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創作落語「ドッグライフ」

 昔々、喜劇王チャップリンが監督・主演したサイレント映画に「犬の生活」という名作がございました。失業してしまって財布も空で住む家もないチャップリンが、ひょんなことから気脈を通じて仲間になった一匹の野良犬とゴミとペーソスにまみれた路上生活を謳歌する、みたいな感じのストーリーで、今からもう百年以上も前になる二十世紀初頭の都市最下層民の野良犬並みの生活を喜劇仕立てにして描き出しておりました。犬ですから、道端でもどこでもお構いなしに寝たいときに丸くなって寝ちゃいますし、食べ物は道端の露天商からくすねたり、残飯を漁ってみたりと、そういったのが、まあ当時の犬の生活であったわけです。ですが、それから百年ぐらいの年月が経ってみると、そりゃあもう犬の生活というのは格段に向上いたしましたね。近ごろは野良犬なんてほとんど見かけません。ちょっと前までは、小学校の朝の朝礼の時に校庭にどっかから野良犬が紛れ込んできて、もう校長先生の話なんかそっちのけで全校生徒が逃げまどってパニックなんてことがよくありました。犬もあまりの事態に仰天したのか、はあはあいいながら女の先生の足にしがみついちゃったりなんかして。本当にえらい騒ぎでした。ですが、今やほとんどが飼い犬です。愛玩されてます。もうね、ペットは家族の一員というくらいですから、一個千円ぐらいする缶詰のドッグフードだって、ぺろりと平らげちゃうのね。高いんだからもっとゆっくり味わって食べなさい、なんて言われてんだけど、やっぱり本能なんですかね、ガッガッガッと丸呑みです。まさに犬食いね。それでも人間の生活困窮者なんかよりは、よっぽどいいものを食べてるんですわ。たまりません。いつしか人間の方が犬の生活を羨むような、あべこべな時代になってしまいました。そのうちに犬たちが困っている人間に食べ物を分け与えようなんていう慈善活動を始めますよ、きっと。食うに事欠く惨めな人間の姿をこれ以上はもう黙って見ておれませんってんで、直接行動だデモ行進だって集まってみんなで遠吠えなんかもするでしょう。ここまでくると犬たちの声にだって耳を傾けないわけにはいきません。いわゆるヒズ・マスターズ・ヴォイスの作法で、きちんと正座して、小首をかしげちゃったりなんかして、とっくり拝聴いたします。そしたらもう、早晩、政府は困窮者に毎月十万円を給付するなんていうベーシック・イヌカム的なことをおっ始めますよ。つまり、分配で経済まわそうイヌノミクスです。三本の矢ならぬ異次元の三つの首輪でイヌフレターゲットに向けてワン・チームで加速だワン。エンジンふかして法螺ふくな、ぴょんぴょん跳ねれば棒にあたる、なんてね。人類は感謝しなくちゃあいけませんよ。犬たち、本当にどうもありがとう。誰も犬死になんてしたくはありませんからね。生類憐れみの令が復活して、たくさんの野良人間たちの命が救われることでしょう。人間が犬たちのペットになって、御犬様ならぬ御人間様などと呼ばれて大事にされる日もそう遠くはないのかもしれません‥、ん?

 なんていう毎度ばかばかしい犬にまつわるエトセトラ、ひとつお付き合いをお願いいたします。

長屋(鏡)

 ところは蔵前あたりの貧乏長屋。ここに住んでいるのが、犬の四郎。もちろん通称である、と言いたいところだが、これが通称のようで通称じゃないらしい。「姓は犬、名は四郎、人呼んで犬四郎(ケンシロウ)と申します」などと本人は大真面目に名乗っているけれど。そんなの誰も真に受けちゃあおりません。近所の人たちは表向きには親しみを込めて「四郎さん」だなんて呼んでます。ですが、裏にまわれば、ご推察の通り、そりゃぁただの「犬」呼ばわりです‥

 部屋の真ん中に座り込んで、四郎が何やら熱心に本などを読んでおります。なかなかこんなボロ長屋で読書に耽るような物好きは、そう多くはありません。ですが、この四郎、今や知恵熱を出さんばかりにずんずんあふれ出てくる知識欲を満たさんがために、暇さえあれば書物と格闘しておる次第であります。
「わたしは犬である。わたしは人間である。でも、まだほんとうの人間ではない。犬のわたしと人間のわたしがいて、二つのわたしが別々のわたしなのか同じわたしなのか、わたしにもよくわからない。わたしとわたしの境い目が曖昧になって、わたしがわたしじゃなくなったり、わたしがわたしになったり、わたしとわたしが入れ替わったりする。世の中には不思議なことがいっぱいある」

(本を閉じて、丸まった背を起こし、気持ちよさそうに伸びをして、天井に顔を向け大きな欠伸をする)
「いやあ、読んだ、読んだ。やっぱり字が読めるようになってみると、何を読んでも楽しいね。いっぺえおもしろいことが書いてある。これなんかは、モロコシってところの話らしいが、不思議だねえ。ここいらでもそんな不思議なことが起こるのかね。なんでも、死んだ人間が鏡の中でまだ生きているっていうんだからさぁ。いや、ほんとかねえ。一度見てみたいね、その鏡というやつをさ。そん中にいるっていう死んでる人間も、おもしろがってこっちを見てんのかもしれねえや。『おや、おいおい、生きてる人間がこっち見てるぞ、こりゃ不思議だねえ』なんていってな。そうなると、もう、どっちが死んでるのか、どっちが生きてるのか、わかんなくなるだろうね。まあ、どっちもそう大差はねえのかもしれねえけどな‥。死んだ人間と生きた人間を、顔と顔を突き合わせて向かい合わせにしちまおうってんだから、鏡ってのは怖いもんだねえ。でも、不思議だねえ。世の中にはいろんな不思議なことがある。おもしれえじゃねえか、おもしれえ、おもしれえ、おれもなんか不思議なことを見つけに行くとするかね」

往来(手紙)

 あちこち嗅ぎ回りながら歩き回る四郎。そこらを嗅ぐことで街の最新情報を仕入れている様子。
「ふんふん、ふん、ふん、ふふん。ああ、ああ、なるほど。なるほどね。クンクン、クンクン、クンスカ、クン。ありゃまぁ、そうかい、そうかい、ははーん、わざわざそんなことまで教えてくれるとはね、わりぃね、ありがとよ、恩にきるぜぃ」

 そんな四郎の姿を、近くの魚屋の夫婦が店先で不思議そうに眺めている。
「あれ、あの人また電信柱と話したりお礼を言ったりしてるよ、なんなんだい、あれ? 怖いねぇ」
「いいから、いいから、ほっとけ、ほっとけ。ほらほら。こういう陽気になってくるとな、ああいう人はあっちからもこっちからも湧いてくるもんさ。好きにさせといておやりよ」
「ほんとかい、やだねえ、なんか気持ち悪いよ」
「お前が寝言で誰かと話してるのを毎晩聞かされる方が、よっぽどぞくぞく寒気がするってんだ」
「いやぁだよ、あたしゃ誰とも話しちゃいないよ。だって、寝てんだから。もしかして、もしかすると、あんたが毎日ものすごーく悪い夢ばかり見て、ひとりでぞくぞくしてるだけなんじゃないかい? ちゃんと布団かけて寝ないからだよ、きっと」
「ああ、そうかもな。そうかもしれねえ。みんなみんな悪い夢だっていうんならょぅ、こんなの早いとこ覚めちゃってもらいてえねぇ、こっちはもうずっとぞくぞくしっぱなしなんだからよぉ」
「おやおや、かわいそうな男だねえ。ぱくぱくぱくぱく口ばっかり動かしてないで、さっさと働きなよ」
「あぁ、今日もまた、真昼間からぞくぞくしっぱなしだよぉ。でも、おれは‥、まぁ、この分じゃ、きっと長命だ」

 そうこうしている間にも、四郎はさんざん嗅ぎ回って、いろいろと情報収集をしております。
「伊勢屋の六九郎に岩田屋のコゲ蔵、そして陣屋に今度秋田からきたっていう新入りか。ほかの街から出張ってきてるのもいくらかいるね。ここいらの縄張り争いが、がぜん激しくなってきてらぁ。ちょっと前だったら、鬼の六九郎が向かうところ敵なしだったが、近ごろはそうでもなくなってきた。こりゃあ、いろいろと荒れそうな気配だ。まあ、おれみたいに腕っぷしがひどく弱えぇのは、それなりによさそうな頃合いを見計らって、最後の最後に笑いそうな神君を見定めてからひょっこりと加勢するのが賢明なところだと思うがね‥。それまではじっと成り行きを見守るしかないや。おうっと、この先は厠だったか‥。どうりで、さっきからいい臭いがしていたわけだ。ちょいと引っ返そう‥」

