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創作落語「五十二階」

「あー、チェック、ワン、ツー。チェック、チェック。えー、本部。本部。こちら、港区高輪、十四時二十三分。高層ビルの五十二階、窓の外に人が出ているという一報があり、現場に急行中です。現在、上りエレヴェーターの中。もうすぐ、五十二階に到着します。接近して、接触を試みる予定。詳細は、追って報告します。(腕時計型通信端末のスイッチを切る。プチッ)まったく人騒がせな話だよ。最近じゃ、こういうのほぼ毎日だから‥‥。いやんなっちゃう。多い日は、二、三件重なったりするんだもん。もうさあ、ひとりじゃ手がまわらないよ。おっ、着いたかな、着いた。えっと‥‥、どっちに行けばいいんだ? チキショウめ、煩わせやがって。(舐めた人差し指を一本立てて、風向きを調べるような仕草)うん、あっちか。(走る)あ、いたいた」

ビルの奥の南西側の一室に入ってゆくと、大きなガラス窓の外側に男が立っているのが見える。ぴったりと背中全体を窓にくっつけて、立ったままでじっと動かない。恐怖で固まってしまっているようだ。足元は、幅二十センチぐらいの窓の枠しかない。

「大丈夫ですか? どうしましたか? 救助にきましたよ」

五十二階の男は、目をつむったまま立ち尽くしていて、微動だにしない。声をかけても、反応がない。

「どうしたんです? 何かありましたか? どうして、そんなところにいるんですか?」

「あ、なんか、ちょっと、間違っちゃったみたいでー。気づいたら、こんなことに‥‥」

特に目立った特徴のない、何の変哲もない男だった。どこにでもいるような普通に冴えない男。そんな男が、こんな普通じゃない場所に立っているのは、見るからに異様な光景だった。

「そんな間違いしちゃ、だめじゃないですか。ここ、高層ビルの五十二階なんですよ、すごく高いんです。窓の外に出たら危ないですよ。そんなの子供でもわかることですよ」

「えっ、ここ、五十二階なんですか? どうりで、すごく高いなーと思いました。下見たら、車や建物が、すっごくちっちゃく見え、て、え、目を、目をね、あのー、下に向けられなくなっちゃいました‥‥」

「自分が何階にいるのかもわかってないなんて、あなた子供以下じゃないですか。いったい何があったんですか? アルコールや薬物を摂取した記憶は?」

「あ、あの、あのですね、一度、話題の高輪に行ってみたいなー、って、ずっと思ってて、ビルから見える景色を楽しみたいなーと思って、ここに来てたんです。それで、ベランダとかバルコニーみたいなとこに出て見たら、もっとよく見えるだろうなーと思って、ふらふらっと出てしまったら‥‥」

「出てしまったら?」

「なぜか、ここにいました。五十二階だってこと、すっかり忘れてました」

「ふらふらっとって、あなた、そんな簡単に出られるようなとこじゃないでしょう、ここ。どっから出たんだか知らないけど、よくそこまで行けましたねえ。(両手で幅を示して)こんぐらいしかないのに」

「うろうろ探してみたんだけど、どこにもベランダみたいなとこがないんで、ここで、途方に暮れていたとこです」

「いやいや、うろうろって、あなた、そんなことできるはずないですって、(両手で幅を示して)こんぐらいしかないんだから。どんだけ身軽なんですか」

「そう、そう、狭いんですよね、すごく。だから、座って休んだりすることもできなくて、ここに立って、目を閉じてたら、なんだかうとうとしてきちゃって。日差しもあったかいし、誰もいなくて静かだから、後ろにもたれかかったまま昼寝しちゃってたみたいです」

「何を寝ぼけたこと言ってるんですか。立ったまま昼寝だなんて。第一、そんなところに出てたら、みんなが心配しますよ」

「すみません。自分でも反省してます。なんか、ちょっと軽率すぎました、行動が」

「いいから、いいから、反省は後でゆっくりしてください。まずは、身の安全を確保することが第一です。何か勘違いして窓の外に出てしまっただけで、別に死のうとかそういう意思をもって窓の外に出たわけじゃないんですよね、そういうことですね?」

