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鈴木もぐら『万引き裸族』の衝撃

「有吉の壁」のワンコーナーから派生した映画『有吉の壁 カベデミー賞 THE MOVIE』が、6月に二日間限定で劇場公開。7月3日までアーカイブ配信されている。
 
その中の一編、『万引き裸族』が衝撃だった。
脚本・監督をつとめたのは空気階段の鈴木もぐら。

監督・脚本・出演:鈴木もぐらと裸族たち

もともとのコーナーは、架空の映画とその出演者を対象とした授賞式のパロディで、「スピーチの壁を越えろ!日本カベデミー賞」というもの。ノミニーの芸人たちは、MCの有吉弘行が投げかける無茶ブリ質問に答える形でアドリブスピーチを繰り出す。ここで役者リリー・素寒貧(すかんぴん)として最優秀助演男優賞を受賞した際に、もぐらの口から飛び出した出まかせのコメント「スッポンポンで万引きする」「万引きしたついでにキスをする」を、無理やり映画化したのが同作である。

商店街の実景を撮影するカメラの前に突如現れた全裸の男。演じているのは鈴木もぐらだが、股間に施されたモザイク以外に一糸纏わぬその姿は、「幽遊白書」でヒトモドキに寄生された痴皇のような体型をしており、これがもうかなりの衝撃映像である。

その後カメラはドキュメンタリー調を装って、万引きを生業とする彼の住処を訪ねると、そこには「同じことをして生きて」いるという三人の男たちがいた。

“フルンチンさん(ゴルゴ松本)”なるリーダーを中心に、アパートの一室で共同生活を送る彼らは、「万引きをするときは服を脱ぐ」ことをルールとしており、頑なに守っている。

自らの肉体のみを使った彼らの万引きテクは、腹を波打つ肉のひだや尻の割れ目、脇の下や耳の後ろなどに商品を挟んで持ち去るというもの。あまりにも大胆な犯行に思えるが、買い物客や通行人のみならず店員までもが、すぐそばを通る彼らの存在をなぜかスルーしている。皮膚に挟まれている限り、盗まれたものは見えないかのように。

この素朴な疑問に対するツッコミは、万引き現場のスーパーに居合わせた客へのインタビューで言及されている。その回答はこうだ。
客A「誰かが通報したのかなって。私は関わりたくないんで」
客B「あれを通報するのは、メリットより精神的デメリットが大きいのかなあと」

全裸で万引きをする成人男性というのはつまり異形の者である。フランケンシュタインの怪物と同じである。人々は異形の者を恐れ、排除しようとするのが道理だ。もちろん、それが正しいときもあるし、自衛のために距離を取るべき場合も大いにある。一方で、そうすることによって、世間や自分たちにとって都合の悪いものを、なかったことにしてはいまいか。多様性の尊重が叫ばれる時代にあっては、あからさまな排除を避ける代わりに、 無視というやり方で見殺しにしていないか。受け入れていることと、見て見ぬふりをすることの違いは、表向きには分かりにくい。もしかすると自分たちでさえ気づいていないかもしれない。

裸族仲間のじろう(シソンヌ)

全裸での万引きを信条とする裸族だが、そんな決まりはどこにもないし(そもそも違法だし)、自分たちで勝手に主張しているだけである。あるときその掟を破り、服を着てポップコーンを盗んだじろう(シソンヌ)を、リーダーのフルンチンは「気でも狂ったか!?」「悪魔に魂を売ったようなもんだ!」と恫喝する。空気で膨らんだポップコーンの袋は、体に挟み込んで持ち帰るには体積が大きすぎるという理由だったが(それを言うなら最初のあたりめだって完全にアウトだろって話だが・・・)、追い込まれたじろうは死にものぐるいで訴える。

「俺みてえに、服着ねえと万引きできない奴もいるんだよ!」

当たり前だ。
なのになぜグッときてしまったのだろう。

おそらく家族というものの本質がそこに見えたからだ。

裸族たちがよくわからない独自の謎ルールを作り、律儀に守っている姿は一見滑稽に感じられるが、家族とはそんなものではないだろうか。そして当然ながら、そこからはみ出す者もいる。じろうがはみ出したことで、逆にそれまで彼らを結びつけていたものが浮き彫りになったのだ。

家族は極めてプライベートで閉鎖的な関係性であり、一種のブラックボックスである。自分の家では当たり前だと思っていたルールや習慣が、よその家ではそうでなかったことに、大人になってから気づくといえば身に覚えがあるはずだ。そして多くの場合、それらのルールや習慣には、さして深い意味がない。血のつながりこそないが、一つ屋根の下に住むいわば擬似家族の裸族たちは、「裸で万引きをする」というルールによってつながっていたのである。

裸族たちがみんなで飼っているペットが、貝殻という仮の宿を巣としているヤドカリであることは、単なる偶然ではないだろう。アパートの内装のディテールもよくできており、居間の壁にビニールテープでトイレットペーパーが吊るされているのを見ると、ティッシュペーパーやそれに準ずるものはすべてトイレットペーパーで代用しているのであろう生活感まで生々しくうかがえる。

鳩にエサをやるもぐら

さらに裸族は全員が成人男性で構成されている。映画やドラマで擬似家族といえば、当然のように、母親代わり・父親代わり・娘代わり・息子代わり・祖母代わり・祖父代わりといった、既存の性別や年齢、役割に都合よく当てはめられたメンバーが出てくるものだけど、そうでなければならないと誰が決めたのだろうか。実際の家族には大家族や核家族のみならず、シングルマザーやシングルファーザー、女ばかりの姉妹、男ばかりの兄弟、一人っ子、異母きょうだいなど、さまざまな形態があるというのに、すべてがバランスよく揃っていなければ家族とは言えないのだろうか。この自明すぎる事実を裸族たちはこれでもかと突きつけるのだ。

この映画が『万引き家族』のパロディであることは言わずもがなであるが、もはや完全に本家を超えたと言っていい。上から目線の救済思考や理想主義では絶対に撮れない、圧倒的なホンモノ感がそこにはある。裸族は哀れまれる存在でも救われるべき存在でもない。世間からの肯定を必要とすらしてない。徹頭徹尾、彼らの側の論理で「生きる」ということが語られているのだ。かつそれが「笑い」のフォーマットの中で描かれていることを考えると、中途半端に社会派を謳った映画より一枚も二枚も上手である。

そしてもう一つ。モザイクを逆手に取り、全裸の男たちが、公共の場で、売り物を盗んで逃げるという犯罪行為を収めた映像は、コンプライアンスの限界に挑戦した表現の闘いにもなってる。その善し悪しはまた別の問題だが(個人的にはこうした表現を推奨しているわけではない)、この点において、ベージュのパンツを着用した状態を「裸」のデフォルトとしていたパンサー尾形監督『まっぱ MAPPA』とは、明らかに一線を画している。

そのほか、お笑い界のファッション番長こと長谷川忍(シソンヌ)に「人はなぜ服を着るのか」を語らせるいじりや、三四郎・相田の名演(パチンコ屋でのガラの悪さと、佐藤栞里の夫として登場したときのナチュラルな演じ分けが実に上手い)など、わずか30分ほどの短編ではあるが見どころにあふれており、映画界に一石を投じる作品となっていた。

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