(路地の角から往来を右から左、左から右へときょろきょろと見渡している四郎。すると、向こうの方から何かがやって来るのを発見する)
「おやおや、あっちから三味線のお師匠さんのとこの乙な年増がくるねぇ。あれまあ、あちらもこっちを見ているよ、へへっ、何だかとっても意味ありげなあやしい目をしてるねぇ。いいねえ。いいねえ。またここんところにきて、ぐっと色気が増したんじゃないかねぇ。え? おいおい、どんどんどんどん色っぽくなっちまって、いったいこのおれをどうしようってえんだ、まったく、くーぅ、煮るなり焼くなり、くーぅ」
(すれ違う間中、じっとりと熱っぽい流し目を送られてぶるぶると震えあがる四郎)
「時季が来たらさぁ、しっぽりとしけこみたいとこだよねぇ。参ったねぇ、こりゃあ。うふっ。うふっ。こうモテちゃうと、気持ちも身体もいくつあっても足りやしねえやね。困っちまうね、くーぅ」

(歩きながら、ひとり勝手に妄想を膨らませる四郎)
「いつもの道をさぁ、いつものようにほっつき歩いていてね、ひょいっと顔を上げると三味線のお師匠さんの家の奥から呼ぶ声がするのよ。『あぁら、四郎さん』なんてね。まるで、おれがここを通るのを待ち構えてたみたいにね。なんせ、通った途端にぴったりと涼しげな声がかかるんだからね、これが。『今日はお師匠さんが出かけて留守だから、ちょいと上がっておいきなさいよぉ、ひとりじゃつまんないんだよ、相手をしておくれよぉ』なぁんて猫撫で声を出してくる。それでも、こっちは『最近は、あの秋田生まれの野郎にちょっかい出してるって噂を聞いてるぜ』なんて、まずは軽く機先を制しておく。『そんなこと誰から聞いたんだい? 嫌だよ、根も歯もない作り話を信じちゃあ。あんなずんぐりむっくりをあたしが好かないの、よく知ってるだろう? あんたの方が何倍も男前だよ』ってね、そんな風にいわれると、こっちも照れちまうよね。『そ、そうかい』なんていって、ひょいっと顔を上げると三味線のお師匠さんの家の奥から呼ぶ声がするのよ。『あぁら、四郎さん』なんてね。まるで、おれがここを通るのを待ち構えてたみたいにね。なんせ、通った途端にぴったりと涼しげな声がかかるんだからね、これが。『今日はお師匠さんが出かけて留守だから、ちょいと上がっておいきなさいよぉ、ひとりじゃつまんないんだよ、相手をしておくれよぉ』なぁんて猫撫で声を出してくる。それでも、こっちは『最近は、あの秋田生まれの野郎にちょっかい出してるって噂を聞いてるぜ』なんて、まずは軽く機先を制しておく。『そんなこと誰から聞いたんだい? 嫌だよ、根も歯もない作り話を信じちゃあ。あんなずんぐりむっくりをあたしが好かないの、よく知ってるだろう? あんたの方が何倍も男前だよ』ってね、そんな風にいわれると、こっちも照れちまうよね。『そ、そうかい』なんていって、ひょいっと顔を上げると三味線のお師匠さんの家の奥から呼ぶ声がするのよ。『あぁら、四郎さん』なんてね。まるで、おれがここを通るのを待ち構えてたみたいにね。なんせ、通った途端にぴったりと涼しげな声がかかるんだからね、これが。『今日はお師匠さんが出かけて留守だから、ちょいと上がっておいきなさいよぉ、ひとりじゃつまんないんだよ、相手をしておくれよぉ』なぁんて猫撫で声を出してくる。それでも、こっちは『最近は、あの秋田生まれの野郎にちょっかい出してるって噂を聞いてるぜ』なんて、まずは軽く機先を制しておく。『そんなこと誰から聞いたんだい? 嫌だよ、根も歯もない作り話を信じちゃあ。あんなずんぐりむっくりをあたしが好かないの、よく知ってるだろう? あんたの方が何倍も男前だよ』ってね、そんな風にいわれると、こっちも照れちまうよね。『そ、そうかい』なんていって、ひょいっと顔を上げると三味線のお師匠さんの家の奥から呼ぶ声がするのよ。『あぁら、四郎さん』なんてね。まるで、おれがここを通るのを待ち構えてたみたいにね。なんせ、通った途端にぴったりと涼しげな声がかかるんだからね、これが。『今日はお師匠さんが出かけて留守だから、ちょいと上がっておいきなさいよぉ、ひとりじゃつまんないんだよ、相手をしておくれよぉ』なぁんて猫撫で声を出してくる。それでも、こっちは『最近は、あの秋田生まれの野郎にちょっかい出してるって噂を聞いてるぜ』なんて、まずは軽く機先を制しておく。『そんなこと誰から聞いたんだい? 嫌だよ、根も歯もない作り話を信じちゃあ。あんなずんぐりむっくりをあたしが好かないの、よく知ってるだろう? あんたの方が何倍も男前だよ』ってね、そんな風にいわれると、こっちも照れちまうよね。『そ、そうかい』なんていって、ひょいっと顔を上げると三味線のお師匠さんの家の奥から呼ぶ声がするのよ。『あぁら、四郎さん』なんてね。まるで、おれがここを通るのを待ち構えてたみたいにね。なんせ、通った途端にぴったりと涼しげな声がかかるんだからね、これが。『今日はお師匠さんが出かけて留守だから、ちょいと上がっておいきなさいよぉ、ひとりじゃつまんないんだよ、相手をしておくれよぉ』なぁんて猫撫で声を出してくる。それでも、こっちは『最近は、あの秋田生まれの野郎にちょっかい出してるって噂を聞いてるぜ』なんて、まずは軽く機先を制しておく。『そんなこと誰から聞いたんだい? 嫌だよ、根も歯もない作り話を信じちゃあ。あんなずんぐりむっくりをあたしが好かないの、よく知ってるだろう? あんたの方が何倍も男前だよ』ってね、そんな風にいわれると、こっちも照れちまうよね。『そ、そうかい』なんていって、ひょいっと顔を上げると‥。って、おいおい、これじゃぁちっとも先へ進まねえや。こっからが大事なところだってのによう。勘弁してくれよ。ったく、どじな野郎だぜ。これだから四郎は、いつまで経っても堂々巡りから抜けられねえのさ。あぁら、よっと」

(浮かれて陽気に歩き続ける四郎)
〽︎高い山から谷底見れば
 エッチラセーオッチラセー
 底の方でも山ぁ見ぃてぇるぅ
 お山がどっこい
 谷でもどっこい
 陽気だね
 エッチラセーオッチラセー

「おっと、こんなデララメばかり歌ってると、お師匠さんに怒られちまうね、べんぼくだい」

川べり(無常)

