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詩ことばの森(60)「古い喫茶店で」

古い喫茶店で

古い町の
古い喫茶店で
ぼくは珈琲を飲んでいた
客は ぼくと
年老いた男と
ふたりだけだった

雪のような
真白いブックカバーをつけた
詩集を一冊たずさえて
ぼくは旅に出てきたのだ

古い喫茶店の
古いカウンターに
詩集は真綿のように
やわらかな灯りとなって
旅情を誘っている

詩人は ぼくに語りかける
「川の水は流れている
 なんといふこともない
 来てみれば
 やがて
 ひそかに帰りたくなる」※

ぼくは 窓の外をみつめた
冬の夕暮れは
町を赤い光に包もうとしていた
真白いブックカバーの
詩集をほのかに染めながら
ふたたび ぼくを
彷徨へとせきたてる

ぼくはページを閉じると
席を立った
店の奥から
年老いた男の
かすかに せき込む音がきこえた


※「川」『原民喜全詩集』岩波文庫


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