとめることでさえも、noteで公開すれば「仕事」と呼べるだろう。
このように、100年前からすれば「余暇」とみなされる時間の過ごし方も、ネットが普及した現代では「仕事」になり得る。本業以外の時間も「副業」などと呼んで仕事としてカウントすれば、仕事の時間が減ることはない。何を仕事と呼ぶのかという意味論的な議論が必要な時代なのかもしれない。
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