 まるで気が抜けたかのように川縁の斜面に腰を下ろして、四郎がひたすらぼんやりとしております。
「結構さぁ、必死になって探してみたんだけどなあ、これでもよう。なのにさぁ、なんでかなぁ、不思議なことなんて、何ひとつありゃぁしない。みーんな、いつもとおんなじ。代わり映えしなさすぎて、ちっともおもしろくねぇ。やっぱり、モロコシってのは、こことはずいぶんと違うんだろうなぁ。いいなぁ、行ってみてえなあ。不思議がいっぱいあるところ」
 なんて、ため息まじりにひとりごちていた四郎ですが、いつしか目の前を流れる川に眼が釘付けになっております。
「ん? んん? おい、おい、ちょっと待てよ、え? どうした、どうした、こりゃ、どうしたことだ。ここにあんのは、え? 川だねえ、うん、これは川だ。でも、これは、えーと、ひょっとすると、なかなか不思議なもんなんじゃねえのか? いつもは、何の気もなしに眺めていたもんで、ちっとも気づかなかったけどよお。うん、こりゃあ不思議だ。川だぜ、川。おい。おい。いったい川って何なんだよ。考えてみても、ちっとも分からねえや。第一、川ってのは何で川っていうんだ? 誰が最初に川って言い始めたのさ。やっぱり大国主とか聖徳太子とかなのかい? おーい、川、お前はいつから川なんだー?」
「お若いの、先刻よりずっとあれをひとりで眺めているようだが、もしや川が好きなのかね?」
 急に人の声がして、にわかに我に返ると、傍らに隻眼の老人が静かに立っていた。酔狂な大店の元旦那が今は隠居して戯作者にでもなったかのような雰囲気。身綺麗で小ざっぱりとはしているが、どことなくただものではない気配が漂っている。
「誠に失礼だとは存じますが、どこのどなた様でございましょう。このような犬の如き卑しきものに、こんなところでお声がけくださるのは」
「ただのぶらりぶらりとしているだけの、つまらぬ者じゃよ。大昔には中洲の大学で教授などをしていたが、今は見ての通りの隠居の身だ。本当の名は森田というが、いつからか文字を入れ替えてタモリとも呼ばれておる。まあ、どちらでもそう大して変わらない。どうとでも呼べばいい。そりゃあもう大騒ぎさ」
「さ、さようでございますか。大変にお偉いお方とお見受けいたしましたが‥」
「ほれ、あの橋のところ、ちょっと見てごらんなさい。川の水面から橋までの高さがかなりあるだろう? でも、ほれ、あっちの橋はかなり川に近いところに架かっている。この違いがわかるかい?」
「はい。はっきり違いますね。こっちの橋は、随分と高いところにあったんですねえ、ちっとも気づきませんでした」
「そうだ。この川縁の高さから見比べてみると違いがよく見える。そして、向こう岸の橋が架かっているところは、川の流れによって削られた崖になっている。ちょうど丘陵地の縁で、そこを川が湾曲しながらえぐるように流れて崖になったのだ。だから、高い。さらに、その橋のたもとのすぐ脇、縁の際に稲荷神社がある」
「確かに、大きな崖の上に神社があるように見えますねぇ」
「ここから見上げると、あの橋よりももっと高いところに神社があるのがよくわかるな。なぜ、あの神社があんなに高いところにあるのかというと、あそこには元々、大昔にこの辺りに住んでいた人物の墓があったのだ。それで神社ができる随分前に、もうすでにあの場所には大きな塚が築かれていたのだな」
「はあ。あ、あれが全部、人の墓なのですか?」
「いかにも、墓である。この土地に居住していた人々を束ねる首領のような人が、その権勢の大きさを示すために大きな墓を作ったのだよ。ちょうど川縁の崖の上のとても目立つ場所にな」
「はて、その昔の人ってのは、まるで山のような大きさの人だったんですかねえ。川が流れる下の方から見ると、こっから、あそこまで、見上げるような背の高さだったのではないですか? だから、あれだけの大墓になったんでございましょう?」
「いや、人の大きさは昔も今もそう大して変わってはおらん。巨大な人間を葬ったのではない。それほどに豪奢な墓を作れるくらいに羽振りの良い人がここにいたということじゃ」
「あれまぁ、昔の人もなかなかやるもんですね。隅に置けないなあ、まったく。そいつぁ、もしや博打かなんかでがっぽりと儲けたんですかねえ、それとも富くじにでもあたったのかしら、もしかしてもしかすると、物取りとか強盗の親分だったとか何かですかぃ?」
「何を言っておるんじゃ、そんな羽振りの良い悪人の墓だったら、とっくの昔に暴かれて盗掘されて今はもう跡形もないだろうよ。それに、そんな悪人が眠る場所に神を祀ることもなかったのではないかな」
「そりゃそうですねえ。でも、あんまり墓や神社のことなんてのには、正直言うとそれほど興味はないんですよ」
「そうであったか。だが、昔の人のことというのは、調べてみるとなかなかおもしろいものがあるぞ」
「いえいえ、わたしがずっと不思議に思って見ていたのは、そこにある川の水の流れなんですよ」
「お前さんが好きなのは、水なのかい。水の流れねえ。あそこにある崖の高低差も、川の流れというか、川の水の流れの力が川岸の地面を少しずつ削っていったことで、あんなになってしまったわけである。そう思うと不思議だろう? 何十年、何百年という時間をかけて、川の水だけによって、ああいう地形が出来上がったんじゃ」
「いや、池のことを言ってるんじゃないんです。川ですよ。ほら、そこに流れている川です。川。ずっと切れ目なく流れている水が、何やらとにかく不思議だなあと思うんです」
「誰も池の話なんかしてはおらんよ。池ではなく、地形じゃよ。ち・け・い」
「何がそんなに近いんです? ちょっと何言ってるかほんとによくわかんないんですけど。とにかく、ほら、あれ、かなり変じゃねえですか? ずっと同じところをどんどんどんどん水が流れて、川になってるんですから。川の水が流れ始めて、そこに川ができて、ずっと同じように同じところを水がどんどんどんどん流れていて、そのうちにぷつんと水が流れてこなくなって、川が終わるなんてこともあるんでしょうかねえ?」
「ふむ、しかしだな、川というのはずっと同じ一定の流れではない。うねり蛇行して刻々と姿形を変えている。ずっと同じような流れに見えたとしても、それは同じ流れではないんだよ」
「おかしいじゃないですか、同じように見えるけど同じじゃないなんて。どっちかに、はっきりしてもらわないと、こっちだって困っちまいますよ」
「何もお前が困ることはなかろうよ。其方だって、ずっと同じように見えていたとしても、ついさっきまでのお前と今のお前とではもう同じお前ではないのだよ」
「そりゃあ、もっと困るじゃねえですか。さっきまでのお前と同じじゃないんなら、さっきまでのお前はいったいどこにいってしまったんですかねえ、おい、お前」
「そんな乱暴なことを言っちゃあいけない。昔、西方の賢人が『同じ川に二度と入ることはできない』と申したという。川の水は常に流れ続けていて、同じ川であっても常に変化しているんだ。そして、お前も水のように流れ続けていて、今のお前はもうさっきまでのお前ではない。今流れている川や今のお前は今この時にしかいない川やお前なのだ。次の瞬間には何もかもが変化してしまっている」
「そのセイ・ホーってやつは、何かの掛け声かなんかですか?」
「西の方角だから西方というのじゃ。そうした賢人の周りには、掛け声などかけなくとも、その話を聞きたいという人が自ずと集うものじゃよ」
「ケンジンというのは、犬でもあり人でもあるような人間のことですか?」
「抜きん出て賢く、学問に優れた人のことを、賢人という」
「セイ・ホーの人というのは、いっぱい川を眺めてそこから多くのことを学んだんでしょうな。あぁ、あやかりたい、あやかりたい。ですが、流れていってしまった川の水が、またここに戻ってきて流れるっていうことはありますか? どんなに水がいっぱいあって、高いところから低いところへ流れていったとしても、全部流れ切ってしまったら、今度は低いところから高いところへ流れて戻っていくんじゃないですか?」
「水というのは無色透明で明らかな形状のあるものではない。そして、それぞれの水にそれぞれに特徴のある姿形があったり、それぞれの呼び名がついているわけでもない。だから、どの水がここに戻ってきて流れているかなどということは、われわれの節穴のような目には到底わからぬことなのだ」
「ならば、もしかすると今流れていった水が、いつかまたこの目の前にある川を流れてゆくこともあるかもしれないということですね。不思議ですね。行ってしまったものが、また戻ってきて流れるなんて。とても不思議です」
「行きては帰り、帰りては行き、か‥。もしも、戻ってくるとしたってだな、それがいつになるのかは皆目わからない。明日かもしれないし、何百年も経ったずっと後のことかもしれない。そんなことは、誰にもわからない。確かめようがない。ゆえに、一期一会なのだ」
「え、越後獅子ですか? 川の水と越後獅子に何か関係でもあるのですか? 裁縫の剣人がそう言ったのですか?」
「越後獅子ではない、一期一会だ。いや、待てよ。越後獅子とて、来るときもあれば、来ないときもある。これもまた一期一会か。ということは、当たらずも遠からずじゃな。笛にうかれて逆立ちすれば、山が見えますふるさとの、わたしゃみなしご街道ぐらし、ながれながれの越後獅子、ってな」
「あー、ちょっとお待ちください。ちょっと、ちょっ、ちょっとお待ちを。あっ。あーあ。本当に流れ流れて行っちまったよ。なんだかよくわからないが、まったく越後獅子みてえな老翁だったなあ。おうっと、もう雁が鳴いてらあ。暮れて恋しい長屋の灯り。さてと、あっしもそろそろ」

