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四十八文字の話『セ』清和源氏 「源頼朝」公の伊豆島流し①

前回の投稿でお伝えした様に「源頼朝」公の「伊豆への島流し」について述べさせて頂きます。尚、以下に述べさせて頂ている事は飽くまで「私論」で有ります。ですので、多少「根拠が乏しい」と思われるかも知れません。私自身そう思います😆。ですが、何かご意見等有ればコメントして頂くと、とても嬉しい😃⤴️です。宜しくデス。


🌺その前に、私事で恐縮デス🙇

私が「歴史」というものに対し興味を持つようになった のは、記憶に残っている範囲では幼稚園の年長の頃、   からです。

ハッキリ言って「父親」の影響です😄。        私の父は戦争映画など「戦争物」が大好き❤️でしたので 自然と私も観るようになりました。          小学校一年にして                  俳優「勝新太郎」さん主演の             大映映画「兵隊やくざ」シリーズを観てました👍。

なので「時代区分」言えば、最初に好きになった時代は「大東亜戦争」(日中戦争、太平洋戦争)の頃です。    (勿論、私は「戦争そのもの」には大反対‼️        あくまで「戦争物!」です、「戦争物!」の話デスヨ)



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その次に好きになったのが今から述べさせて頂く    平安時代後期、所謂「源平合戦」の時代です。            小さい頃、「兵隊やくざ」に観飽きてきた頃😄から   この時代が好きになりました。            特に「源義経」公が大好きでした。

🌺「源義経」公は歴代大河ドラマでも          なぜか?                      その当時の                     人気抜群で所謂「イケメン俳優」が          演じてきましたね。


○昭和五十四年(1979) 「草燃える」         源義経役 国広富之さん

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○平成十七年(2005) 「義経」           主役 源義経役 ジャーニズの滝沢秀明さん

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そして来年、令和四年 「鎌倉殿と13人」         源義経役 菅田将暉

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何故、「源義経」公はイケメン俳優が演じるのかな~

これについて調べてみると                 何か面白い事が分かるかも?、ですね~

いつかやってみたいと思います😄。



◎どうして「伊豆」へ?

さて、かなり話がづれて申し訳ありません。      

前回でも少し述べましたが              「平清盛」公は下手すれば              自分等に禍を及ぼしかねない「源氏」の御曹司を    何故京都から遠い「伊豆」へ流したのか?

争乱の時代に限らず、人は自分にとって厄介な相手を  何とかして潰そうとするのが、「世の常」です。


○伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に建つ         「源頼朝」公と妻「北条政子」の像          頼朝公はこの伊豆に二十年余り暮らしました。

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その「世の常」に照らせば              この場合「源頼朝」公は「亡き者」にされるか    「平家」勢力の力が及ぶ地域に常時監視され     「監禁」状態されるか、のどちらかだと思われます。

確かに「伊豆」でも地元の平家支持者達に       半ば監視されていた様ですが。            

でも当時も今も人々は                その時の勢いを嗅ぎとって             「平家」側に付いたり               「源氏」側に付いたりしますよね。          それは正にその後「平家」がどうなったかを     「歴史」が証明してます。


何故「平清盛」公は自らの首を絞める様な行為を    したのか?

「油断、驕り」?


確かにそれも多少は有ったかもしれませんが      それが全てではない、と思われます。         幾多の戦を切り抜け                 磐石な権力を握った方の行いとは思えません。

通説では、「清盛」公が継母から「頼朝」公の      助命の願いを受け入れたとか             当時良好関係にあった「源頼政」公の領地が     「伊豆」地方だったからだ、と言われてます。

私はそれらの「通説」を否定するつもりはない、です。 確かにそれらが理由として成り立つとも思います。    ですが私には何か、シックリ来ませんでした。      「平清盛」公は                   もっと別な「思惑」が有ったのでないのかな~と    只々漠然として思っていました。


ですが、齢を重ねてくると😁😁😁           だんだんとその「思惑」が解ってきた様な       気がしてきました❗




◎「平安時代の関東」は?

皆さん、突然ですが                

「縄文海進」(じょうもんかいしん)って   ご存知ですか?

