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【祝日本公開】『オッペンハイマー』を巡る、断つべき偏見と寄せる期待

はじめに

ついに3/29(金)に日本公開されることが決まったクリストファー・ノーラン監督最新作『オッペンハイマー』。
1/23(火)にノミネート作品が発表されたアカデミー賞では、最多13部門でのノミネートを果たし、ノーラン監督初となる監督賞の受賞にも期待がかかっている。

日本での公開を決断してくれた配給のビターズ・エンド社には、感謝と経緯の意を表したい。

昨年の公開時から既に海外で鑑賞を済ませた人も散見されるが、このnoteではあくまで未鑑賞の観客としての立場から、『オッペンハイマー』についてのノーラン監督へのインタビューや、書籍での監督の発言を参照しながら、2024年現在もSNS上で見受けられる『オッペンハイマー』への行き過ぎた憶測・誤解・偏見を断ち切りつつ、この映画で「何」を「どう」描くのかについて、公式発表情報やノーラン監督の過去作で用いられた手法、また監督が映画を作る上での信念を元に考察する。






ノーラン監督は『オッペンハイマー』で「何」を描くのか?

『オッペンハイマー』の公開に懐疑的な立場の意見として、「広島・長崎をどう描くつもりなのか」「原爆がテーマの映画は断固として受け入れられない」「アメリカ、そして原爆を礼賛するだけの映画だ」といったものがよく見受けられる。まずこれらの意見に端的に答えるとするならば、「『オッペンハイマー』はそもそも原爆がテーマの映画ではないし、広島・長崎については描かれない可能性の方が高い」と言えるだろう。

一体どういうことなのか。『オッペンハイマー』について公開前に多くの情報が集約されていた in70mm.com のプロダクションノート(2024年現在は非公開)で「Hiroshima」「Nagasaki」のワード検索を試みると、「Hiroshima」で0件、「Nagasaki」でたった1件の結果となる。「Japan」で検索をかけてもヒットは0件だ。唯一「Nagasaki」でヒットした箇所は、「ハンス・ベーテはマンハッタン計画の理論部門を率い、トリニティと長崎で爆発した爆弾の設計を開発した。」の一文のみである。「R指定がついているので、きっと広島と長崎の惨状が描写されているのだろう」という意見もみられるが、本作にR指定がついているのはヌード・性描写のためである。

では広島と長崎についての描写がないのであれば、ノーラン監督は一体『オッペンハイマー』で何を描こうとしているというのか。同じくプロダクションノートを参照すると、本作のロケーションは、原爆の開発が行われた「ロスアラモス研究所」、世界初の核実験が行われた「トリニティ実験場」の2つがメインとなっている。また予告編では、オッペンハイマーが公職を追放されることとなった「オッペンハイマー聴聞会」のシーンも見受けられる。そして本作で描くテーマについて、監督は次のように語っている。

「オッペンハイマーの物語は、この世に存在する素晴らしい物語の一つだ。この映画には矛盾と倫理的ジレンマが沢山あり、僕はそのようなテーマに常に関心がある。この映画は、彼らがなぜそのようなことをしたのかを観客に理解してもらうのと同時に、何をすべきなのかを問うものでもあるんだ。」

https://www.in70mm.com/news/2023/oppenheimer_info/index.htm

「僕たちはオッペンハイマーの精神に潜り込み、観客を彼の感情の旅に連れて行くつもりだ。それがこの映画の課題だった。」

https://www.in70mm.com/news/2023/oppenheimer_info/index.htm


つまり、『オッペンハイマー』はあくまで文字通り「オッペンハイマー」についての物語であり、原爆開発に至った経緯と、彼を取り巻いた環境、彼が抱えた葛藤やジレンマを、オッペンハイマーの視点から描く作品なのである。