往来(狐)

 いつものようにぶらりぶらりと歩いている四郎。街の様子を見て回り、今日も今日とてちょっと気になる人や物に目を光らせます。
「おやおや、今度は、ありゃあ、なんだろぅね。ここいらじゃあまり見かけないお顔立ちの、もぅ、匂い立ちそうなくらいに粋なお姉さんが来たよ。あれま、まあ、えっ? どうだい、あの滴り具合。水が、なんかもう滴っちゃって、滴っちゃって、びちゃびちゃじゃぁござあせんか。いやに、しゃなりしゃなりと歩いて来なさるじゃないの。妖にして艶とは、まさにこのことだ。え? こりゃたまらんね。よしきた、ほいきた、そうとくりゃ、こっちもこっちで腹をきめなきゃなりますめえよ。今度は、こちらから流し目で、ご機嫌伺いしちゃいますからね、うふっ」
(ひょこひょこと眉まで上下させて、全力で流し目を送る四郎)
 すると、すれ違った途端に、粋なお姉さんが目にもとまらぬ早さでくるりと向き直り、こちらへ一歩踏み出すと、ぐいっとにじり寄ってくる。
「ちょいと、お兄ぃさん、あたしになんかようですかい?」
「あ、あぁ、あるっちゃぁあるし、ねえっちゃぁねぇ、かなぁ‥」
「どっちなんだい。え? はっきりしておくれよ、こっちだってそれほど暇じゃぁないんだからね」
「いきなり、そんな角立てないでくださいよ。いえ、いやね、そりゃぁお怒りになってるお顔もまた結構なもんでございますよ。美しいお方というのは、ほんとにまあ、罪でございますなぁ」
(もう一歩にじりよる粋な姉さん、少し小声で)
「減らず口ばかり叩く野郎だね、まったく。あんたさぁ、とことん失敗続きだろう、見ればすぐわかるよ。残念だけどねえ、まだまだ何度も何度も失敗するだろうよ。今のままじゃね。何も変わらないよ。おつむ、ちゃんとくっついてんだろ? ちっとは使ってみなよ。えっ? このこんこんちきがっ」
(あまりの圧力の強さに、慄きたじろぎながら)
「おう、おっ、おっ、おっ、おう、じょ、冗談言っちゃあいけねえゃ。そ、そりゃあ、頭が足りねえもんだからよう、そう、そりゃあまあ、しくじってばかりよ。それでもよぉ、なんとかそれなりにはやってるつもりだぜ」
「おやおや、笑わせるねえ。こっちは、冗談で言ってるつもりなんて、これっぽちもありゃぁしませんよ。あんた、芸人にでもなったらどうだい。野だぬきなんてどうだろうねえ。もっと技と芸を磨いてさぁ。やってるつもりだかなんだか知らないけど、ほんと、聞いて呆れるよ。はっきり言って、あんたまだ半人前にもなれちゃいないからね。自惚れんじゃないよ。寝言は、寝ている間だけにしとくれよ」
 ぷいっと向き直った姉さん、すたすたと歩いていってしまいます‥。
(その後ろ姿を呆気に取られてぽかんと眺める四郎)
「あれまあ、怒っていっちゃったよ。ちょっと色目を使ったぐらいで、あんなことになるなんてねえ。嫌だねったら、やだね。見たところ、ありゃあ狐が化けてるね。あっちの方が、よっぽどコンコンじゃねえかってんだぃ。しなしなしてる色っぽい後ろ姿に吠えかかってやろうかと思ったけどさぁ、まぁ、やめといた。こんな賑やかな往来のど真ん中で、姉さん驚いて尻尾なんか出しちまった日にゃあ、ちっとも粋じゃないからね。ひでえ騒ぎになんだろうしよ。ほんと、誰かれ構わず流し目なんてするもんじゃないね。しくじりっぱなしで、涙がぁ出てくらぁ、やれやれ‥」

杜(夢)

 朝早くから、あちこちうろうろ。さすがに少し疲れてきたのか、ちょっと日差しを避けて一休みでもしようと四郎が、ふらりとやってまいりましたのが、そこそこ大きいお寺の裏手。鬱蒼とした木立がありまして、昼間でもあたりの空気はひんやりとしていて涼しい。四郎は歩いてきたまま大きな木の根のそばにごろりと身を投げ出して横なってしまいます。
「ああ、いいねぇ、ここは。いつきても気持ちがいいや。地面が、しっとりでひんやりだね。いい寝床だよ。いい寝床だ。ちょいとここいらで阿弥陀様に場所をお借りして、ひと寝入りさせてもらいますからね。ねんねんねんねこ、ねんねこよーだってんだ、ねんねんねん、ねこ‥」
 そのまま体を丸くして、すやすやと眠り込んでしまいました。

「おや、あれはもしや。森田翁、いやタモリ翁か。黒い色メガネをしてるので、お顔がよくわからんが。どうも、どうも。これは、これは。しばらくぶりです。またお会いしたいと願っておりました」
「あ、どーも、こんちは、タモリです。いやあ、何なんでしょうね、これは。ま、とにかく、わざわざこちらの方までおいでいただいたようで、ありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。その節は、誠にありがとうございました」
「なんかねえ、その辺をいつものようにふらふら歩いてたんですよ。そしたら、見慣れないサーカスのテントみたいなのがあってね、『今ならインスタフォロワー数二百五十万人、あの百万回生きた犬と面会できますよー』なんて言ってたんで、え?どういうこと?と思って、ついつい入ってきちゃったんだけどね‥。中はまた、がらっと雰囲気が違いますねぇ。書割っぽいというか、無機質というか‥」
「なんと、金子二百五十両で酒粕の銭湯ですか、何のことやらさっぱりわかりませんが。しかしまあ、そいつはまた、ひどく臭う湯なんでしょうな。あんまり行ってみたいとは思いませんが‥。ですが、またこうしてお会いできて本当によかったです。まだまだタモリ先生に尋ねたいことはいっぱいありましたので‥」
「サーカスってのは、サケのカスじゃなくて、まあいわゆるサーカスのことなんだよね。ご存知じゃないですか? 四人組で、コーラスしてるんだけど‥」
「はい。誠に申し訳ありません。四人組が殺しをしてるとは、これまた物騒な話で‥。やはり何百両という大金が絡む商いってえのは、生き馬の目を何とやらとか申しますが、なにかと血腥くていけません。いやはや、まだまだわたくしわからぬことばかりでございます」
「またまたご謙遜を‥。でもねぇ、やっぱり今の若い人ってのは、もう知らないんだね。どっちのサーカスもね。知らないんじゃ、話にならないね」
「時に、先生、穢土は迷悶の街といわれております。それは本当でしょうか?」
「メーモン、メイモンねえ。うむ。まあ、うめぇもんはいっぱいあるんだよね。なんだ、あの、星がいくつだとかよくやってるでしょ。でもまあ、こう言っちゃあ何ですけど、ああいう星だか何だかなんてのを当てにしてるようじゃ、まだまだってことなんですよ。まさに、迷悶せる塵俗の江戸ということです。てゆうか、今はもう、江戸じゃなくて、みんな東京っていってますよ」
「と、東帰楼? トウキロウ? まるで吉原の大楼みたいな呼び名ではないですか?」
「いえ、いえ、トーキョーですって。まあ、今やどこもかしこも、言ってみれば昔の吉原とそう変わらないのかも知れませんがね。昔は、赤線っていってましたけど。わたしが高校生ぐらいのころまではね。あのころと比べると、囲っておくものが何もなくなった分だけ、そりゃあ蔓延ろうが蔓延しようが何の不思議もないってことなんだよね。みんな何もかもが開けっぴろげになっちゃったからさぁ。そういう意味じゃあ、昔の遊びの方が、節度や礼節みたいなものをしっかりとわきまえていたのかもしれないね。どこかに『恥の文化』だなんて言った人がいたけども、そういう文化もまた年を経るごとに段々とすり減って薄れてきてしまうんだろうな。まぁ、これがほんとの無恥の知だね」
「なんと、どこもかしこも吉原のように、なのですか。まるで犬畜生並みにそこらじゅうで、恥も外聞もなく、とは。そりゃあ、もう、さぞかし人々は迷悶しておることでしょうなぁ」
「でもまあ、みんながみんなそうというわけでは決してなくてね。ちゃんとしている人は今も昔もちゃんとしてますよ。ちゃんとしてない人がずるずるずるずるちゃんとしていないってだけで‥」
「もどかしいところですね」
「人間ね、あまり硬すぎてもダメだし、柔らか過ぎるのもダメなんだよね。だから、どうにもひとつところにおさまりきらなかったりするわけ」
「だから、いつも先生もぶらりぶらりとしているのでしょうか?」
「ま、要は、何十キロかのぐちゅぐちゅした汁気の多い肉があって、それが簡単な骨組みで支えられて、皮膚で包まれて、立ったり歩いたり走ったり座ったり寝転んだりなんかしているだけなんだから。そりゃあ、なかなか安定なんてしっこないでしょうよ、ねえ?」
「それでは、この愚昧なる破廉恥な生き物は、また四つ足で歩くようになった方がよいとお考えですか?」
「まあ、そうかも知れないねえ。四足歩行で両手が自由に使えなくなってしまった方が、もしかすると生き物としてはよっぽど幸福なのかも知れないね」
「しかし、みんなが四つん這いの状態では、土下座してもちっとも謝罪にはなりませんね」
「ええ、ええ、まあそうでしょう。だけど、両手が自由に使えなければ、土下座するほど悪いことをする人間も、あんまりいなくなるんじゃないの?」
「もっともな話です。では、タモリ翁のその両手は、これまでにいかなる悪事をなされてきたものでありましょうか?」
「さあ、どうだったかねえ。ただへらへらへらへら生きてきただけだったからね、そういうのとは大抵は無縁だったんじゃないかな、そう思うよ」
「なるほど。見たところ、そう悪い人間ではなさそうです」
「人間という生き物、そうそう悪いやつらばかりではないんですよ。ですから、それとは真逆のところで生きている、悪いことばっかりするようなやつらが、人間全体の半分以上にならないうちは、まあ大丈夫ということなんじゃないかねぇ、たぶんね」
「しかし、悪さばかりするようになった時には、必ずや人間にも何らかの罰が当たるでしょう」
「はい。きつぅく懲らしめられないとわからない、というのもまた人間の悲しい特性なんだよね。鞭とかロウソクぐらいじゃあ、逆にうはうは喜んじゃったりする人も結構多いからね‥」
「おそらくは、そういう罰当たりなものにならぬように、今はこの穢土で迷悶しながらも必死に日々を生き抜いている、ということなのではないでしょうか。タモリ先生、またしてもたくさんのことを教えていただきました。誠にありがとうございます」
「そうですか。そうですか。まあ、教えたってほどのこたぁないけどねえ。それじゃあ、わたしはこの辺で。また、いつもの散歩に戻りますんで。そんじゃ、また」
 四郎は、静かに隻眼の賢人の背中を見送り続けている。これで少しは賢くなれただろうと、満足気ににんまりとした笑顔をうっすらと浮かべながら。しかし‥
「うわっ、うわー、ちょっと待ってくれぇい。ちょ、ちょ、ちょっと待ってー」
 どんなに喚いてみても、もう聞こえません。
「おーい、おーい、ちょっとー。まだ聞きたいことが、ひとつだけあるんですよー。ちょっと、待ってくれー。おーい。その黒い色メガネ、それは、どこで買えるのですかー、どこでー、おーい、おーい。おおーい。おっ」

