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mimamoru

やあやあ。息子が可愛いです。毎日毎日悶えています。可愛すぎて。

今の私の主な気持ちは二つあります。
(1)一つは可愛くって、何でもしてあげたいというもの。もちろん一日が終わる頃にはいろいろと疲れてしまうのだけれど、朝起きればそれもリセットされます。
寝顔リセットと、朝の上機嫌笑顔リセットの二つがあるからです。
無邪気な寝顔と笑顔は、本当に本当に宝物。「大好きだよ~」すりすり~って抱きしめていると、なんだか泣けてきます。

(2)もう一つは、責任。これは少し表現が難しい。心配とか不安とかではない。
子どもの命と人生は、親の助けがなくては保てないにもかかわらず、親自身のものではない。そういう絶妙なバランスを含めて、「元気に育って、巣立っていく」ようにしてあげるという責任をずっと感じている。意識している、かな。頭の片隅で。

相方にも聞いてみました。
息子の「してほしい」には出来るだけ応えてあげたいとのこと。だっこしてほしい、おなかがすいた、絵本を読んでほしい、眠たい、寂しい。その気持ちに、出来るだけ応えたい。でもそう思っていても、疲れちゃうからなぁ、と。

そうねぇ。

ーーー

夫婦は相手を選べる。それに、親は子を産むかどうかを選べる。

しかし、子は生まれるかどうかを自分では選べない。さらに、どんな親の元に生まれるかも選べない。

だから何なのかというと、特に子どものためには目に見えない「あなたのことを大切に思っている」というメッセージをずっと家の中に満たしておくことが必要なのじゃないかなと。だって、子どもには家が逃げ場にならなかったら、ほかに場所がないから。何は無くとも、「この家は安全な隠れ家であり、傷ついたら安心して帰って来れる場所。そして、安心して脱ぎ捨てていける場所」と思えるようにしてあげること。


夫婦は、お互いの嫌なことはしないとか、お互いにして欲しいと頼まれたことをするとか、ルールを守るとか、ルールを超えて助け合うとか、そういうことを大人としてお互いに実践している。
一方で、子どもは、自分の言葉で上手く表現できないからこそ、より柔軟に気持ちをくみ取る必要がある。言ってないから大丈夫、ということはない。

おそらく、巣立っていくことを前提とする子育てには、「信じて口を挟まない」ということが後々重要になってくるのだろうなぁと思う。でもこれはアドバイスが必要ないということではない。

親だろうが誰だろうが、「他人に口出しされたくない」という気持ちは誰でも持っているし、私自身が強く感じてきているので良く分かる。
でも、それはアドバイスや援助が「必要ではない」ということではない。むしろ必要である。アドバイスがないと選べないし、情報も知識も子ども一人では足りないので賢い判断も出来ない。だから、アドバイスも情報も知識も援助も必要なのは間違いない。
ついでに言えば、本当に自分自身でそれを選ぶことが出来るのかどうかという自信もないのだ。

しかしそれでも、やはり自分自身で選んでいくのが必要なのだ。そして上手く行こうが行かなかろうが、自分で選んだんだと納得しながら、自分の足で進んで行くしかない。
助言そのものは必要でも、助言しない。でも大丈夫という「安心」はいる。要るのだ。

ここだ。助けたいけど、見守る。
助言は必要なのだけど、煙たがられないようにそっと置いておく。

援助が必要な時に、すぐ手に取れる場所に置いておく。でも「これが必要だから持って行きなさい」とは言わない、というか。

んん~。想像しているだけで難しそうだなぁと思いますね。

ーーー

私は、周囲の人から少し近寄りがたい人と思われる所があります。それはおそらく安易に近寄ってきてほしくないと実際に思っているからなのですが、決して冷たいとか他人に関心がないということではないのです。

むしろ心を開いたら、私の範囲の中に入ってきたその人を大事にします。だからこそ、安易に開きたくないのです。だって、私の心を開いたときに、あなたは私と同じくらいの思いで私には向き合わないでしょう。(それはそう。当然。)そして、私は他人に対してそれほど割ける心の余裕がない。だから、内と外の壁が厚いのです。

適当に愛想を振りまいて、自由気ままに行動しつつ「みんな友達だよ!!」などとは口が裂けても言えないのが私なのです。
「私たち友達だよね」なんて言われると、正直「え、めんどくさい。この人、私を友達呼ばわりすることで、一体なにに巻き込むつもりなの」と思ってしまいます。

どうしてそう思うかといえば、そういう経験がたくさんあったからですね。巻き込まれ、振り回され、利用された経験が。

私の心の中には大切な物がたくさん詰まっている。それらのために心の大部分を割いている。だから、私はたくさんの友達と関係を保つのが好きではない。きっと「友達」というものに私が掛けるエネルギーと、他の人が「友達」に掛けるエネルギーにギャップがあるから。だから、むしろ空しくなる。

でも、たまにいるのです。こんなに狭い心の扉を、するする~と開けて入り込んでしまう人が。決してずけずけと踏み入るのではなく、あくまで自然に。その人も入ったとも思っていないくらいにするりと入ってしまえる人が。

そんな人は、相手がどう思っているか知りませんが、私は「心の友よ~」と心の中で呼んでいます。

相手がありのままでいて、私もありのままでいて、それで自由に扉の間を行き来して、そこに違和感も痛みもない人が。

ーーー

私にはこんな所がありますが、息子は、もっと気楽にほにゃほにゃしたところがたくさんふくらむといいな。

多分ね、孤独との付き合い方なんだと思う。孤独は悪いものではなくて、自分を見つめたり、あるいは新しい繋がりを見つけたりする動機を生み出してくれる。私は前者に向かう方が多かった。おそらく後者は、良い経験によって身に着けていくもの。そういう良い経験が出来るといいな。彼が。

辛い経験をしても、なんとなく発散しながら、また前を向けるように。

何かしてあげたいと思っていても、実際にはしてあげられることはとても少ないのかもしれない。

でも、しなくてはならないことはあるという…。
むずかしいけど、楽しい。

#子育て #心の扉 #親子


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