 

今から6000年前くらい前まで続いた        日本で言えば「縄文時代」に当たり          その当時の地球環境の影響で               世界中で今よりも海面がかなり高くなっていた      自然現象です。

日本では縄文時代の海面は今よりも5~6m高かった   そうです。                       その名残で平安時代になっても            現在より幾分か、高かった様です。

ですから、今現在の海岸線しか知らない私達には   


歴史上の「思い掛けない」出来事に        驚く場合がよくあります。


例えば、美濃国、現在の岐阜県を例にすると      美濃国は古代に海洋民族、所謂「海人族」の根拠地の   一つが有ったと言われてます。


「何言ってんだい!            岐阜県は海無し県じゃないか!          そんなところにどうして         漁労などを生業とする海人族が      いたんだい?」

と仰る方が居られるでしょう。




では皆さん、是非下記の地図をご覧下さい🙇

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(出典 tomoaki blog)  

これは先程述べさせて頂いた「縄文海進」の時代の   海面の高さを表した名古屋市~岐阜市周辺の地図です。

海面が今より5~6m高かったわけですので       一番濃い「青」(標高5m未満)の土地は         当時、「海の中❗」です。              そして岐阜市の目の前に、海が迫っていました。

その為、美濃国に「海人族」が生活していたとしても  何ら不思議ではないですよね。


因みにですが、「壬申の乱」              (じんしんのらん 天武天皇元年:672年)の戦いで     勝利した「大海人皇子」(おおあまのみこ:後の天武天皇)。 


天武天皇(大海人皇子)

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この皇子の拠点の一つがその「美濃国」。      「美濃国」にある「不破の関」を最初に押さえた事により勝つことが出来ました。

負けた側の「大友皇子」(おおとものみこ)には      父親の「天智天皇」(てんじてんのう)から引き継いだ   古代朝鮮「百済」からの渡来人勢の          支持がありました。                 ですが、「大海人皇子」は               この皇子のお名前の一つに「海」という漢字が        使われている事からも分かる様に                   「大【海】人皇子」はその美濃国「海人族」からの         支持があり、それを基盤として戦いに勝利しました。


下記図の右上に要衝の地「不破の関」         そしてその右が「美濃」国

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話を元に戻します。

じゃ、何故「縄文海進」の話をするのか        「伊豆への島流し」とはどう繋がるのか?       と言うことなりますよね。              いっけん何の関係ない様に見えますが。        

実はこの二つ、                   奥深~く、長~い時間を掛けて      繋がっている!、と思うんですよ❗




◎「舟運」利権、ですよ。


当時、西から関東や東北に行くには          いくつかのルートが有りました。

まず律令時代で言うところの「東山道」。       ですが、このルート、皆さんも想像出来るでしょうが   険しい山道を、それも「徒歩」で歩かないと行けません。ましてや運べる物質の量も限られてしまいます。

次いで別のルート。                 それは「東海道」を東下するルートです。       ですが、この「東海道」にも難問が有ります。     それは「川」です。                 途中に「天竜川」「富士川」「相模川」「多摩川」  「荒川」などなど、どれも日本を代表する大河が有り  これら全てを渡るのも、かなり難儀な事ですよね。

ですので、こんなルートが作られました。


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東海道の途中、相模国の三浦半島。          ここから舟に乗り浦賀水道を横切ります。       そして、現在の千葉県、内房へ上陸し         そのまま房総半島を横断し              現在の銚子やお隣の茨城県鹿島辺りからまた舟に乗るか、又は内房沿いに舟で南下して外房(太平洋側)に出て北上し   岩手県の「北上川」河口へ行き、            そこから更に「奥州藤原氏」の拠点である「平泉」へ  遡るルートです。                  江戸時代の「東回り航路」の原型です。


そのルートが分かり易いのが、下記行程の地図です。


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これなら「徒歩」よりも速く             また「物質」も大量に運べます。


ここまで少し話しを纏めます。            私が最初に指摘させて頂きたい点は           

車も鉄道もない時代           ましてや縄文時代ほどではないにしろ   海面が高かった時代。

川や海を利用した「舟運」は       現在の我々が考えている以上に       古代の人達に取り            実に重宝されていたと          思われる点です。


更に皆さん、是非とも下の図を      ご覧頂きたく。



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(出典「馬込と大田区の歴史を保存する会」)


これ、何の図だと思いますかね?

この図、「平安時代の南関東」の地図です。


この頃、関東の遥か西、京の都では           優雅に「満月」を愛でいた             「藤原道長」(ふじわらみちなが)などの時代ですが      南関東はこういう環境でした。

「香取海」とあるのは、現在の「霞ヶ浦」です。    やはり先程の「縄文海進」の名残!、でしょうか?   今よりかなりデカイ❗ですよね。      

「霞ヶ浦」の南東部                 現在の千葉県旭市は                 スッポリ「椿海」と言う湖の底です。         また現在とは違い「利根川」は            茨城県と千葉県の境目ではなく            直接東京湾に流れています。


🌺少し余談になり申し訳ないですが。           この地図の中央上に「鬼怒川」(きぬがわ)という川が   描かれています。                  この川、我が故郷「栃木県」最大の「川」です。    

この川を北上すれば                 今や観光地である「鬼怒川温泉郷」や         世界遺産の「日光」へ辿り着きます。         

と言うことは逆に言えば               当時の「鬼怒川温泉郷」や「日光」など           かなり山奥❗に住んでいた方々が           舟の川下りで、霞ヶ浦を経由して太平洋まで行っていた     可能性が有りますよね❗

実際に、古代「日光」において             その名を「久次良」(くじら:「鯨」に関係有る一族か?) なる集団が居て、現在も地名として残っていますが     その場所が「鬼怒川」に繋がる川沿いです。     

「日光」の山奥から「太平洋」に行っていたとすれば  古代の人々は、現在の我々が想像する以上の       スケールの大きさで活動していたのでしょうね?