(ハッと我にかえる)
「なんだー、夢か。あー、びっくりしたなあ、もう。あまりにもはっきりしてるんだもの。まるで、現実みてえな夢だったよなぁ。ふうーっ。おや、もうすっかり暗くなっちまった。どんだけ寝てたんだ、おれは。びっくりだね。さあさあ、早いとこ家に帰ろう。っと、おおっ、おう、おう、おっと、おっと、危ねえ、危ねえ、さっきの夢の続きで、ついつい四足歩行になっちまうとこだった」

長屋(軒先)

 長屋に住む浪人・尾形清十郎、趣味は釣り。この日も、わざわざ品川あたりまで繰り出しては、大好きな釣りを楽しんできました。釣ってきた魚は自分で捌いて刺身にします。残った分は保存のきく干物にでもしようと、軒先に出したすだれの上に塩をして干している。
「おやおや、こんなところにおととさんが仲良く並んで寝ていらっしゃる。亀でもないのに甲羅干しでござんすかぃ? ほれ、こっちにおいで、ほれ、こっちに、ほれ」
 ひょっこりと現れた四郎が、音も立てずに忍び寄ってきて、きれいに並んだ魚を無造作にがさっと強奪してゆく。何やら気配を感じたのか、前もって待ち構えていたのか、勢いよく戸が開くやいなや、尾形が戸外に飛び出してくる。
「おい、待て、ちょっと待て。返せ、おい、鯵を返せ。おい。鯵を。おい、待て。待てー。おいっ、おい」
「ありゃまぁ、誰も見てないと思ったんだけど、見っかっちゃってるよ。しくじったー。そんなに『待て、待て』と言われても、できるわきゃないじゃないの。どうせ、捕まえたら、袋叩きにでもするおつもりなんざんしょ? そりゃ逃げますって。逃げますってばさ。ほいっ、ほいっ、ほいっと」
「まったく逃げ足の早いやつだ。毎度、毎度、本当に困ったものだ。たまったもんじゃない。まあ、あやつのために最初から何尾か釣ってきてやっているのだと思えば、心持ちも少しは楽になるのだが‥。ついつい、こちらも釣果を誇りたい気分になってしまうのか、年甲斐もなく食い意地がはってしまうのか、魚を奪われるととても悔しくなる。今だって、取られたらすぐに首根っこを掴んでやろうと思って、戸の裏で息をひそめて見ていたのだが‥。しかし、すばしっこさでは、あちらの方が何倍も上手だ。所詮かなわぬ相手なのだろうょ、だから、そうと言ってくれれば、いくらでも魚を分けてあげるのだがなあ。干物になるまでしばし待てんのか、おぃ。しかしまあ、そういうことというのは、なかなか自分からは言い出しづらいものよのう、それぐらいのことは察しがつく。いくら見知った顔といえどもな。いや、見知った顔だからこそか。しかしながら、無断で干してある魚をいくらでもぽいぽい取っていっていいなんていう法は、どこにもありゃしない。武士の情けといったところで、あのものに、そんな道理が通じるはずもない。何もかもがままならぬのぅ。ほんに難しいところじゃ」
 浪人・尾形清十郎、長屋の出口の角にいつまでもぬうっと立ち尽くしたまま、ただただ虚空を見つめておりました。

長屋(路地)

