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曖昧な別離

生まれてしまったが最後、人は死ぬしかない。手に入れてしまったが最後、いつかくる失うときが怖くなる。そして、出会ってしまったが最後、必ずどこかで別れが訪れる。


「さよならだけが人生だ」というフレーズが、頭の中でぐるぐる巡っていた。漢詩の「勧酒」を井伏鱒二が訳したもので、恐らくわたしがはじめて知ったのは、マンガ「最遊記外伝」。わたしはこのマンガが好きすぎてたまらないのだけれど、それはまあ、今はさておき。


明確な「さよなら」なんて、大人になると死別以外案外ないものだなあと思う。学生時代は「卒業」があったけれど、大人になるとそうしたわかりやすい別離の頻度は少なくなる。そしてそもそも、今はSNSやLINEで簡単につながりを保てるから、100%の別れはどちらかが切り出さない限り滅多にない。そして、切り出すことも切り出されることも、あまりないものだ。

まあ、別れを切り出すことは労力を伴うことだし、面倒なことになるのも避けたいものだろうから、できるならフェードアウトさせたいのだろう。夫婦やカップルの場合は、「さよなら」が必要になるのだろうけれど。たぶん。(カップルにおいて自然消滅の割合はどの程度なのだろうか)


簡単につながれるからこそ、簡単に切れるのも事実だ。

明確な「さよなら」はなくても、いつだって薄ぼんやりとした「お別れ」はそこら中に転がっている。自分の意思とは関係なく別れは唐突に差し出されるし、差し出されたことにすら気づかない「さよなら」も、悲しいほどに転がっている。

手繰り寄せようとしても、こればかりは自分だけの意思や努力ではどうにもならない。「縁」とはそうしたものなんだろう。

もともと、この漢詩には「惜別」と「一期一会」のふたつの見方があるのだという。わたしは、いつだって今が惜別のときなのかもしれない、と思っている。それくらい、あやふやな関係性が多いから。

むしろ、わかりきっている「さよなら」の方が心が穏やかでいられるのに。そこで心に線を引き、受け止め飲み込んで前を向けるから。曖昧なままにされてしまったお別れ(かもしれないもの)は、長い間、心をチクチクと刺し続ける。別れを受け入れようとする心と、否定したい心とがせめぎ合う。

ぼんやりとお別れした関係性なら、またぼんやりと戻ることもあるのかもしれない。せめて、そう願いたくなってしまう。さよならだけの人生は、とても悲しい。それなのに、また出会いを求めてしまうのは、もっと哀しい。


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