では、「原爆やアメリカを礼賛するだけの映画だ」という指摘はどうなのか。これもノーラン監督の別の発言を踏まえると、全く筋違いの批判であることがわかる。
オッペンハイマーは後年、原子力の国際管理の必要性を訴え、また水爆開発に異を唱えたことで当時の政府から政治的な理由で疎まれた結果、「オッペンハイマー聴聞会」で公職の座を追放されることになる。このことについて触れた監督はWIRED誌のインタビューで次のように述べている。

オッペンハイマーの特徴は、彼が戦後の科学者の役割を、世界のこの力(原子力)をどのように規制するかを見つけ出さなければならない立場であると真剣に考えていたところにある。そして彼に何が起こったのか(オッペンハイマー聴聞会)を振り返れば、それは決して許されることではないことがわかる。

https://www.wired.com/story/christopher-nolan-oppenheimer-ai-apocalypse/

オッペンハイマーの不遇な境遇を踏まえつつ、2024年の現在でさえ、原子力の国際管理が実現していないこと、そしてその事実を許されないとまで断じたノーラン監督が、原爆を礼賛するような映画を作るとは到底考えられない。

以上の点を踏まえるだけでも、『オッペンハイマー』が何を目的として、そして何を訴えるために作られた映画なのか、より明確になったはずだ。




ノーラン監督は『オッペンハイマー』を「どう」描くのか?

ノーラン監督の過去作品、例えば『ダンケルク』と『インターステラー』では、映画を構成する「視点」が非常に限定されているのが特徴的である。

『ダンケルク』では第二次世界大戦の歴史的撤退戦「ダイナモ作戦」を陸(1週間)・海(1日)・空(1時間)のそれぞれを交差させながら描いている。取り扱うテーマが第二次世界大戦なだけに、『プライベート・ライアン』や『西部戦線異常なし』に代表される戦争映画のように、戦時中の各国の政治的な思惑、兵士の帰りを待つ人達の感傷的な心情、そして血生臭い戦闘シーンがいずれも大規模で描かれるかのように思われるが、『ダンケルク』にはチャーチルの演説はおろか、敵兵士の姿さえほとんど映ることはない。あくまでも「ダイナモ作戦」に奮闘した者たちの三者三様の体験が、極めて主観的に描かれているのである。

『インターステラー』は、気候危機による作物の不作で滅亡の危機にある地球を救うため、主人公クーパーが娘マーフとの別れを惜しみつつも、宇宙の遥か彼方へと踏み出す物語である。この作品においても描写の限定性が顕著で、地球がなぜこのような状況になったかは全く触れられることはなく、災害の様子をけたたましくレポートするテレビスクリーンも登場しない。

このような「視点」の限定性は、『オッペンハイマー』では「主観」と「客観」というキーワードで物語の構造の鍵を握る。ノーラン監督は大胆にも、「主観」のパートをカラーで、「客観」のパートをモノクロで撮影し、2つをクロスカッティングさせる手法を採用した。プロダクションノートによると、主観パートは、脚本としては異例の一人称で書かれた脚本を元に、もちろんオッペンハイマーの視点で進行する。主な舞台は先にも挙げたロスアラモスとトリニティ実験場であるが、予告編やスチル写真を見る限り彼の学生時代も描かれることが予想される。客観パートでは、オッペンハイマー聴聞会で”対オッペンハイマー”の重要人物となるルイス・ストローズの視点から描かれることが、ノーラン監督へのインタビューで明かされている。

カラー映像とモノクロ映像を交錯させる手法は、過去に『メメント』で主人公の前向性健忘と、それによる脚本のトリックを効果的に描くことに成功した。そして異なる時制のクロスカッティングはノーラン監督作品の醍醐味でもある。『インセプション』では夢の階層構造を、『インターステラー』では遠く離れたクーパーとマーフを、そして『ダンケルク』では長さの異なる陸海空の生存劇を、クロスカッティングを用いてスリリングに演出してきた。

