人のために≠

私の弟は、れっきとしたネット依存者である。
どこに行くにもスマホ、シャワーを浴びる時もスマホ、トイレに行く時もスマホ、コードの絡みを解く時ですら、スマホをいじっていないと気が済まない。要は、自分の頭に情報を入れない時間が耐えられないわけだ。

どうしてか。

私はこの主たる原因は、母にあるのではないかと思っている。母は一方で、私たち兄弟がスマホ依存になるという状況が許せない。昔からそうだった。
スマホに限らずとも、我が家では、アイドルであったり、YouTuberであったり、釣りや、ゴルフなど、何かに傾倒するということが許されない。許されない、というよりは、知らず知らずのうちにみんな傾倒することができないと言った方が正しいだろう。 
「我を忘れて全てを無視してでも何かに傾倒する」
この状態が「きもちわるい」という感覚が母から溢れ出ている。私の兄弟の価値観の軸は母によって形成されているので、つまり家族全員が「何かに傾倒することはきもちわるい」と認識しているわけだ。故に、誰かのライブに行きまくる、ゴルフに行きまくるなどの行為は家族から非難を受ける。きもい、またかよ、いつまでやるんだよ、などの言葉を無条件に浴びせられる。
気づかないうちに、みんなに隠してそれをやり、隠しているうちにやらなくなってしまう。

スマホを除いては。

現代日本において「傾倒する」の代表例はスマホであろう。そして、我が家でも、スマホを、特に母の前でいじりすぎることは許されていないわけだ。ただスマホは今や生活の必需品であるわけで、手放すわけにはいかない。つまり母に隠したまま、依存症になっていく。母はそんな『傾倒』を忌避し、制限をかける。私も中学生の時には、スマホの全体の使用時間をほぼ0分にさせられ、号泣しながら友達に固定電話で電話したものだった。ここでいうべきは、私は「スマホがいじれなくて」泣いたわけではないということだ。私は「誰かからストレス発散器具を制限される」という状態が耐えられなかった。そして泣いた。

現代社会において知らず知らずのうちに、我々のストレス発散器具はスマホを介して行われる。ネットに記事を書き込む、友達にLINEで愚痴を吐く、YouTubeを見て現実逃避をする。何においても、ストレスがかかった時はスマホを見ているわけだ。それを取られてはしまってはたまったものではない。余ったストレスを泣くことでしか発することができない。

勉強を自発的にするようになってから母は私のスマホに(過度な)制限をかけることは無くなった。

しかし弟は今でもその対象だ。何かにつけて弟がスマホやパソコンをいじると母はキレ散らかし、制限をかけまくる。それにより弟のストレスの発散場所がなくなる。母に暴力を振るう。母が弟を罵倒する。勉強もしなくなる。負のスパイラルである。

ある調査では、スマホの親による制限が過剰になるにつれ、子供の依存度が高くなるという調査があるそうだ。私はこの事実は間違いないと思っている。スマホの制限をかけるにつれて子供は使える一分一秒を余すことなく使わなければという強迫観念に駆られる。故に依存度は高くなる。一分一秒でも多く使わなければいつ使えなくなるかわからない。これによって、無駄な時間がなくなっていく。しまいには制限がなくなっても、何もない時間の使い方が分からず、とりあえずスマホをいじらないと怖いという状況に陥る。スマホ依存者の完成である。

先日飛行機の中で「ミステリという勿れ」という作品を半分だけ見た。その中で主人公が言ったセリフ、
「子供は乾く前のセメントみたいなものなんですって。落としたものの形が そのまま跡になって 残るんですよ。」
という言葉が響いた。小さい時に親から高圧的な態度で過度な制限取られた子供は、その後なかなか治りようがない。どうやっても、昔制限をかけられ続けた、ある種の「トラウマ」に苛まれる事になる。

弟は、もう治らないかもしれない。

一昨日くらいにスタバでそのことを考えいた私は、無意識に弟のことを考えている事に気づいた。私は弟の現在の状況がかなりショックらしい。子供はセメントが固まる前に、元に戻さなければ、一生引きずる。その前に、子供を救わなければ。誰でもいいから、今苦しんでいる、セメントが固まる前の子を。


将来は、医師になろうと思っている。私は子供が昔から好きな質ではなかったが、人生何があるかわからない。誰かのために踏み出す一歩は、必ずしも良いとは限らない。自分の選択が正しいものになるよう、今日も考えることをやめないで生きていきたい。


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