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ティム・インゴルド『人類学とは何か』を読む。 #318

ティム・インゴルドの『人類学とは何か』を読んだ私の個人的な感想であり、要約や解説ではないことをご了承ください。


ティム・インゴルド流人類学

まず、彼が人類学の定義について述べている部分を引用してみる。彼は「私たちはどのように生きるべきか?」という問いを中心に据え、そのアプローチ方法として人類学を設定する。

できる限り幅広いアプローチから進んで学ぼうとする学にご登場願おう。それは、背景や暮らしや環境や住む場所がどのようなものであるかを問わず、世界中に住まうすべての人の知恵と経験を、どのように生きるのかというこの問いに注ぎ込む。これが、私がこの本の中で唱える研究分野である。それを人類学と呼ぼう。

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私の定義では、人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である。

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人類学では「世界に入って」いく参与観察(フィールドワーク)の結果を民族誌(エスノグラフィー)としてまとめることが基本的な手法とされているが、インゴルドはこの前提に批判的な立場をとる。民族誌を書くという目的のために参与観察という手段があるという関係性を拒否するのだ。

参与観察とは、はたして民族誌という目的に至るための手段なのか? ほとんどの人類学者はそうだと言うだろう。(中略)でも私の意見は違う。繰り返せば、参与観察は人々とともに学ぶ方法である。

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ちなみに、インゴルドはレヴィ=ストロース的な構造主義を「天文学的」としてあまり評価していない。なぜなら、構造主義は社会や文化を中心として理論を組み立てており、一人ひとりの人間をその構造を具現化する存在へと矮小化してしまうからだ。インゴルドはマクロ的に人類を理解するよりも、ミクロ的に一人ひとりと関わるスタイルを勧める。ここでも「ともに」がキーワードとなる。


近代的科学主義の内省

本書の原題が『Anthropology: Why It Matters』であることからも、人類学がなぜ重要なのかが説明されていく。人類学が重要な理由を端的に言えば、人新世とも呼ばれる現代における諸問題の原因は科学(特に科学主義)にあり、その科学主義を克服するために人類学が寄与するからだ。本書では科学から始まるダーウィニズム、人種差別、植民地主義、ポストコロニアリズムという歴史を辿り、近代的パラダイムが限界を迎えていると説かれている。

西洋の学者が至高の権威をあたりまえと見る伝統的な研究方法に疑義を突き付ける、強い内省の時代を予告していた。というのは、ポストモダンの世界はポストコロニアルの世界でもあり、そこでは西洋および西洋の制度の中で教育を受けた人々が優位であることはもはや保証されないからだ。

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近代的パラダイムが限界である理由を突き詰めていけば、科学が前提としてきた二元論的な存在論に辿り着く。たとえば、北部中央カナダのオジブワという先住民が石を生きているとみなす例からアニミズムを紹介し、物質と精神、自然と文化(人工)といった二元論的な思考も近代というパラダイムにおける思考方法にすぎないことを論じている。この辺りの議論はインゴルド自身が人類学を専門としてきた中での葛藤や苦悩を交えながら進んでいく。


人類学によるポストモダニズム

こうした近代的な存在論(世界観・パラダイム)を覆す役目を果たせるのが人類学であるとしている。なぜなら、人類学は人類についてaboutではなく、人類とともにwithという意味での人類学たり得るからだ。これは科学における観察する側と観察される側を区別する態度とは異なるため、「反学問」とさえ批判されかねない。

もし、私が論じたように、それが人々についての研究をするというよりもむしろ、人々とともに研究する方法であるならば、それ独自の知的領分を主張できるなどとどうして言えようか? そのような主張を拒絶する限りにおいて、人類学は、真に反学問であると言われうる。なぜなら、それは知識の世界を、個々の学が支配する別々の部分へと分割する、知的な植民地主義に関わらないからである。

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それでも、人新世やポストコロニアリズムの時代でのパラダイムシフトを実現するために、観察する者(We)と観察される者(They)という二元論を乗り越えて、ともに学び合う関係性を築いていこうというビジョンで締められる。

人類学の真の貢献は、文献にあるのではなく、生を変容させる力にある。これが「応用人類学」のアイデアが牽引力をほとんどもちえない理由である。(中略)最後の手段として人類学者を駆り立てるのは、知識を希求することではなく、気づかいケアの倫理である。私たちは、他者にカテゴリーや文脈を割り当てたり、他者を説明し尽くしたりすることで、他者を気づかうのではない。彼らを目の前に連れてくる時に私たちは気づかい、彼らは私たちと会話し、私たちは彼らから学ぶことができる。それが、すべての人にとって居場所がある世界を築く方法である。私たちは皆で一緒に世界を築くことができるのだ。

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人類学×デザイン=Transdisciplinary Design?

「民族誌を書くために参与観察をするのではない」のであれば、何のために参与観察をすることになるのだろうか? それは冒頭の答えに戻る。「私たちはどのように生きるべきか?」という問いを人々とともに考えるためである。この時、民族誌以外のアーティファクト(人工物)を扱う可能性が生まれる。

人類学の目的が民族誌のそれから切り離されてしまえば、例えば、建築、博物館学、比較史学は言うまでもなく、アート、デザイン、演劇、舞踊、音楽を通じて、人類学には、会話に加わるあらゆる種類の他の方法が開かれてくる。これらのフィールドの実践者たちとの協同作業の成功は、私たちがやっていることが、まさに民族誌ではないという認識に拠っている。

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人類学は民族誌の代替策の一つとしてデザインを求め、デザインはこの人類学からの要請に答える。パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designへの留学は、そのコラボレーションの可能性を実感できるものだった。

たとえば、Transdisciplinary DesignのDirectorであるJohn Bruceの映像作品である『End of Life』についてのエピソードを取り上げてみる。この作品は、死が迫る5人との対話を収めたドキュメンタリーだ。

彼が「Anthropology and Design」という授業でこの作品について語った時、「映像作品をつくるために彼らと話しているのではなく、彼らと話すために映像作品をつくっている」と説明していた。つまり、彼は映像作品をつくるプロセスを通して会話を生み出し、彼らと共に生きているのだ。

こうしたデザインのような人類学のような、はたまたアートのような取り組みを何と呼べばいいのだろうか? 私としてはTransdisciplinary Designと呼びたいが、これ以上の話は本書から離れていくのでここまでとする。


まとめ

人類学の基本を説明した本というよりは人類学のあるべき将来像を示すような内容で、「人類学は、人類についてのabout学問ではなく、人類とともにwithある学問である」という主張が印象的だった。また、近代西洋から生まれた人類学が近代西洋を疑うという構図も面白い。未だ科学主義が健在の現代における人類学の重要さが学べる一冊と言えるだろう。彼の唱える人類学がパラダイムシフトを起こす日は来るのだろうか?

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