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崖っぷちから引き戻してくれた一言

満員のバスの中、乗り込んできた幼い女の子とお母さんが目に入る。座席を譲ろうと声をかけたら遠慮されてしまい、目の前の女の子に「座る?」と聞いた。「うん」とうなずいてくれたため、席を譲る。恐縮するお母さんに「いえいえ、揺れて危ないですし」と笑って応えた。

実はこの日、わたしは生理痛でつらかったのだけれど、このちょっとしたやりとりでなぜだか少し楽になった。情けは人の為ならず。情け、というか善行と呼ばれることは、する側にもいい作用があるなと思った。

わたしのささやかな行動で、あのお母さんの一日もよい始まりになっていたらいいなと思う。

今朝、こんなツイートをしたら、多くの人にいいねをもらった。

いっぱいいっぱいになっているときに、肩の力を抜かせてくれるのは、いつだって“誰か”だ。自分では、いくらポジティブに言い聞かせていても説得力が小さい。「がんばってるよ」という思いは、時に言い訳をしているような気すらしてしまうから。そして、じりじりと崖っぷちに行ってしまう。


受け入れてくれることがわかる発言や行動、笑顔は、知らず知らずのうちに切羽詰まっている人を崖っぷちから引き戻す力がある。

ツイートで書いたおばあちゃんのひとことだけではなく、小児科の先生や保健師さん、幼稚園の先生や学童の先生、通りすがりの人、近所の人、店員さん、わたしの友達。いろんな人のおかげで、わたしは何とか“ここ”に踏みとどまっていられるのだと思っている。

子どもは昔から好きだったし、面倒見もよかった。「堪え性がある」と言われてきたし、子どもと相対するときは気が長いと言われ、自分でもそう思っていた。「いいお母さんになりそう」とも言われつづけてきた。

でも、だけど、実際の子育てはそんな前評判やら自己評価は当てにならなかった。もちろん楽しいことも多いけれど、瀬戸際感も半端ない。今も母による虐待ニュースが出るたび「明日は我が身」と思うし、裏側の事情がいつも気になる。一寸先、でしかないのだ。

余裕がないのは、親だけではない。

通勤ラッシュの駅構内や車内で見かける人たちを見ていてもそう思うし、何なら通学路で旗当番をしているときに見る子どもたちからも疲弊している様子を感じることすらある。子どもの余裕は大人が奪っているのかもしれないと思うと、のどがきゅっと狭くなる。ごめんね、と思う。わたしもしょっちゅう余裕をなくしているから。

自分に余裕がないときほど、人の余裕をさらに奪うことはやめたい。むしろ、わたしを引き戻してくれたたくさんの人たちのように、瀬戸際に立つ人の肩をぽんと軽く叩くような言葉や態度を示せたらと思う。

そして、それはバスでのできごとのように、わたしに余裕を与えてくれる。誰かのためではなく、わたしが生きやすくなるためにも必要なことだと思うのだ。

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