「はい。なんか間違って出ちゃったんです。すごく反省してます。すみません」

「わかりました。わかりました。今は、一刻も早く戻らないといけません。いつまでも、あなたそんなとこにいたら、本当に危険ですから」

「でもー、下見たら、怖いー。怖いです。足がすくんで、すくんでしまってー、う、う、動けない、動けないんですぅ」

「怖いって言ったって、ねえ、自分でそこまで歩いて行ったわけだから、戻れないことはないでしょう」

「来るときは、ここが五十何階だなんて思ってなかったから、平気の平左だったんですよぉ。でも、今はもうダメです。ちょっと動くだけで、落ちそうな気がして、あー、だめ、だめ、だめ」

「だめじゃなくて、助けますから。そのために、わたし、ここに来てるんで、あなたが誤って落ちてしまわないようにって」

「あー。下の方、見れない。見れない。足も動かない」

「じゃあ、わたし、こっからそっちにね、手をね、ぐーっと伸ばしますんで、わたしの手、見えますか? ほら、この手を、掴んでください」

「あー、だめ、だめ、見れない。これ以上、手も、手も、手も、動かせない、無理です、無理です、無理、無理」

「じゃあ、落下防止のために、こちらから手を伸ばして、あなたの体を支えるようにします。それならば、ちょっとは、気持ちの部分でも安心できて、動くことができるんじゃないですか?」

「助けてくださいー。助けてくださいー。あー、神様ー」


横目で、自分の方に伸びてきた、救助の男の手が、近づいてくるのを、ちらっと見る。とても細い、節々に瘤がある、血色の悪いごつごつでかさかさの、まるで鶏の脚のような手だった。さらに全身から血の気がひいてゆくような気がした。そして、恐る恐る顔を横に向けて、その男の顔をちらちらと見た。痩せた陰気臭い顔をしている。そんな奇妙な男が、隣の窓から身を乗り出して、こちらに弱々しい細い腕を差し出していた。髪はみすぼらしく乱れ、頬は痩け、唇はかさかさで、目の下には青いくまができ、落ちくぼんだ小さな目は濁り、弱々しくこちらに視線を送っている。背筋がぞっとしてきた。


「ほら、ほら、今ね、手を、そっちに伸ばしてますから、もうすぐ助けられますよ、ほら、もうすぐです。押さえますよ、いいですか?」

ゆっくり伸びてきた、かさかさの細い腕、骨張った手が、五十二階の男の肩に触れ、ぎゅっと掴んだ。ように思えた。

「あー。持たないで、持たないでー。お願い、触らないでー。どっか持たれると、どっか持たれると、逆に緊張して、バランス崩しそうになるー、支えられても、支えられても、全然安心しない、全然安心しないですー」

「では、どうしろと? 手助けを拒否するのであれば、自力で戻るしかないですよ。できますか? 自分で歩いて戻れますか?」

「だめです。だめです。みんな、無理です。助けてくださいー、あ、あー、神様ー」

「もうここにちゃんと救助が来ているのに、神頼みだなんて、おかしいじゃないですか。誰に祈ってるんですか、わたしには、あなたを助けられないとでも?」

「そんなことは、言ってはいませんけど‥‥。ただ。あの、人命救助っていったら、なんか、もっと、見るからに鍛えてるような、力のありそうな、たくましい感じの人がくるもんじゃ、ありませんか?」

「ええ、わかりました。わたしでは力不足だと、そのように仰りたいのですね。せっかく、救助に来たのに、そのように思われてしまうというのは、とても残念です。大抵、人は見た目で判断するものですからね。ですから、そう思われるのも仕方がないのかもしれません‥‥」

