『クワイエット・プレイス』 世紀末に子どもは生まれざるべきか

まず私は子どもを持つことに対して懐疑的で、今のところは作ろうという気が全く無い。それを念頭において読んで欲しい。批評サイトRotten Tomatoesでは批評家95点、一般87点の超好評価なので、私の感想に賛成出来かねない人も多々いると思う。

結論から言えば、映画としては良い出来だった。ありがちな間延びする説明シーンは無いし、全編を通してタイトル通り、音を立てないように息をひそめる観客の一体感は素晴らしかったし、主人公がとりたてて一人に定まっていないのも普遍的な恐怖を増長していて良かった。

が、個人的にはどうしても導入から引っかかる点があって入り込めなかった。

そもそも、この映画の最たるホラー要素は得体の知れない化け物ではなく、”自らの子どもを守れない恐ろしさ”だと思うので、子どもどころか、姉妹兄弟もいない私に、この映画の真の怖さを理解するのは難しいのかもしれない。いずれにしても、個人的にモヤモヤした理由を以下にとりあえず述べてみようと思う。

舞台はそう遠くない未来、宇宙生命体と見られる怪物がはびこる荒廃した世界である。
この怪物たちは音にのみ非常に敏感で、それ故に生き残った人々は主に手話で会話し、ほんの些細な物音でさえ立てないように、細心の注意を払いながら生活している。
物語は、そんな世界で暮らす夫妻と二人の幼い息子、そして耳の不自由な娘の一人、計五人からなる一家が物資調達している場面から始まる。
ここの開始約十分で、まだ四歳程の下の息子が好奇心でおもちゃの音を出してしまい、命を落としてしまう。

そこを責めるつもりは全くない。現実でだって事故はつきものだし、親だからと言って全ての危険を防ぐことは出来ない。問題は次だ。

約一年後に物語は飛び、カメラがエミリー・ブラント演じる妻のお腹にフォーカスを当てる。もうお分かりかとは思うが、彼女は妊娠している。
正直”正気か?”と思った。息子が死んでから一年しか経っていないのに、なんて感情的な理由ではない。
どんなに注意していても子どもを守れないような世界で、なぜまた子どもを作ったのか、本当に生まれてくる子の幸せを考えたのか、甚だ疑問だったからだ。

この”アポカリプスで家族は作るべきか問題”は幾多のフィクションで扱われている。『ウォーキング・デッド』を例に挙げてみても、最終的には"希望を失わずに人間的な生活を営んで行こう"、つまりは、"子どもが出来ても問題なし"という結論に至っている作品が多いと思う。
しかし、『ウォーキング・デッド』では村を形成できるだけの人数ひいては味方がいたのに対して、今回は戦力になりそうなのが夫くらいしかいない。命の素晴らしさ云々より、年端もいかない二人の子供たちを教育しつつ守るだけでも手一杯だろうに、何をしているんだとしか思えなかった。

案の定、この後メイン戦力の夫が息子と狩りに出ている間に妻が予定より早く破水してしまい、全員の命が危機に晒される展開になる。
加えると、この息子は弟を目の前で殺した怪物がうようよしている外に行くのを非常に嫌がり、「お願いだから連れて行かないで」と涙ながらに頼んだりするのだが、母親は「お父さんはあなたに自分の事は自分で出来るようになって欲しいの」と説得し、あろうことか次に「ゆくゆくは(年老いた)私の面倒も見れるように」と続ける。

前半は良い。いつからこんな世界になったのかは知らないが、もう生まれてしまったものは仕方がないし、生き残る術を身につけるに越したことはない。
しかし親の面倒は子どもの義務なのだろうか?
あんな小さな子どもにそんな重荷を背負わせて良いものなのか?
もしかしてこの夫婦は、始めから自分や生まれた赤ちゃんの責任を担わせるつもりで、また子どもを作ったのか?

長くなってしまったが、私にはどうしても主人公夫婦の思考が理解できなかった。
音と死が直結する世界で、泣くのが仕事とまで言われる赤ん坊が、どれほど危険な存在になることか。
しかも、一人目の子どもではないのだ。もう二人も守るべき子どもたちがいるのに、彼らの生存率を更に落とすような真似をするなんて、無責任にも程がある。

それ以前に、こんな世界で子どもが”生まれてきて良かった”と本当に思えるかも定かではない。夫婦が子どもたちを心から愛しているのは伝わってきたが、愛は命を救わないし、幸せは愛だけでは叶えられないのだ。
子どもを持つ幸せを知っている親の視点からすれば、もっと素直に良い映画だったと思えたのかもしれないが、未だに子ども目線の私からすると正直勘弁してくれと感じざるを得ない、ある意味では非常に恐ろしい作品だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?