野良猫が車に撥ねられた
中学校からの下校途中、歩道から飛び出した野良猫が車に撥ねられた。
片側一車線の、それほど広くもない道路上に倒れたままの猫。まだ息があるようにも見えた。突然目の前で起きた出来事に、わたしも友達も棒立ちになる。通学路にはほかにも同級生がいたけれど、「え、かわいそう」と言って立ち止まるのが精一杯。誰も何もできなかった。
突然、後ろから歩いてきた男子の一群のうちのひとりが、さっと目の前を横切って、猫の元へと向かった。そうして、何のためらいもなく撥ねられた猫を抱いて、こちら側に戻り、しゃがむ。
「え、え、猫」
「すごいな。よく抱けるな」
呟きながらわらわらと集まってくる同級生に囲まれ、彼は
「まだ生きてるねん」
と言った。そうして、「そこに子猫おんねん。追いかけたら危ないと思って」と目で指し示しながら続けた。
振り返ると、歩道の向こう側に広がっている藪の合間に、確かに子猫が見えた。
「どっか、どっか、動物病院ないっけ」
誰かが口に出し、何人かが持ち込みは校則違反だった携帯電話で調べ始める。中学生がすぐに猫を連れていける場所に、動物病院はなかった。電話を掛けてみた子もいたけれど、自力で連れていかねば診てもらえないと言われた、と通話を切る。
「……あかん、冷たなってきた」
どないしよ、どうしたらいいんやろ、と子猫を見たり諦めきれず調べたりしていたわたしたちの声が止まる。
すーっと波が引いていくように、猫は死んだ。
「……埋める?」
薮だらけの公園を指差したのが誰だったのか、わたしは憶えていない。
子猫がミャアミャア鳴いていた、その声は今でも憶えている。
***
安全地帯から「かわいそう」「ひどいよね」と言うことは容易い。あのとき、車はその後全然走らなかったのにも関わらず、動けたのは彼ひとりだけだった。
あとの子たちは、わたしを含め、動こうとすら頭に浮かばなかったのではないかと思っている。「かわいそう」と、安全な歩道に立って呟くことしかできなかった。
彼とは同じクラスになったことはなかったけれど、友達曰く、特に目立つこともなく、かといっていじられたりするわけでもない、「フツーの」人だったらしい。
「見直したよね」と、解散後に女子たちが言っていたことを憶えている。そのときに感じた、苦い気持ちと一緒に。
川や海で溺れる人を助けに飛び込んだ、とか。ホームに転落した人を助けに自らホームに降り立った、とか。
そういう人に、「非常ボタンを押したらよかったのに」だとか、「飛び込んだらダメなんだよ」と、わたしは言いたくない。そして、「すごいよねー」とも言いたくない。なんだか、無責任に思えて。
“あの日動けなかった自分”が、わたしの中にずっと存在している。安全地帯で言う「かわいそう」の、なんと薄っぺらいことか。寄り添おうと本当に思えるなら、きっともっと違うことが言えた。動けなくても、もっと違う感情があったろうと思う。
あの日の対象は猫だったけれど、わたしたちは、人相手にもきっと同じことをしている。安易な「かわいそう」は、何もしない自分を守るためだけの言葉なのかもしれない。
そんな薄っぺらい言葉を吐くくらいなら、何かをしようと動く方がずっといい。言葉でしか何かができない状況なら、もっと考えて寄り添って、言葉を探した方がいい。
あの日にいた友達たちの名前も顔も、駆け寄った男の子の名前すらも憶えていないのに、ざわついた感情や、突き刺さった痛みは、今も生々しくわたしに残っている。
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