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【小説】くるりくるくるワンピース

 ワンピースの裾から、生ぬるい空気が太ももに絡みつく。夏の空気は、ピントがずれた写真のように締まりがなく、それでいて重い。無邪気に裾を広げながら、くるりくるくる回っていられたのは、今はもう遠い昔のこと。二度とあの頃に戻れないことを、彼女は知っていた。

 彼女が今も昔もワンピースを好むのは、ただただ着替えに割く労力を減らしたいからだった。クローゼットにずらりと並べられたワンピースを、適当に引っ掴み頭から被る。あとは、カーディガンやパーカーをその時々で羽織るだけだ。夏の時期は、パジャマもワンピースタイプのものを好む。そして、予定のない休日は、ずっとそのままの姿で過ごした。

 夏の空気は気怠くて、くるくる回ることのなくなった彼女は、ぱたぱたと胸元から風を送る。じとりとした肌に、じめっとした空気が流れていく。不快指数は一向に下がらない。気持ちも身体も重くなり、彼女はくるりくるくる回っていたあの頃から、どんどん遠ざかっていく。特に目的もなくスマートフォンに指を滑らせ、エアコンがかかっているのに軽やかにならない空気のなかで、ひたすら沈み込んでいく心身。電池が切れた壁掛け時計は、もうカチリとも音を立てず、それでもただ時間は過ぎていく。

 誰かに会いたくて、誰かと話したくて、それでも誰とも会いたくなかった。鈍っていく感覚は、のどの渇きも空腹ももたらさない。何度もまどろみ、ぼんやりと覚醒する。そこに身軽に動いていたあの頃の面影は、一切なかった。

 くるりくるくる回れば、気持ちが華やぐかもしれない。そう彼女に思わせるのは、幼い頃に家にあった古びたオルゴールだった。バレリーナを模した小さな人形が、禁じられた遊びのメロディーに合わせて鏡面上をするりするすると動くオルゴール。幼い彼女の目に、そのバレリーナはまぶしく映った。何度も何度もネジを回して、何度も何度も回るバレリーナを眺めた。あの頃の彼女は、身も心も軽かった。

 無為に流れていく時間を持て余す。否、本当は持て余してなんかいなかった。やるべきことは溢れかえっていて、足を止めたら決壊してしまいそうなほどだ。にもかかわらず、彼女は動かない。動けなかった。

 ワンピースは彼女を阻害しない。広がった裾は彼女を縛り付けなかったし、ひらひらとした布地は彼女に数ミリ程度の重みしか加えていなかった。彼女は、今も回れるはずだ。軽やかに回れるはずなのだ。

 時計の針は回らない。オルゴールのバレリーナはもういない。ワンピースを身に着けた彼女は、無邪気に回ることもなく、天井を見上げてソファの上。静かに回りつづけるのは、彼女のなかの血液だけだ。

【今回のお題】「ワンピース」「回転」

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