「お気を悪くされてしまったのでしたら、すみません、この通り謝ります」

「そんなところで、謝らなくたっていいですよ」

「いいえ、やっぱりだめなんです。こんなところで、こんなことになってるってのに、それなのに、まだ、まだわたしは、わざわざ身の危険も顧みずに、こんなわたしなんかに手を差し伸べようとしてる、見上げた心意気の方のご気分までを害してしまうような、とてもとても失礼なことをいってしまう。ああ、わたしは何とだめな人間なのか‥‥」

「確かに、あなたは、相当に面倒臭い人ですよ。でもね、正直いって、こんなところで昼寝できるなんて、ええ、ええ、そりゃあ、まあ、大したもんですよ。そこんとこは、間違いなく、すげえです。えらい太てえ野郎だ。そんな奴あさあ、間違って殺そうとしたって、そう簡単には死なないでしょうよ、きっとね。もうこうなりゃ、賭けたっていい」

「そんなー、どこででも寝られる特技を、こんなところで褒められても‥‥。立ったまま寝られたところで、生きてゆくのに何の役にも立ちませんから。どんなにえらくても、どんなに太くても、こんなわたしになんか、生きてゆく価値はないんです。ちっともないんです。だめ人間なんですー。そ、そうじゃありませんか?」

「いいえ、そんな、そんな、そこまではいってないですって‥‥」

「あっ、思い出した。わたし、常々思ってたんです。もし、死ぬんだったら、あまり苦しまずに、あっさりとが、どっちかというといいんじゃないかなーって。もしかしたら、これは、あれですよ、神様がわたしに与えてくれた、苦しまずにあっさりの、またとないチャンスなんじゃないでしょうか?」

「ついさっきは神様に助けを求めていましたよねぇ、確か。それと同じ神様が、そういうチャンスを与えてくれるとでもいうんですか? 命を助けたり苦しまずに死なせたり、あれこれ手広くやってらっしゃる神様なんですねえ」

「でも、あんなに神様に一生懸命お願いしても、全然助けてくれなかったじゃないですか。ということは、わたしが常日頃から願っていたことが、ここでもう半ばかなえられてるってことじゃないですか? 神様はちっとも矛盾なんてしてないです」

「いいえ、矛盾してない神様なんてどこにもいないですよ。それに、もしかしたら、あなたがそこで昼寝をしている間に、音もなく静かに現れたわたしは、神様があなたを助けるために使わした天からの使者なのかもしれませんよ?」

「いや、ないない。それは、ぜったいに、ない。どう見ても、神の使いには見えないです」

「あまり、物事を見かけで判断しない方がいいですよ」

「ただ、見かけ通りに神の使者ではなさそうだから、そういっているだけで‥‥。わたし、嘘がつけない性格なんで‥‥。またしても、お気を悪くさせてしまったようですね、本当にすみません」

「もうねえ、あなたは失礼な人だと、ちゃんとわかってますから、全然大丈夫です。だから、そんなに謝らなくていいですよ」

「はい。とてもだめな生きる価値もない失礼な人間なので、本当に、これが、よい機会、これ以上ないチャンスなんだと思います。今ね、こう、もたれかかっているガラス窓を両手でちょっと後ろに押すだけで、それだけでいいんです。だから、とても簡単なことです」

「そんなに簡単に、あっさりと死んでしまって、いいんですか? 生きてりゃ、まだまだこれからたっくさんいいことがあるかもしれませんよ。死んだら一巻の終わりですから。生きてるうちが花です。死んだらそれまでです。きっと、いつか生きててよかったーって思うことが絶対にありますから。ふらっと出たついでに死んでしまうなんて、絶対にだめですって。ここで死んじゃうの、ちょっともったいないかもなー、なんて思ったりしませんか?」

「こんなわたしに、いいことあるかないかなんて、誰にもわからないじゃないですか、神様でもない限りは。これ、本当に、絶好の機会なんですよ、願ってもないチャンスなんです。どうか、わかってください。お願いします」

「でも、考えてもみなさいよ。こっから落ちたって、下の歩道を歩いている見ず知らずの人を巻き添えにしちゃったりして、いろんな人に迷惑かけることになるんだから。それに、本人は苦しまずにあっさりなのかもしれないけれどねえ、そんなことしたのを知ったら悲しんだり寂しい思いをする人もいるんじゃないですか?」

