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人間番付70億位

 2022年現在、世界人口は79億を超え、今年度中には80億に達する勢いで増え続けているという。もしも世界中の人間の価値をランキング形式で序列化するとしたら……。洗面台で手を洗いながら空想する。おそらく俺は70億位あたりに入るんじゃないか。

 人間の価値には高低がある。いかに綺麗ごとを言って取り繕おうが、これは厳然とした事実だ。世を見渡せば、何の罪もない者を無差別に襲う殺人鬼、自国民を奴隷のごとく酷使する独裁者、世界中の紛争地域で暗躍する武器商人、等々、明らかに人間的価値の低い、存在してはいけない者も存在する。

 そういった連中が世にはびこっていることに目をつぶり、人にはすべて等しく価値がある、などとほざくのは偽善者だ。そう考えれば、俺などまだマシな部類だと思う。社会不適合者を自認してはいるが、少なくとも人間失格とまではいかないはずだ。

 鏡をのぞき込み、ため息をついた。いや言い訳はよそう。いくら自分より下劣な人間を思い浮かべ、己の価値を相対的に引き上げようとしてみても、やはりダメな人間はダメなのだ。俺の今までの業績といったら、世間で名の通った大学に入れたことくらい。だが入学後に燃え尽き、この3年間の取得単位は数えるのも憂鬱になるほどしかない。もはや4年で卒業するのは不可能だし、この調子では5年かけても難しいだろう。

 どうやら俺には人間として、まともに生きていく能力が決定的に欠けているようだ。原因はおそらく、中学2年生あたりで精神年齢が止まってしまったことにあると思う。「人間番付」などというくだらない発想が、図らずもそれを示してしまった。

 トイレから出てテーブルに戻ると、茜が4杯目の生ビールを注文しているところだった。

「あ、俺ももう1杯もらおうかな」

「大丈夫? 俊くんお酒強くないでしょ?」

 茜はそう言って、にやにやしながら俺の顔を見つめてくる。くりくりとした垂れ目が可愛い。耳が熱くなってきた。

「すみません、生もう1つ」

 店員に追加で注文し、席に着く。ハワイに留学していた茜の肌は日本に帰ってきて多少色が落ちたが、もともと地黒の頬と美しく白い歯が対照的だ。

 大学に入ってからの3年間、俺は小遣い代わりに日雇いの肉体労働でささやかな収入を得ながら、特に何かの技術を磨いたり資格を取ったりするわけでもなく、いたずらに人生を費している。幸い都内の実家で養ってもらっている身なので、生活上の苦労はないけれど。

 そんな俺とは違い、茜は大学の学費、家賃、その他の生活費も含めすべて自分のバイト代と奨学金とで賄っているという。しかもハワイ大学に1年間留学していたので、その費用も含めれば莫大な額をひとりで工面してきたわけだから、いくら優秀で奨学金をもらっているにしても、生活はかなり苦しいに違いない。彼女と比べると、恵まれた環境にいながら何もできていない自分の不甲斐なさにげっそりする。

「あのさ、俊くんにちょっと、お願いがあるんだけどさ」

「何なに? 俺にできることがあれば何でもするよ」

「ほんとに? ありがと」

 そう言うと、茜はおしぼりで口をぬぐい、バッグの中から原稿用紙の束を取り出した。薄暗い照明の下、俺はその書類に目を凝らした。

「これね、あさってまでに仕上げなきゃいけないエントリーシートなんだ。ちょっと俊くんに見てもらいたくてさ」

「いいけど、俺なんかにアドバイスできることあるかな?」

「ほら、あたしって日本語ヘンじゃん。それを直してもらいたいなあ、って思って」

 茜はすでに就職活動を始めている。廃人のような俺が彼女に対して就活に関する助言などできるはずはないが、たしかに茜は日本語の語彙が少なく、日常会話では問題ないものの、高度な話をしようとするとややぎこちない印象を周囲に与える。漢字も苦手で、以前「流石(さすが)」が読めず、「リュウセキって何?」と俺に訊いてきたこともあった。エントリーシートの添削でなら、こんな俺でも少しは彼女の役に立てるかもしれない。

 ざっと原稿に目を通すと、「気づく」が「気ずく」になっていたり、「価値観」が「価値感」になっていたり、名詞の「話」を動詞のように「話し」と書いていたり、といった誤記が10箇所以上見つかった。また、「している」と書くべきところを「してる」とするくだけた表現や、「すべからく」を「すべて」、「命題」を「課題」の意味と取り違える誤用、「自分に自信を持つ」といった類の重複など、日本語として不適切な表現も散見された。そういった誤りを、俺はひとつずつ指摘していった。

「やっぱひどいなあ、あたしの日本語」

 茜が苦笑した。

「いやでも、単に文法語法上のミスが多いだけだよ。内容的にはすばらしいと思うよ」

 彼女を落ち込ませないよう気遣いながら、俺は何度も原稿用紙に目を通した。

 茜は今、就職活動に奔走している。人間番付における自分の順位をひとつでも上げるために、というわけでもないだろうが、自己実現のために邁進しているのだ。それに比べて俺はどうだ。親に学費を払ってもらっているにもかかわらず、大学の授業をサボって稼いだ日銭を家に入れるわけでもなく、ただ毎晩酒を飲んで寝るだけの、学生とは名ばかりのクズ。

「助かったあ。こんなこと頼めるの俊くんしかいないもん」

 茜の社交辞令を聞き、つい鼻を鳴らしてしまった。

「俺なんかよりさ、彼氏に見てもらえばいいじゃん?」

 微かな笑みを唇にたたえ、茜はジョッキの中の氷をカラカラと回した。

「彼最近、急がしいんだ。今年は国家試験があるから」

 茜の恋人は実家が医院を経営している医大生だという。しかも、写真で見たらいま流行っている韓国風の色男だ。6年間の学費が都内の標準的なマンションの価格に匹敵するほど高い私立医大に在籍しているそうだから、当然裕福だろう。そのうえこんな恋人までいる。人間番付では、間違いなく俺より何十億も上だ。可愛い彼女のいるイケメン医大生なんて、もはや俺には妬ましいとさえ思えない。自分より遥かに格上の相手には、嫉妬の感情すら抱けなくなる。

「あとさ、実はもうひとつお願いがあって」

 そう言うと、茜はバッグから新しい原稿用紙を取り出した。

「あたしのいいところ、教えてくれない?」

「茜ちゃんのいいところ?」

 照れくさそうに頬を染める茜が可愛くて、目をそらした。俺は言われるまま、彼女の長所を原稿用紙に書き出していった。

「すごい!」

 自分への賛辞が長々とつづられた紙に目を走らせる茜。まだあどけなくも見える顔に笑みが浮かんだ。 

「こんなにカッコよくまとめてくれるなんて。なんか感動しちゃった。俊くんに見てもらってよかった。ありがとう」

「こんなんでよければ、またいつでも手伝うよ」

 茜の笑顔を見ていると、人間番付の順位が少し上がったような気がする。ジョッキの残りをくいっと飲み干し、頬が緩みそうになるのをごまかした。

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