また、「鬼怒川温泉郷」の更に奥に         「湯西川温泉郷」という温泉街が有ります。

この街、「平家落武者」伝説で有名な所です。     実際、ほんの少し前まで               敵からその存在を隠す為に              うるさく鳴くと自分等の場所が分かってしまうので 「犬」「鶏」を飼わない                「鯉のぼり」は上げなかった、と聞いてます。     実際、現在でも「鯉のぼり」を上げる習慣は      ないそうです。


○湯西川温泉 平家の里        

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○「平敦盛」(たいらのあつもり)公の人形。       「平清盛」公の甥。                  かなりの「美少年」だと伝わってます。        また「笛」の名手でもありました。                 

わずか十六歳で「一ノ谷の合戦」で戦死。          

「笛」を忘れて戻っているうちに退却が遅れ       「敵に背を向けて逃げるのか❗」と源氏側の武将              「熊谷次郎直実」(くまがいじろうなおざね)の声に     武士の意地を示すため、戻った「敦盛」公。

組み合って上になった「熊谷直実」が首を切ろうと   相手の兜を取ってみると               見えたのは自分の息子と同じくらいの男の子❗

首を取る事に躊躇している熊谷に対し        「このままで戻ったら武士の恥。この首、差し上げよう」と言う「敦盛」公。                 結局その首を切った「熊谷直実」は後に「出家」した、 との話。                    

「能」の演目「敦盛」で描かれています。

また、あの「織田信長」公が好んでよく歌った            「人間五十年、下天のうちにくらぶれば~」も     「能」の原型と云われる「幸若舞」(こうわかまい)の    演目である「敦盛」の一節です。             


「平敦盛」公、「熊谷真実」公、次回の大河ドラマでは、誰が演じるのかな?


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ここに逃げて来た「平家落武者」達もひょっとしたら              この「舟運」、霞ヶ浦~鬼怒川ルートを使い      川を北上した来たのではないでしょうか?😁🌺


北関東の海無し県の方々も        舟を使って下れば「霞ヶ浦」へ❗

そこに物質を運んだり          購入した物質を舟に運び込んで        地元に帰り、商売したり。

そして「霞ヶ浦」の先を行けば      もう「太平洋❗」です。


当時の人々にとって           如何に「舟運」がとても重要であったか‼️            想像出来ませんか?



またまた、次に下の図をご覧下さい。


広域神社分布図-768x520

(出典 メルマガ(神)日本の黒い霧)

これは当時の「香取海」、現在の「霞ヶ浦」の回りに  ご鎮座されている、今「現在❗」の神社の位置を    表している地図です。

ちょっと右側には、有名な「鹿島神宮」「香取神宮」の   お名前も見えます。

この地図から、どうして「鹿島神宮」「香取神宮」が  現在の位置に鎮座しているのかが分かりますよね。   それは「湖との境目」であり             少し「高台の土地」だから、と言うことです。

それにしても                    他の神社も実に見事に               「湖との境目」に鎮座されている事が         分かりますよね。                  現在の神社の鎮座位置からも               当時の「霞ヶ浦」の大きさが想像出来ます。


霞ヶ浦

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🌺こういった古代の地図を観ると、思う事が有ります。

歴史を出来るだけ知りたいのならば    「今現在の日本地図」だけを観ていては   かなり「無理」であろうと思われる事です。


やはり、その当時の地形、環境を知らないと      その時代を深く洞察出来ないと思います🌺


これ程当時の人々に取って        かなり重要であったであろう「舟運」。



では、少し「視点」を変えて。

古代の方々に取り、とても重要だった「舟運」ですが     

その「舟運の利権」を          もし自分の手に入れば            その方は                かなりの「権力!」            かなりの「利益!」を           得られたでしょうね。


そして今回の話の結論です。       

その関東における「舟運」利権に     目に付けたのが            「商魂」の逞しい            「平清盛」公ではなかったのでは      ないでしょうか❗


2012年放映されたNHK大河ドラマ「平清盛」

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そしてその利権を確実に手に入れるため        伊豆に「派遣」されたのが       「源頼朝」公だったのではと。            

つまり「源頼朝」は           伊豆に「島流し」されたのではなく   「舟運利権」の獲得の為に       「派遣された」のではと、推察します。


何で?、どうして?、と思われるでしょうが      それについては、次回に述べさせて頂きます🙇


(理由は、次回にて。続きますよ)


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