「だけど、それはもう、わたしにはどうすることもできないことです。死んだ後のことは、生きてるうちにあれこれ考えても意味がないのです」

「ああそうかい。そうかい。わかった。わかった。誰が何と言おうと、どうしても、ここで死ぬっていうんだね。あんたも相当な意地っ張りだねえ。わかったよ、ああ、わかった。わたしは、もう何にも言わないんで、勝手にしなさいよ」


(静寂)


「あらっ? ほんとにいっちゃったよ。救助の人だっていってたのにさあ。助けに来たんじゃなかったのかしら? いい加減な人だ‥‥。やっぱり、失礼なことばかりいってたんで、怒って帰っちゃったんだろうな。人命救助の人まで怒らしちゃうんだから、手の施しようがないね。これはもう、死んじゃうしかないってことなんだろうなあ‥‥。あの人がいってたみたいに、生きてりゃ、本当にいいことあんのかなあ? あるってわかってれば、もったいないからすぐに死ぬのやめんだけどなあ‥‥」

(先刻まで奇妙な男がいた、すぐの横の窓を見る)

「あれっ、そこの窓、ぴったり閉まってんじゃん。え? これ、どうやったら開けられるの? というか、あの人、この窓のところで、さっきどうやって話ししてたんだろう。えっ? 中からだけ開けられるっていう、そういう仕組みなの? あー、もったいないから死ぬのやめようかなって、ちょっと思いかけてたんだけどなー、こういう時に限って、どっから中に戻ればいいのかわかんないや。あー、参ったなあ」

(五十二階の窓の外でひとり思い悩み唸り続ける男)

「うーん、うーん。参ったなあ。うーん。参った。戻ろうにも、戻れないし、先に進もうにも、先がない。ほんのちょっとしかない、窓の外の出っ張りだけ。それしかない。落ちたら、死んじゃうんだろうし。どうしよう。どうしよう。このままずっーとここに張り付いてるのかなあ、それとも落ちるのかなあ。ふたつにひとつかー、どうしようかなー、迷うなー。でも、これはもう、どっちにしろ、死んじゃうしか道は残されてないってことなんだよね。あーあ、何でこんなことになっちゃったんだろう?」

(よく晴れた空を見上げると、思い残したことがぐるぐると頭の中を駆け回る)

「もー、こんなことになるんだったら、朝、大好きなお蕎麦をたらふく食べとけばよかったよ。そしたら、少しは思い残すことも少なくなったかもしれないのに。あー、蕎麦食いたい。蕎麦、蕎麦、食いたいなー。(しぐさ、拍手をもらうまでやめない)あっ、いや待てよ。もしも、そんなことしたら、こっから落ちて、下に着いたときに、そりゃあもう、辺り一面に蕎麦が飛び散っちゃって、大変なことになっちゃうね。でもあれか、そんな時のために、蛇含草ってのがあるんだっけ。食後に、あれさえ舐めておけば、下に着いても、そこら中を蕎麦だらけにしなくても済むだろう。ね。すっきりさっぱり、きれいなもんだよ。最後の最後に、いいこと思いついた。うん、そうそう、蛇含草、蛇含草だよ。今は、すごく便利な世の中になってるから、ネット通販なんかでも手に入るんじゃないかなあ。蕎麦を食べ終わった後に注文しても、ここに、すぐに届くかもしれない。あー、前もって頼んどくべきだった、蛇含草。そしたら、朝からたらふく蕎麦が食えたのになー。すっかり、忘れてたよ。あれ? ん? ちょっと間違ってたかな。あれって、蕎麦じゃなくて、人間の方が溶けるんだったっけ。大蛇の腹の中で、人間だけ溶ける。それで、大蛇は、すっきりさっぱり、か。それじゃあ、ここで舐めても、蕎麦だけが残っちゃうね。下に着いた時には、落ちてきた蕎麦があちこち飛び散って、どっちにしても大変なことになっちゃうね。うーん、こりゃだめだなあ。頭の中であべこべになっちゃってたよ。うー、そういうわけだから、えっと、どういうことになるんだ? まあ、どちらにせよ、朝に蕎麦がたらふく食べられないから、やっぱり思い残したことがひとつ増えちまうってことだね。あー、嫌だ、嫌だ。これじゃあ、ちっとも死ねやしない。いやいや。いやいや、いやいやいや、違う、違う。そういうことじゃない。落ち着け、落ち着け。落ち着いて、ちょっと頭の中を整理しよう。蛇含草を舐めると、蕎麦じゃなく人間が溶けるんだよね。たらふく食った蕎麦だけが残って、そば清だけが溶けて消える。ああ、そうだ、そうだ。これだこれ、蛇含草だ。蛇含草をさあ、ここに用意しておいてさあ、それをちょいと舐めるだけでいいんだよ。そうすりゃ、ちっとも苦しまずにあっさりと溶けて消えちまう。そうだ、そうだ。そうすりゃ、こっから落ちて死ななくてもよくなるよ。あー、そば清みたいになれる蛇含草ほしいなー。蛇含草ほしい。蛇含草ほしいなー。あーあ、蕎麦のことだけじゃなく、もうひとつ思い残したことが増えちまったよ。あー、蛇含草ほしい。蛇含草。あー。蛇含草、蛇含草。しくじったなあ‥‥。もう‥‥」