 城下の街にかすかに聞こえくる雁の鳴き声。紅く空が色づき始めるころのこと。
「おや、四郎さん、おかえり。毎日、忙しそうだね。今は、少し遠くまで仕事に行ってるのかい?」
 浪人・尾形清十郎が、ばったりと出くわした四郎に気軽に声をかける。
「いえ、仕事ってぇほどのもんじゃありません。あの、いわゆる掘り出し物っていうんですかね、そういうのを探しに、あちらこちらへ足を伸ばしておりますだけなので‥」
「ご精が出ますな。朝早くに家を出て、遅くまで出ずっぱりではないか」
「それほど大したことはないんですよ、ただ掘り出してるだけなんすから。ないときはないし、でるときはでる。たまぁに、ひどく手間取るのがあったりすると、ついつい根を詰めてしまいまして、帰りが遅くなったりするだけなんです」
「ふらふら遊び歩いてばかりで帰りが遅くなるのとは、そりゃぁわけが違う。あんた、本当に働き者だよ。そのうえ馬鹿がつくほどの真面目ときてる。道楽なんかにゃ目もくれない。見上げたもんだよ」
「そんな風にあらたまって言われますと、なんだかちょっとこそばゆいです。そんなに持ち上げたところで、何も出やあしませんよ」
「あ、いや。そういうつもりで言っているわけではないのじゃ。何か出さねばならぬのは、こちらの方じゃなかろうか。いくら浪人の身の上といえども、そうそう皆様に施してもらってばかりいては、これはもう肩身が狭すぎていかん」
「いいえ、こちらこそ尾形先生にはお世話になりっぱなしです。文字がちゃんと読めるようになったのも、書けるようになったのも、先生のご指導があったからこそです」
「時に、四郎さん。いつもわたしが干物作りのために軒先に魚を出しておくと、そいつを取っていってしまうものがおるんだ。あんた、すごく鼻がきくだろう? それについて何か知っていることはないか?」
「いいえ、何も知っていることなんてございません。掘り出すときにちったぁ鼻が利くという程度なんで、魚のことまではどうにも鼻が回りませんや‥」
「そうか、そうであったか。それでは仕方がないな。よく品川あたりまで出掛けて行っては魚を釣ってくるんじゃよ。若い頃から釣りが好きでな。ああ、わかるよ。わかる、わかる。釣り糸をふわっと垂らして、ただぼけーっと座っているだけで、何がそんなに楽しいんだ、と言いたいのだろう? 釣りなんてのは、間抜けや阿呆がするものだと思っておるのだろう? まあ、確かにそうなのだが、あれが実際にやってみると、なかなかに奥が深い。第一、いつだって垂らした糸には違った獲物がかかるのだし、釣れることもあれば釣れないこともある、釣りは釣りでも一度として同じ釣りはない。だから釣りに飽きるということはないのだょ。いつ行っても釣りは楽しい。そして、釣れれば釣れるほどに、釣りの楽しさは増してくる。先日もどういうわけか、おもしろいようによぉ釣れた。ついつい釣りすぎて、ひとりでは手に負えぬほどでな。だから、食べきれなかった魚は、そのまま腐らせてしまうのももったないから、干物にするんじゃよ。それで、いつもそこに並べて出しておくんだ」
「はい。先生がよく魚を干していることは知っております」
「うまい干物ができたら、いつか四郎さんにも分けてあげようと思っていたのだがな。なかなか、そううまくはいかぬ。いつもいつも誰かに邪魔立てされてしまうのだ。それで困っている」
「なんと。わたしなどのために、でしたか。そんなこと、思ってもみませんでした。そうと知っていれば。いや、知りませんでした、知りませんでした。ちっとも知りませんでした。そっ、そうと知っていれば、わたしがよろこんで干物の見張り番をいたしましたのに‥。あっ。そ、そうだ。たったいま、思い当たりましたよ。きっと、あいつ、あいつの仕業なんじゃないかと思います。先生の邪魔をするのは、きっと、あいつに決まってます。ほら、あの猫ですよ。いつも長屋の周りを、うろうろしている真っ黒い猫がいるでしょう? たぶん、あいつなんじゃないかなぁ。先生も見たことあると思いますが、見るからに性格が悪そうな目つきをしてますよね、それに、見かけによらず食い意地もはってるんじゃないかなぁ、なにせ真っ黒けですからね、いつも腹をすかせてるに違いないです。きっと、あの猫です。そ、そうに、そうに決まってます」
「へっ? あの黒猫がかい? あいつ、わしが軒先に釣ってきた魚を干していても、いつもまったく見向きもしないでそこらで昼寝をしておるぞ。へぼ釣り師が釣ってきた鯵や鰯になどには目もくれニャいといった風にな。たいしたもんだよ。日本橋あたりで鯛や鰻を食い慣れておるから、口が肥えておるのじゃろう」
「いいえ、たとえ鯵や鰯といっても魚は魚ですから、どんなに鯛や鰻を食べ慣れているといっても、たまには庶民の味が恋しくなるのではないでしょうか?」
「そうかのう」
「そうですとも。今度、あの黒猫に会ったら、きつく問い詰めてみてください」
「まあ、一応は猫の言い分も聞いてみなくちゃならんだろうがね。あ、いや、四郎さん、長々とあれこれ聞いてしまって悪かったね。早いとこ家に戻って一息つきなさい。また明日も、朝早いんじゃろう?」
「こちらこそ、いつもいつも何のお役にも立てず、誠にすみません。では、失礼します」
(四郎の後ろ姿をしげしげと眺める尾形)
「うーん、あれは猫のせいだというか、四郎よ。嘘つきは泥棒の始まりというが、嘘をつく前から泥棒ときたのでは‥。しからば、泥棒が嘘をついた日には、今度はいったい何が始まるというのだ。何かよからぬことが起こらぬとよいが‥」

長屋(災難)

 その夜、四郎の家。するすると忍び込んでくる猫。音もなく上がり込んできて、いつの間にか四郎の目の前にちょこんと座っています。
「やい、この犬公」
「きゃん。びっくりさせやがって。悲鳴あげちまったじゃねえか。なんだい、来ていきなり、挨拶もしねえでよぅ。おっそろしい剣幕で、がなり立てんじゃねえよ‥」
「さっき、あの浪人風情とあんたが話してるところ、家の裏手ですっかり聞かせてもらったよ。調子良く口から出まかせばかりぽんぽんぽんぽんぬかしやがって、なんであたしのせいにすんだよ。あんたがあそこですっかり白状しちまえば、それで済むことじゃないか。それを、なんで、わざわざ波風立てるようなことするのさ。変なことに、あたしまで巻き込むんじゃないよ、まったく」
「おや、何のことですか?」
「まだしらばっくれるのかい。あんたねえ、こいう下衆な謀りごとってのはねえ、本当にただじゃあ済まされないようなことになっちまうんだよ。他人の顔に泥をぬるようなやつはねえ、ろくな死にかたしないよ」
「おっかない。おっかない。えぇ、でも、鯵と鰯をほんのちょっとじゃないですか。よくある、つい、出来心で、っていうやつですよ。わかるでしょう?」
「あんなのでも一応は長いのは挿してるんだからね。こっちが気を抜いて昼寝でもしていてごらんよ、いきなり『魚の恨み』だなんて言ってさぁ、ずぶっとやられちまうかもしれないよ。そんなことになった日にゃあ、あんたどうしてくれるんだい」
「大袈裟な。ちっこい鯵と鰯を、ほんのちょっと拝借した程度ですよ。いくらなんでも、いきなりずぶっはないでしょう、いきなりずぶっは‥」
「あんたが、ああいう讒言するのが悪いんじゃないか。こっちは、おちおちそこらで昼寝もしてられなくなっちまったよ」
「あれくらいのご老体に刃物を持って追いかけられたってさぁ、すぐに追いつかれちまうほど、あんたの足まだ萎えてはいないだろう? うん。そんなら大丈夫だよ、心配いらねえ」
「食い物の恨みは怖いっていうからね、逃げる時は、こっちだってそこそこ必死になるだろうよ」
「なら、余計いいじゃねえか、魚を取られた腹いせに、ちょっと追いかけっこしたい気分になるってことも、人間ならばあるだろうよ。ちょいとばかし、われらが清十郎殿の駆けっこ遊びに付き合っておやんなさいよ」
「なに言ってんだよ、自分の悪事を棚に上げて、元はといえば全部あんたが悪いんじゃないか」
「そりゃあ、そうだけどよ、ちっとは申し訳ねえなあと思ってるから、なるべく下手に出てんじゃねえか。なのに下手に出ていれば、そうやっていい気になってつけ上がりやがってよう、おめえだって、お魚くわえて黙ってもってきちまうことがないわけじゃねえんだろ?」
「ああ、でもね。ああいう貧乏浪人からは絶対に取ったりはしないよ。やるんなら、それなりの大名屋敷や旗本屋敷の台所に忍び込んで、鯛や鰻の御馳走を頂戴してくるやね」
「やい、泥棒猫のくせに義賊を気取りやがって。笑わせるぜ。この野郎、馬鹿にすんなよ、うちにだってなぁ、包丁の一本ぐれえはあるんだよ。そいつを持って、追いかけ回して、八つ裂きにしてやるかんな、気いつけやがれぃ」
「ああ、そうかい、そうかい。そんなら、好きにしなよ。殺しゃあがれ。殺せ、殺せい、さあ殺せ。そこのボロ包丁で切れるもんなら切ってみな。おもしろいや、こりゃ、見ものだね。え? まったくもう、どうしようもない野郎だね、白だか黒だか知らないが、聞いて呆れるよ、この土手かぼちゃが。こうなりゃ、気が済むまで刺して刺して切り刻めってんだよ、終いにゃあ化けて出るからな」
「おい、逆に脅しやがったな、怖くて鳥肌たっちまったじゃねえか。笑わせんな、こんニャろー。土手でかぼちゃが獲れりゃあ畑に用はねえや。こいつー、この、この、この、このー」
「うっせぇわ。土手でもなるから土手かぼちゃっていうんじゃないか。ちったぁ、考えてしゃべれ、このおたんこなす」
「かぼちゃかと思えば、今度は茄子のへったくれか。バカにすんなぃ、この、この、この、このー」
 怒ってブチ切れている猫に焚きつけられて、やたらめったらに包丁を振り回す四郎。標的の猫にかすりもしないので、よけいに逆上してしまいます。しまいには、猫はへっついの脇に逃げ込んでいるのにも気づかずに、ひとりで家の中で間の抜けたかんかんのうを踊っているような無様な有様で、もはや何語ともつかぬ言葉を喉をからして喚き散らしながら暴れております。そこに、見るに見かねて、浪人・尾形清十郎が勢いよく踏み込んできて‥
「あいや、待たれい。待て、待て、待て、待つのじゃ。四郎、落ち着け、まあ、落ち着け。落ち着けと言うておるのが聞こえんのか。危ない、危ない、危ないから。ほれ、ほれ、そのいかにも手入れが疎かになっておる小汚い包丁を引っ込めよ。引っ込めよ。これ、四郎、引っ込めよ、聞こえんのか。いくら切れない包丁といっても、当たれば痛いぞ。引っ込めよ、聞こえぬか、四郎。もういい、もういい、もういいから。そこで、あらかた話は聞かせてもらったよ。だから、もうよい。もういいんだ。わしも、魚のことくらいで大騒ぎして、すまなかった。鯵や鰯の干物がなくなったくらいで、実におとなげなかったよ。おふたりとも、どうか許しておくれ」
「わかってくれれば、それでいいんです。あ、でも、先生が謝ることじゃありませんって」
「いいのだよ、四郎。ちゃんとわかっているから。ちゃんとわかっているからな。あの時は、お前も随分と軽い気持ちで口から出まかせをしゃべったのだろう? わたしがいつも釣ってきた魚を取られてしまって困っているのを傍で見ていて、少しは気休めにでもなればと思って、あんなことを言ったんだろう? いいのだよ、四郎。そうやって自分では良かれと思って嘘をついて、嘘に嘘を重ねても、そんなことじゃ結局のところ誰も喜びはしないのだよ。いいのだよ、四郎。みんなちゃんとわかっているから。お前は嘘をつくのが、本当に下手だ。今回のことで、それが自分でもよくわかっただろう? それが、わかったのなら、もう二度とくだらない嘘をついたりしてはいけないよ。いいね」
「はい、わかりました。でも、うちのが切れない包丁で本当によかったです。間違って無意味な殺生をしないですみました。こちらこそ、先生にお礼を申し上げます」
「なんだか、わかったようなわからないような話じゃが。まあ、猫もなまくら包丁の試し切りに使われそうなところを命拾いしたということだな。よかったよ。今日のところは、わしの顔に免じて、そなたの怒りもぐっとおさめてくれんかね、この通りじゃ、この通りじゃ、許しておくれ」
 猫は尾形清十郎に軽く会釈をして、そそくさと家の外に飛び出していってしまいました。

