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トランスジェンダーの誤謬と、社会がすべきトランスジェンダーへの対応

よく、トランスジェンダーが
「心の性別」という言葉を使うが、
そもそも、心の性別の定義は何か?

「自分の性別だと認識している性別」
などと言っている人が多いが、
それは明白な間違いだ。

自分を男性と認識している事が、
自分の心が男性であるという事なら、
「自分の心が男性である」とは
「「自分の心が男性である」
と思っている事」となり、
定義できていない事となる。

「AがBであるとは、
AがAをBであると思っている事」
というのでは、Bを定義できていない。

そして、心の性別を定義しない限り、
男性が「私は女性の心を持っている」
などと発言するのは、
無根拠な発言や、
単なる願望の発露に過ぎない。

知的誠実さを持つ者なら、
「私は女性の様な心を持つ。」や
「私の心は女性の心だと、直観している。」
と言うべきだ。

さて、心の性別の定義を考えよう。
まず、肉体の性別による、
心の傾向は定義には使えないだろう。

例えば、優しい、穏やか、感情豊かなどの、
女性の持つ心の傾向がある事を、
女性の心の定義としたなら、
女性よりも女性の持つ心の傾向がある、
例えば、女性よりも優しい男性が、
女性とされてしまう。

また、どの性別に性欲を持つかを、
心の性別の定義とするのも無理だ。

ゲイやレズや、無性欲な人がいるのだから、
女性に性欲を抱く心が、
男性の心であるなどとは言えない。

では、そもそも心が何であるかを考えよう。

心とは感覚を単位としている。
複数の感覚から知覚が生じ、
複数の知覚から、
感情や認識、思考などの
高度な感覚が生じる。

この高度な感覚を
人は心と呼んでいるのだから、
心の根源である、感覚の性別で、
心の性別を定義するのが妥当だろう。

では、感覚の性別とは何か?
感覚は、その体の形態に依存する。

例えば、尻尾を持たない人間には、
尻尾の触覚を感じえない様に、
感覚は、その体が
どうであるかで決まる。

つまり、男性の体は、男性の感覚を持ち、
男性の感覚は男性の心を生み出す。

なので、男性の体を持つ人が
男性の心を持っているのだ。
心と体の性別が違う者は
存在しない。

ただ、あるのは、
男性的な女性の心や
女性的な男性の心である。

そして、私は、
肉体に女性的傾向がなく、
心が男性的傾向を持つ事は
あり得ると考える。

積み木で例えよう。
軽くて滑りにくい積み木で
子どもに何かを作らせたら、
細くて高い物を作る可能性が高いだろうし、
逆に、重くて滑りやすい積み木で
子どもに何かを作らせたら、
平たくて低い物を作る可能性が高いが、
あくまで、可能性の話なので、
軽くて滑りにくい積み木で
平たくて低い物を作る可能性もあるのだ。

つまり、部品が男性でも、
全体的には女性と似る事はあるのだ。

ただ、似ているかどうかは、
曖昧で数値化できないのだから、
トランスジェンダーを称する人々を
特別扱いする必要はない。

いくら、男性が女性の心を持っていると
言おうと、法的には、男性と扱うべきだ。

理由は至極当然で、トランスジェンダーは
何処まで行っても自称だからだ。

乳児を自称すれば、社会はその人を乳児と扱って、
親を探したり、児童養護施設に保護するのか?
大人を自称すれば、子どもでも車の免許がとれるのか?
猫を自称すれば、猫として可愛がってくれるのか?
そうしなければいけないのか?

たったそれだけの話なのだ。

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