「おい、お前。さっきから何ひとりでぶつくさしゃべてんだ?」

「うわあ、出たっ。(一瞬、固まる)なぁんだ、さっきのあんたか」

しっかり目を見開いて見てみると、そこには、痩せこけてかさかさな、あの奇妙な男がいた。今度は、目の前の真っ正面にいて、真っ直ぐこちらを見ている。(斜め上・斜め下)

「なんで、落ちないんだよ。おいっ。さっき死ぬっていってたじゃないか。それなのに、どうした。これはよう、あんたにとって、とてもいい機会なんだろぅ。そうじゃなかったのかよ。ぶつくさぶつくさ言ってるから聞いてみりゃあ、ちっとも腹がきまってない。死ぬのか死なないのか、どっちにするんだい?」

「まさか、あなた、どこかに隠れて、こっそり盗み聞きしてたんですか? 嫌だなあ、もう。でもね、自分でも、さっぱりよくわかんないんですよ。だから、死ぬも死なないもないんです、もう」

「そんなことあるかよ、どっちもないはないよ、どっちかしかない。あほか」

「それと、なんか、わたしのせいで、すごく怒らせてしまったようで、ほんとごめんなさい。せっかく助けに来てくれたのに‥‥」

「だから、いいよ。もう謝らなくていいから。全然、怒ってなんかないから。でもさあ、死ぬも死なないもないはないんだよ、ここまできたら。どっちかにしてくんないと、こっちだって困っちゃうよ」

「そういわれても、自分でもよくわかんないんです。わたし、どうすればいいですか?」

「だからさあ、そんなのは自分で決めなさいよ、自分のことなんだから。どうしたいのか、わかるでしょ? もう大人なんだから。決められるでしょ? まったく、もー」

「あれー、やっぱり、やっぱりすごく怒ってるじゃないですかー」

「いや、怒ってない。怒ってないって。大丈夫だから、怒ってないよ、全然、怒ってない」

「本当ですか? でも、なんか信用できないんだよなー。ただでさえ、黙ってたって怖い顔なんだからさあ、たとえあなたが怒ってなくても、こっちからは怒ってるように見えちゃうんですよ」

「こんな顔で悪かったねえ。じゃあ、どうすればいいのさ。せっかく手助けしようと思ってきてるのに‥‥」

「しかし、あの、まあ、『助ける、助ける』と、口ではいいながら、最初から助ける気はゼロなんじゃないですか? 言っちゃあなんですけど、あなた、ずっと口先ばっかりなんですよ。ついでだから聞いときますが、ところで、あなた、いったい誰なんです? 本当は、助けに来たんじゃないんでしょう?」

