連載小説【フリーランス】#20:食べた気がしない

 手帳を開くたびにゴールデンウィークが近づいてきて、一つの体に二つの家を持つ幸代の二重生活は続いていたが、二軒目の部屋からはしばらく遠ざかっていた。

「先輩、かけすぎじゃないですか?」

 ミヤちゃんが大きな目をさらに丸くしてピザを見つめている。

「え、そう?」

 タバスコの赤はすでにトマトソースの赤に溶け込んでいる。CLOSETの近くに新しくピザパーラーがオープンしたので、ミヤちゃんと休憩時間を合わせて食べに来た。小型のマルゲリータとクアトロフォルマッジを頼んで、先にマルゲリータがきたところまでは覚えてるが、気がついたらタバスコの瓶を握っていたのだ。前はタバスコが食べられなくて、誰かがかける前に、自分の分のピースを先に取っていたぐらいだったのに。

「ほんとに? ほんとに私、これかけてた?」
「かけてましたよ、お好み焼きのマヨネーズみたいにまんべんなく」

 まんべんなく、という言葉に力を込めてミヤちゃんは発音した。とても信じられなかったが、何事も単刀直入にものを言うミヤちゃんが、こんなことで嘘や冗談を吐くはずがない。それに関しては今の自分よりもミヤちゃんのほうがよっぽど信用があった。もう一度マルゲリータに目を落とす。二人でシェアするつもりだったから、ミヤちゃんの分にもかかってしまっているだろう。

「ごめん、無意識だった……」
「もう~気をつけてくださいよ! 唐揚げのレモンだって勝手に絞ったら怒られる時代なんですからね」

 目力が強くて切れの長いミヤちゃんの瞳は迫力がある。

「まあでも、クアトロのほうじゃなくてよかったですね」

 いただきまーす、と次の瞬間には切り分けた一切れを口に運んでいるのがミヤちゃんだ。辛い! でも美味しい~とグラスの水を口にしても、嫌味のないのが救いだった。幸代も一切れかじってみる。辛い。でもこれが味というものではないのか。

 そういえばこのところ辛いものばかり食べている。青唐辛子のグリーンカレーとか、山椒を効かせた担々麺とか、サルサソースたっぷりのタコスとか。餃子のタレも前は酢コショウだったのに最近は豆板醤やラー油を選んでいる。そうでないと味がしないのだ。舌がしびれるぐらいでないと、食べた気がしないのだった。

 向かいの席で新たに届いたクアトロフォルマッジにハチミツをかけているミヤちゃんは、目鼻立ちのくっきりとした美形で、宝塚の男役のような容姿をしている。幸代はミヤちゃんの顔ファンだった。性格も白黒はっきりしていて迷いがなく、一緒にいて気持ちがいいのも好きだった。彼女のように自分というものの輪郭がしっかりしている人は、辛いものなど食べなくてもブレたりしないし、むしろ強すぎる味を甘く和らげる必要があるのかもしれない。

「ところで先輩、結婚の準備は順調ですか?」
「順調、なんだと思う」
「穏やかじゃない言い方ですね。ツッコミ待ちのやつじゃないですか」
「あれ、そんなふうに聞こえた?」
「もう、確信犯のくせに」

 えへへ、と幸代は顔の前で左右の掌を合わせた。

「仕方ないなあ、今日は特別に詮索してあげます。その代わり、デザートのジェラートは先輩のおごりで」
「ちゃっかりしてるな」
「しっかりしてると言ってください。で、何が問題なんですか?」

 幸代は心の赴くままに話し始めた。ここ数週間もやもやしていた部屋のこと、名前のこと、ボランティアのこと。正和を前にするとフリーズしてしまう言葉たちが、すらすらと口をついて出てきた。