長屋(葬礼)

 数日後の昼過ぎごろ。少しばかり陽気がよすぎて、どこもかしこもあまり動きがなくなっている刻限。貧乏長屋も、音もなく汚れてくすんだまま、だらしなく横たわっております。ちょうどそこに通りかかったのが、鉄砲ざるを担いだ屑屋さん。屑屋とは、今でいう廃品回収業者のこと。まさにSDGsの先駆けのような稼業でございました。来る日も来る日も、街を隅々までめぐって各戸を尋ね歩き、屑をざるに集めて回ります。そんな屑屋が、薄暗い家の中で四郎が仰向けにひっくり返っているところを発見します。
「おやおや、四郎さん、そんなところで寝ちまってるんですか。ほれ、いつまで寝てるんですかー? もうお天道様はとっくに頭の上にのぼりきってますぜ。え、なんだい。なんだい。どうしたってんだ。ただ寝てんじゃないっていうの? えっ? なになに? 高いびきも歯ぎしりも聞こえてこない。えっ? こいつは、ちょっとばかし様子がおかしいよ」
 そおっと戸を開けて、家の中に入ってゆく屑屋‥
「あら、これは、どう見たって、夕べ食事したときのまんまだね。欠けたどんぶりの中に捨ててあるのは‥、河豚のヒレと皮だね‥。もしや、これで、こうなっちゃったってえの? これ、食ったの? おいおい、白目剥いちゃって、泡吹いてる。ってこたぁ、もしや、これ死んでるの? 四郎さん、しっかりしなよ。しっかりしなってば。いや、いや、いや、こりゃだめだ。手遅れだわ。もう冷たくなってるもの。なんだよー、あんなに鼻がいいっていってたのにー、臭いでわかんねえのかよ、変なもん食っちゃダメだってば、本当にもう、いい加減にしてくれよ、嫌だなあ、もー」

(トントン、トントン)
 屑屋が、すぐに隣家の大工・成三の家の戸を叩きます。
「ごめんください。ごめんください。あのー、ちょっとばかしよろしいですか?」
 のんびりと縫い物などをしていた女房のお初が、実に気だるそうに表に出てくる。
「ああ、屑屋さんかい、どうしたの? あれ、ちょっと青白い顔してるんじゃない? 体の具合でも悪いのかい?」
「具合が悪いのは、わたしではなくて‥、それが、あのぉ、お隣の四郎さんなんです‥」

 屑屋が隣家で見たことをお初に伝えると、またたくまに噂は広まり、わらわらと長屋の人々が住人変死の現場に集まってくる。
「あっ、本当だ。本当。ひっくり返っちゃってる。あれ、死んでるの? 本当に?」
「なんでまた、河豚なんてひとりで食べたんだろうね。馬鹿だねえ、まったく」
「まだ若いのに、可哀想に。命を粗末にしちゃあ、いけないよぉ」
「あの人、なんていうか、犬みたいな人だったよね、そういえば」
「ああ、犬っぽかった。犬っぽかった。本当に犬みたいだったょ」
「まあまあ人懐っこい人だったけど、懐いたのは尾形先生ぐらいだったかねえ」
「どうも周りの人と調子を合わせるのは、あんまり好きじゃなかったんだろうな」
「いつもひとりでいたからね。人との付き合いはあんまり得意な方じゃなかったのかね」
 口々に四郎のことを思いつくままにあれこれと語り合っております。その人だかりの中から浪人・尾形清十郎が、一歩前に出て、周りにある顔を見渡して口を開く。
「こんなにも、あっけなく命を落とすとはなあ、四郎。河豚にあたって、ころっといってしまうなんて‥。どこか抜けたところのあった四郎らしい最期だったといえば、まあ、それまでなのだが。いやはや、何から何までまだまだな男であった。それでも、それでもな、あいつはあいつなりに精いっぱいに生きていたんだろうよ。それだけは確かだ。この尾形清十郎が保証する。四郎はもともと親兄弟の消息もはっきりとしない天涯孤独の身の上であった。これも、何かの縁だ。真似事ぐらいのもんでもいい、この長屋でお弔いをしてやろうじゃないか。屑屋も列に連なってくれるだろう?」
「へい、喜んで。よく、この長屋に来ると、四郎さんに呼び止められまして、いつもどっかで拾ってきたような、いや、どっかの土ん中から掘り出してきたみたいな古道具を、あれこれ引き取らせてもらうことがありました。まあ、言ってみりゃあ、お得意さんのひとりです。いつだったか銅でできた半鐘みてえなものを四郎さんが持ち出してきたんです。それを引き取らせてもらって、こりゃあ昔の有名な坊様あたりが使った仏具かなんかじゃねえかなぁと、ぴんときたもんで、こっそり本所の学者先生のところに持ち込んでみたんですが、たまげたことにそいつが二円で売れたんですよ、銅の鐘みたいのが。でも、そのことは、四郎さんには黙っておきましたが‥」
「そんだら、屑屋さんは犬に相当の借りがあるんじゃねえけ?」
「そのぼろ儲けしたあがりで、屑屋さんが立派な弔いをだしてやってくれないかねえ」
「そんなことを言われましても、もう、ちょっとばかし前のことですし、あちこちに支払いもしなくちゃならなかったもんで、もうすっきりさっぱりありゃあしません‥」
「まあまあ、みんなで屑屋を困らせてばかりいてはいかん。おそらく、どっかの川縁で銅鐸でも掘り出してきたのだろう。本当に、不思議な男じゃったなぁ。さあさあ、簡単な弔いでいいんじゃ。みんなでちょっとずつ持ち寄って送り出してやれば、あいつもちっとは喜ぶだろう。で、屑屋、いろいろ用事を頼んでしまって悪いが、これから大家のところにいって犬の四郎が急に死んだので長屋で通夜を出したいと伝えてきてくれ。ついては、大家といえば親も同然、店子といえば子も同然だ。長屋のみんなが集まるんで、ちょっとは飲める酒を三升ばかりと出汁をきかして少し塩辛めに煮た煮染めを大皿かなんかに盛って四郎の家まで届けるようにいってきてくれないか? それと今月の月番は‥、あぁ、鳶徳さんか、急に厄介事を頼んでしまって悪いが、ちょっと近所をぐるっとまわって香奠を集めておいてくれないかね。わしは、これから急いで早桶の注文に行ってくるんで」
「はい、わかりました」
「へい、わかりました」
「いや、屑屋よ。済まぬが、もうひとつだけ大家に伝言を頼まれてくれ。明朝、空がすっかり明るくなってきたころにお店から力自慢をいくたりかこっちに寄越すようにいってきてくれぬかのぅ。言えば何のことか分かるだろうから。よろしく頼む。大家といえば親も同然、店子といえば子も同然だからな。とにかく、このひとことを付け加えるのを忘れぬようにな」
「へい、先生。で、どこのお寺に運びますか?」
「やはり、回向院あたりがいいのではなかろうか」
「そうですね。きっと、それがよろしゅうございます」
「さりとて、屑屋。お前どうして家の外から見て、すぐに四郎が死んでるってわかったんだい?」
「へい、黒い猫が知らしてくれました。まるで『イヌにフグのバチが当たったニャ』っていってるみたいでした。ちょうど四郎さんの家の前を通りかかると、猫がその前に座っていたんで『こんちは、ご機嫌いかがかニャ?』なんて挨拶していたんすが、ちょっとこっちに来て見てくれっていう風に猫が手招きし始めたんですよ、それで少し開いたままになってる戸の隙間から中を覗いてみたら、そこに四郎さんが仰向けにぶっ倒れてたってわけです」
「なるほど。虫の知らせならぬ、猫の知らせか」
「まあ、そんなところです」
「先日、釣ってきた魚を軒先に干しておいたら、いつものように何尾か誰かに取られてた。すると四郎が家に来てな、『盗まれた魚の穴埋めにわたしが魚を釣って参ります』なんて言って、わしの大事な竿を掴んで、ぷいっと出ていってしまった。そこで急いで尋ねたんじゃ『お前、釣りの心得はあるのか?』と、すると『まったくの初めてです。でも、釣れるか釣れないかは、やってみなくちゃわかりません。出たとこ勝負で必ず捕まえてきます。先生、待っていてください』なんて言って、それっきり見えなくなっちまった。本当にそれっきりだ。とってきた魚の中からこちらに渡す分を取り除けて、残りの雑魚を急いで自分で食っちまったんだろう。それが当たるとはなあ。運がいいのか悪いのか。皮肉なさだめだよ。しかし、喧嘩するほど仲がよかったんだから、あの猫も話し相手がいなくなってさぞかし寂しいじゃろうな。本当に罰あたりものめが。わしが猫の分まで線香をあげておいてやるからな」
「いいえ、当たったのは罰じゃなくて河豚でございます。それに猫だって、『あいつが死んでもニャンともニャイです』なんていうでしょうよ」
「これ、こんなときにつまらないシャレばかりいっておるのではない」