「どうして、そんな風に思うのさ。どこか、こっちのやってることに、おかしなところでもあったかい?」

「おかしいもおかしくないもないですって。だってさあ、なんで、そんな何もないところに、ずっと、ふわふわ浮いていられるんですか? ははあ、さては、あんた、人間じゃないね」

「ははは、バレたか。ようやく気づいたのかい? 遅いよ。でもまあ、知らざあいって聞かせやしょう。おれは、死神だよ。あんたが、こんなとこに出てきて何しようとしてんのか、ちょいと話を聞きにきたってわけよ」

「別に、死のうと思って、ここにいるわけじゃないんですって。間違っちゃったんだよ。それは、さっきちゃんと話して聞かせたでしょう?」

「ああ、聞いたよ。でも、その後で、これはちょうどいい機会だから、死ぬことにしたって言ってたよな。だから、てっきりそうするもんだと思ってたよ」

「いいや、あんた、嘘ついてるよ。本当は、おれがまだ死なないって、ちゃんと知ってるんだろ? だから、本来ならまだ死ぬ予定じゃない奴が、こんなとこでこんなことになってるから慌てて様子を見にきたんじゃないの? そして、直接会って話を聞いてみると、やっぱり何かの間違いだったことがわかった。だから、そういう時はさあ、何はなくとも死なないように助けるのが死神の役目なんじゃないの? 死神だっていってもさあ、一応は神様なんだから。ここで、おれがさあ、すごく懸命に助けてください助けてくださいって祈ってたじゃない。神様に。すぐ近くにいて、ちゃんと聞いてたでしょ、あれ」

「ああ、まあね。あんたの言ってることも、そりゃあ理屈だ。でもさあ、そうはいっても、もう自分の足で進むことも戻ることもできないんだろう? じゃあ、どうやって手助けしろってんだよ。ご覧のとおり、このほっそい腕じゃ、あんたを抱きかかえて、無事に下まで降ろしてやることもできないからね。神様は神様だけど、おれにもできることとできないことがあるんだよ。そこは、わかってくれよ。さあ、どうする?」

「あー、そうなると、ねえ。もー、どうしたものかなあ。ここで、ふたりでずっとお話ししてるってわけにもいかないだろうし。まあ、もう死神さんが直々にこちらにお出ましになってるんだから、ある意味、万事休してるってことでもあるわな。うーん。(短く熟考)あっ、そうだ。一か八か、あれを試しにやってみようかな」

「なんだい? その、あれってのは」

「ちょっと悪いけどさあ、死神さん、もう少し下の方に降りてきてくれない? うん、そう、そう、わたしの足のあたりまで、そう、そう、それで、こっちに、そう、こっちに、そう、もっと近くに、すぐ近くにきてよ、うん、手が届くぐらいのとこまで、うん、うん、そう、それで、足元にね、ぐーっと、そう、そうです、降りてきて、そう、そう、そう、そして、くるっとこっちに背を向けて、後ろ側を向いててよ」

「足の方の、下ね、えっと、これくらいの高さで、こういうことかい?」

「はい。そうです。そうです。ばっちり。ちょっと試しにやってみたいことがあるんだよね」

「へえ。なにすんの?」

「こっから、わたしが、ぴょんと飛んで、死神さんの背中に飛び乗りますから、そのままわたしをおんぶして下まで降りてってください。そうやって、ずっと空中に浮いてられる死神さんがもつ重力に逆らう浮力が、もしかしたら、ちょっとぐらいわたしが落下するスピードを緩めてくれるかもしれないから。そしてね、もしかしたら、わたし、死なずに助かるかもしれない」

「大丈夫かい?」

「いいから、いいから。やってみなくちゃ、わからないよ。それじゃ、いくよ」

「ああ、いいよ。さあ、こい」

「アジャラカモクレン、サンブッセー、テケレッツのパッ(ぽん、ぽん)」

(シュッ)

「あっ、消えた」

そこに、すーっと救助のゴンドラが降りてくる。


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