「とにかく、私が置きたいものは、ことごとく受けつけないの。私にだけアレルギーがあるみたい」
「それを言うなら逆でしょう。先輩がその部屋にアレルギーなんですよ、部屋は部屋ですから」
「自分の意志と関係なく発動するアレルギーって残酷だよね」
「でも契約するときは二人で相談して、先輩も賛成したんでしょ?」
「そうなんだけど、まあ、消去法というか」
「合意と妥協は“混ぜるな危険”です」

 アイスティーのグラスの中でミヤちゃんのストローにシェイクされた氷がカラカラと音を立てた。

「じゃあさ、原と原を混ぜたら何になると思う?」
「新・原」
「あ、それかっこいい。シン・ゴジラみたい」
「もしくは原原ですね」
「私が現・原から新・原になったらどうする?」
「どうもしません。先輩は先輩です」
「だよね。でもね、現でも新でもない原になるかもしれないんだよね。だったらシン・ハラとか原原のほうがずっと理に適ってるのに」
「要するに、先輩は自分の苗字を変えたくないんですね、書類の上でも」
「変える理由がわからないの。あ、字面が同じだから変わらないっていう方便はなしだよ。だってドラフト会議に原選手が二人いて、同じ原だしどっちでもいいよなんていう球団ないでしょ」
「どっちの籍に入るか二人で話したことはあるんですか?」
「ない」
「どうしてですか?」
「向こうは多分、私があっちの籍に入るのが当然だと思ってる。だから話すにはまずそれが当然じゃないこと、どうして当然じゃないのかってところから、始めないといけないわけ。それってなかなかしんどいじゃない。言い出すにはこっちも腹をくくって覚悟を決めないと」
「わかりますけど、とはいえ自分のことですから、手間暇惜しんだらその分自分が損するだけですよ」
「正直、なんで私ばっかり手間暇かけるリスクを負わなきゃいけないのかなっていう気持ちもあるんだよ、二人のことなのに」
「手間暇かけてでも相手と一緒にいたいかどうか、じゃないですか」

 さすがミヤちゃん、今日も冴えている。こうなるともう止まらなかった。

「ボランティアだってそう。結婚して一緒に住むようになったら生活も変わるでしょ? なのに今までと同じでいいのかなって」
「先輩は仕事ですけど、基本的には有志ですもんね」
「私が週末定休じゃないから、これまであっちは土日でも一人であちこち行ってたんだけど、夫婦になったら時間の使い方もそうだし、二人にとってのボランティアの意味合いも変わって然るべきじゃないかなと思ったの」
「ボランティアというものが善意に頼っている限り、やる人の都合や意義に左右されるのは当然です」
「変えるべきかどうかも含めて、そういう話ができると思ったんだよね。何が変わるか変わらないかなんて結婚してみなきゃわからないんだから。それが今まで通りで当然みたいに頭から言われちゃうと、始まりもしないじゃない」
「ふり出しに戻りましたね。やっぱり腹をくくって話すしかないですよ」

 幸代は大きく息を吸って吐いた。この場で何かが解決したわけではなかったが、調子よくラリーが続いていい汗をかいたみたいな心地よい充実感が込み上げてきた。

「はあ、ミヤちゃんとだったらこんなに簡単なのに」
「相手が私だからじゃないですよ、先輩が相手を選んでるからです」
「そうなの。選んでるの。ミヤちゃんにだったら話せるんじゃなくて、ミヤちゃんに話したかったの」

 テーブルを挟んだ向かい側で、ストローの中を上昇していくアイスティーが、曲がり角のカーブに添えられたミヤちゃんの指先を通り過ぎる。その上で伏せられた長い睫毛が頰に影を落としていた。

「ミヤちゃんて彼氏いるの?」
「いませんよ」
「欲しいとは思う?」
「今はいらないんです、恋愛よりもっと大事なことがあるので」

 形のいい唇が凛と結ばれる。

「私ミヤちゃんと結婚したい」
「はいはい、ポエムみたいなこと言ってないで、早いとこリーマンダンサーと話し合ってください」

 そうしてミヤちゃんはさっさとメニューを開くと、ジェラートのフレーバーに目を走らせた。⏩#21


⏪#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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