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写真

ダヴィッドの顔を見ながら、「この顔は、私の赤ちゃんの時にそっくりの写真があったはず」と思っていた。
私の写真は実家に置いてある。実家を出て数年後に「持って行くか?」と親に聞かれたのだけど、なんとなく「まだ実家に置かせてほしい」と言った。今、このタイミングで貰ってきてもいいかもしれない。


何とはなしに手元にある高校時代のアルバムを開けてみたら、そこに赤ちゃんの頃の私の写真が混ざっていた。多分結婚式の時に使うために抜き取って、その後適当に戻したものだろう。しげしげと見てしまった。やっぱりよく似ていたから。眉毛が横に長い。目がでっかい。主張する顔。だから、多分彼も私と似た顔に成長するのかな…。いやまだ分からない。似ているところはあるものの、似ていないところもある。どうかわっていくのかはお楽しみだ。

「愛着」という言葉が親子関係で用いられる。アタッチメント。
(ちなみに村上さんの作品の特徴の一つはデタッチメントであると指摘される。アタッチメントの逆である。繋がれない、属さない、孤独、疎外感といったところか。)

なぜ親子が似るのかというのは遺伝子のイタズラによるのだけれども、その利点は同じ環境で生きる時に性質が似ていた方が生き延びやすいということがあるだろう。
でも外観まで似るというのは、似ているとなんとなく嬉しくなり、絆みたいなものを感じるという効果もあるかもしれない。チームメイトが同じユニフォームを身に着けたりするように。

眉毛と目の間隔が狭いのは相方に似ている。鼻もそうだ。ぷりっとしてかわいい鼻。色白で桃みたいな肌をしているのもそう。

私は昔からすべすべのひんやりした肌が好きだった。耳たぶとか二の腕とか。夏になると特に触りたくなる。母の腕を触っていた。(「暑いからやめて」と言われた。)

赤子のお肌は格別だ。ふくらはぎが好き。すっべすべ。抱っこ紐の時はいつもふくらはぎをさすさすしている。
首元もふやふやでミルクの匂いがする。くんくんしてしまう。

赤子は空腹で泣く。その様子を見ながら、空腹ってのは泣くほどのことなんだなと改めて思う。お腹減ったらさ、やっぱり悲しくなるしイライラするものなのね。我慢しないで食べよう。

あとね、赤子は退屈でも泣くのだ。あなたは退屈で…泣く?多分、退屈って思っている以上に心を蝕むものなのでは。心が何かに向かって集中していて、それを楽しんでいるのってとても重要なこと。退屈で、しかもそれを自分で解消できないというのは苦痛だ。

ダヴィッドに絵本を読んでいる時、きゃっきゃと喜ぶブームは日によってころころ変わる。昨日はtupera tuperaの「やさいさん」に大興奮していた。でも今日はじーっと見つめるだけだった。

だいたい真顔で、じーっと見つめたり、きょろきょろ全体を見たり、ページをめくろうとしたりしている。多分これは集中していると言ってよいのだと思う。きゃっきゃと喜ぶのは、何か新しい概念を理解したときなのかもしれない。繰り返し読んでいるのに、ふいに喜び始めたりする。

あ、それで愛着というのは、言ってみれば「心の絆」のようなものなのだけれど、これはどんな人間関係でも人が求めているものだと思う。「私のこと分かってくれるよね」という期待、「私のことを、私だけを見て」という欲求、「私を慰めて、なだめて、安心させて」という不安。そんなものがぐるぐると絡まりあったような感情。それが満たされたり満たされなかったりしながら形成されるのが愛着。広い意味で言えば「好き」という感情とも言える。
肌の触れ合いは気持ちが良い。抱っこしていると彼の心が安定していくのが分かる。それを繰り返しながら、好きの絆は太くなる。
親は、子どもが好きだから一緒に生きることを決めたというわけではない。一緒に生きないと死んじゃうのでお世話しているうちに好きになる。そしてその好きの中には、いろんな葛藤や苦労や工夫が折り重なって深くなっていく。
子どもの方も好きだから親の近くに生まれ落ちたわけではないけれど、親の近くでなければ生きることが出来なくて、近くにいるうちに好きになっていく…のかな。子どもは、どんな親でも親を好きになりたいんだよな。だから上手くいくこともあるし、だから苦しむこともある。親を好きになりたい。親を尊敬したい。それが子どもだったときの(、いや今も子どもの)私の気持ち。

バランスを取るように、心が枯れないように、心からあふれないように。

どんどん増えていく赤ちゃんグッズを出してはしまい、出してはしまう。やってあげたいこと、やらなくてもいいこと、彼がやりたいこと、やらないほうがいいこと、いろいろ。

出来るかできないかというよりは、やろうとする思いというのが大事なのかな。

最近見つけた言葉。

完璧は愛ではないけれど、愛は完璧である。

英語だと

Perfection is not loving, but love is perfect.

になるのかな?
(私訳です。)

完璧であることは愛ではない。もし完璧であることが愛だと思い、完璧でなければ愛ではないと考えているなら、そのような思いこそ不完全。

むしろ不完全であることを愛し、不完全なままで愛し合えるなら、その愛は全てを満たす完璧なのだろう。

友人や同僚とか先輩とか親戚だって、こういう愛着のような信頼関係を結べる相手だっているとは思う。完ぺきというよりは、まぁそうやってゆるやかに大切にし合うということですからね。

結局は、一対一の関係性で、お互いの心と身体と人生を思いやりながら、心地よい距離をはかり、時にはぶつかりながら調整していく。そういう面倒くさいことをやって行けるかどうか、ということじゃないか。

完璧は愛じゃないから。
じゃぁ何が……っていうのは、いろいろやってみることだろう。



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