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“誰か”なんて関係ない天使じゃない子どもたち

子どもは天使だ。

……という気はない。子どもは天使なんかじゃない。子どもは人間だ。当たり前の、ひとりの人間でしかない。

ずるいことだって、嘘をつくことだって、たった5年しか生きていなくても勝手に覚えてくる。

長男が小さかった頃、仲の良いママたちと、1歳半を過ぎた頃くらいに「あ、目が濁ってきたね」と冗談交じりで話していたことがある。

これは本当で、赤ちゃんの目の輝きと2歳に近づいた子どもの目の輝きとは、確かに違ったのだ。単に成長して白目が見えるようになっただけなのかもしれないけれど、わたしたちは「人間になっちゃったね……。欲を覚え始めたね……」と話していたものだ。(イヤイヤ期に入る頃だったし)

その頃から、子どもは親の従属物ではなく、意志を持った「ただのひとりの人」だという当たり前すぎることを、あらためて意識せざるを得なかった。

ただ、だからといって、子どもは大人のミニ版だというわけでもない。

成長段階にいるからこそ、視野が「今」にしか向いていなかったり、自分と他人との区分が曖昧だったり。そういうところが、すでにそこを通り過ぎた大人から見ると、時として無垢に見えるのだろうな、と思う。固定概念なんて、まだまだ持ち得ないわけだから。


「今」しか見ないなんてことは、大人にはなかなかできない。いくら「今が大切」だと思っていても、本当に「今しか」考えないなんてことは、きっとない。大人の「今」は、よりよい未来に繋がるための「今」であるとも思うから。それは未来を生きていくために必要な思考力でもあるわけだけれど。

子どもは、本当に「今、このとき」しか考えていない。考えられない。全身全霊で遊んで、時間に没頭することが当たり前のようにできる。「やりたいこと」なんて大人のように考えなくても、「やりたいこと」を勝手に始めている。
そのときに、明日や来週のことなんて、きっと頭にないのだろうと思う。


子どもは、「自分」が主体だ。思いやりや気遣いは身につけはじめているけれど、「できたよ!」というとき、それは「ぼくが・わたしが“できた”」という意味でしかない。「◯◯ちゃんよりもできたよ!」というようなニュアンスの「できたよ」は、幼い子どもからはまだ出てこない。「すごいでしょー」という子どもの自尊心は、子ども自身の努力や結果から育まれる。誰かを引き合いに出して「すごいでしょ?」にはならない。

大人は、どうだろう。マウンティングという言葉があるとおり、「あの人より優れている自分」という判断基準にがんじがらめになっている人は、決して少なくないのではないかな。

大人社会は競争しなければならないわけだから、比較対象が生まれること自体は仕方がないことだ。けれども、自分ができることを突き詰めて伸ばしていく、深めていくことよりも、「誰かより上」に意識が向き過ぎていると感じる人は、見ているとだんだんギスギスしたものを感じてしまうのだけれど。

目的は「誰かより優れた自分」になるのではなく、結果として「優れた自分」になることだと思う。誰かより優れているからすごいのではなくて、その人がすごいからすごいのだ。結果、周りよりも抜きん出られただけで。「すごい」がゲシュタルト崩壊しそうだなあ(笑)


「誰かよりすごい」「誰かよりできる」「誰かよりも上」……こうした想いが透けてみえることが重なると、どうにもわたしは疲弊してしまう。感情が乾いてしまう。「誰か」なんて立てなくても、結果を生み出しているのなら、それで十分あなたの「すごい」は表れているのになあ、と思う。


子どもは天使なんかじゃない。だけど、子どもの世界を見つめることで見えてくるものはあるね。

「おれ、すごかった?」と屈託のない笑顔で問いかけてくる息子たちを見ながら、そんなことを思った、音楽会の一日でした。

……帰宅後、「今」しか大切にしなかったせいで、その「未来」である今、部屋が大惨事なんだけれどね。



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