 そうこうしているうちにお通夜もにぎにぎしくつつがなく済みまして、大家のお店からも桶の担ぎ手が約束通りにのっそのっそとやってまいりました。
「それじゃあ、そろそろ準備にかかろうか。ほれ、そっちとこっちに棒を渡して、四郎を落とさないようにしっかりと上から下まで縄ぁかけて結わい付けちまってくれ。ああ、そうそう、それでいい。じゃあ、みんなで四カ所ぉ手分けして担いでさっそくいっちまおうかねぇ」
 大家のお店からきた助っ人と長屋の男数人かで、ぐいっと早桶を持ち上げて、さあ運ぼうかという段になってみると‥、何やら桶の中からカリカリッカリカリカリッと爪で引っ掻くような妙な物音がしてきます。
「おや、なんか変な音がしてるねえ。聞こえるかい?」
「ああ、してる、してる。こん中から聞こえんぞ、こらぁ」
「あれぇ、本当だ。夕べのうちに鼠でも這入り込んだんじゃないかぃ?」
「大変だ。四郎さんの耳だの鼻だのが齧られちまうょ。おーい、四郎。無事かー?」
「死人なんだから、呼ばれたって返事するわけがねえがな。それに、鼠に齧られたってちっとも気づくめえよ、だって死人なんだからさぁ」
「しかし、道中ずっと鼠と同行二人となると、四郎も気安く死人にはなっておれぬだろう。一度桶を下ろして、ちょっと中をあらためてみよう」

 そういうわけで早桶をゆっくりと下におろしまして、荒縄を解いて蓋を開けてみると‥、こりゃまたびっくり、中から真っ白な毛をした一匹の犬が勢いよく飛び出して参りました。
「おっ、おう、お、おー」
「なんだ、なんだ。なんだ、なんだ」
「ひゃー、なんか出たょー」
「あれまぁ、鼠にしては大きいねぇ」
「よく見ろ、鼠ではないぞ、ありゃあ、犬だ」
「えっ? 鼠が犬を生んだってのかい?」
「出たー、出たー、犬が出たぞー」
「生まれたの? 生まれたってよ、やっほぃ、生まれたぞー」
「めでたい、めでたい、あぁ、めでたい。めでたい」
 弔いが一転して、なぜか祝い事のような雰囲気にその場が包まれだしました。しばらく、犬も呆然としてその騒ぎを眺めるばかり‥
「子から戌に干支が若返ったよ。こいつあ朝から縁起がいいねえ」
「えい、ほっ。えい、ほっ」
「どっこいしょー、どっこいしょー」
「よいしょ、よいしょ、よいしょのしょ」
「ほーれ、どっこいさ、どっこいさ、どっこいさーのほりゃさ、ほーれ、どっこいさ、どっこいさ‥」
「よーいよーい、よいやな、よーいよーい、よいやな」
「この長屋、間違いなく栄えるぞー。あぁ、めでたい、めでたい」
「何のさわぎかわからんが、とにかくめでたい。めでたいなったらめでたいな」
「あんれまあ、あんたほんとは死んでなかったんだね。嫌だよもう、驚かしたりなんかしてさぁ」
 ここで、はっと我に返る四郎。もう少しでおめでたい人々の歓喜の輪にすっかり飲み込まれてしまい、へらへらと踊り出してしまうところでした‥。きっちりと向き直り、座り直しますと‥。
「みなさま、お楽しみ中のところ大変に申し訳ありません。沸いた鍋に水を差すような無粋な所業、平にご容赦くださいませ。諸行は無常、犬に生まれ直しました。やはり、猫や鼠と背中合わせではおちおち寝てもおられません。もう二度と、二度と河豚は食べませんので、どうぞ、どうぞご勘弁をっ」
 そう言い残すと、そのまま白犬は蔵前八幡の方角へ、すたすたと軽やかに駆けて行ってしまいました。まるで相中の役者が舞台からはけてゆくかのように‥
「あぁあぁ、いっちまったよぉ。早桶だけ残して‥」
「どうすんだい、これ。犬になっちゃったんだから、もう必要ないんだろう?」
「あすこの海苔屋の婆さんのところにでも、いっちょ運んどこうか。もうすぐ入り用だと思うぜ」
「これっ、縁起でもないこと言うもんじゃないよ」
「え? 本当に。あいつ、犬になっちまったってのかい?え?」
「死んだ人間が犬になるなんてさぁ、えらく不思議なことがあるもんだねえ」
「今朝、犬になったばかりだから、まだ人間みたいにしゃべれてたね。あれがほんとの二刀流だ」
「犬だけに、たいそうケン当違イヌこともいってましたケンどね」
「おい、屑屋。どんなにくだらないダジャレでもオチになると思ったら大間違いだぞ」
「大変申し訳ありません。もう一度、勉強し直して参ります」
「なるほど。『もう一度』か。今はまだそういうことにしておこうかのぅ。ハッ、ハッ、ハッハッ! まさに、ケン土重来じゃな」

 その後、その白犬が勝手な性格と卑しい心根をすっかりと入れ替えまして、もう一度人間に生まれ変わりたいと八幡様に願掛け参りをいたしましたところ、見事二十一日目に満願成就と相成りました、というのは、また別のお噺でございます。ここまで、犬の四郎の数奇な生涯からの一席でございました。お後がよろしいようで。

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