「主観」と「客観」について、過去にノーラン監督は次のように発言している。

「自分が拘束されている世界を主観的に捉える思想と、客観的な現実が存在するという揺るぎない信念の間には葛藤が生まれる。僕はその葛藤を深く理解する手段に興味があるんだ。」

『ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術』

オッペンハイマーを巡る物語を「主観」と「客観」の双方からアプローチし、彼の葛藤を描くことになる本作になんともピッタリな言葉である。また、このように物語を構成する「視点」を敢えて限定させて余計な要素を省くことで、観客にとっての解釈が限定されるのではないか?とも思えるかもしれないが、ノーラン監督はこの手法を逆手にとり、映画を作るうえでの考えを次のように表現している。

物語を利用して人にこう考えるべきだと押し付けることはできない。絶対にうまくいかないだろう。観客は反発するだけだ。映画はもっと純粋なものでなければならない。物語の原則に忠実であるべきなんだ。誤解を招く危険性を覚悟のうえでね。」

『ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術』

『オッペンハイマー』も恐らく、このような信念に基づいて作られているのではないだろうか。原子爆弾がこの世に生まれ出でてしまったことそのものに対し、正しい、正しくないといった安直な結論を下すのではなく、オッペンハイマーとストローズの視点を通して、核を巡る問題の複雑さを浮き上がらせる一本に仕上がっているはずだ。




フランスで行われたワールドプレミアで『オッペンハイマー』が先行公開された際の、THE RIVERにまとめられた先行レビューはどれも、『オッペンハイマー』が一筋縄ではいかない作品であることを印象付けるものだった。

レビューを一部紹介する。

「『オッペンハイマー』は私の今年の映画だ。クリストファー・ノーランは見事なやり方で、3時間をあっという間にしてしまう。キリアン・マーフィーとロバート・ダウニー・Jr.は信じられないほど凄い。物語は、第二次世界大戦における人間性の欠如という悲劇としても、細やかな人間ドラマのレベルでも恐ろしい。見事だ、そして怖い。

「素晴らしい映画だ。“恐ろしい”という言葉が常に頭に浮かぶ。容赦ないテンポの、異様なまでに細かく、そして入り組んだ歴史ドラマは、ひたすらに積み上げられてゆく。最も驚くべき、また衝撃的な方法で、ノーランのハンマーが振り下ろされるまで。」

「『オッペンハイマー』について控えめでミステリアスな態度をとるべきか、それとも、私の脳をプルトニウムの原子核のごとく切り裂いた大傑作だと言い切るべきかで迷っています。エンドクレジットの最中、ずっと嗚咽していました。こんな映画は他に思い出せない。

この映画が原爆賛成で終わると本気で思っている人がいるなんて信じられない。

一部を抜粋したが、「怖い」「恐ろしい」と言ったレビューが目立つ。その恐ろしさの正体は、世界初の核実験、トリニティ実験をCGを一切使わずに再現した圧倒的な映像によるものはもちろん、2024年の現在も世界情勢に緊張感を与えている核兵器を巡る問題を、我々観客にどう投げかけているかによるものだろう。




最後に、『オッペンハイマー』のラストが『インセプション』のラストに通ずる所があるとするノーラン監督の意味深な発言を紹介して、本記事を締めくくりたいと思う。

「『インセプション』のラストシーン、まさしくそれだ。あのラストには虚無主義的な見方があるだろう?それでも彼(コブ)は前に進み、子供たちと共にいる。この曖昧さは感情的な曖昧さではなく、観客にとって知的なものだ。面白いね、『インセプション』と『オッペンハイマー』の結末には、探究するべき興味深い関係があると思うよ。『オッペンハイマー』の結末は複雑だ。複雑な感情を抱くと思う。」

https://www.wired.com/story/christopher-nolan-oppenheimer-ai-apocalypse/

ノーラン監督は『オッペンハイマー』を通して観客をどのような境地へと連れて行くつもりなのか。あとは日本公開日を座して待つのみである。


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