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読書とは登山である、私の本音①

1.本音

常々思っていることだが、読書とは登山のようなものだ。

話の結論という頂上に向かって、思考力や想像力という足腰を使って読み進めていく。
そして、頂上に辿り着いた人々は、そこから見渡せる風景に感動し、そこまでの道のりを振り返り、作者に共感するのだ。

と、このように書いておいて何だが、私は登山が嫌いだ。
当然、読書もあまりしない。特に、結論を知り、理解することに重きを置いた啓発本の類は全く読まない。

啓発本が言いたいことなど「読まなくても分かるだろう?」というのが、今回の私の本音だ。

山の麓から山頂が見えるなら、わざわざ登らなくても良さそうなものだ。
山に登る機会があったとしても、山頂に至る道筋は人の数だけあっていいだろう。
整備された登山道を歩くが行為には、私は抵抗を感じる。

私が本を読むとしたら、その作者のことをもっと知りたいと特別に興味を惹かれた時だけだ。

2.説明

ここまで書いたのを見て、私の他の記事を読んだ人のうち、察しが良い人はもう気づいたかもしれないが、私は物を考えることが苦手だ。

物を長々と考えようとすると、億劫になってくる。
足腰が弱いので、わざわざ山を登ろうという気にもならない。

私の書いた記事に会話形式のものがあるのは、私のモノグサさの現れでもある。
長い文章の回りくどい記事もあるが、普段の私はあそこに書いてあるようなクドクドした思考はしていない。

記事に書いてある結論とそれに至る理屈は、取り立てて説明しなくても、タイトルと前書きあるいは後書きを読めば、分かる人には分かると思っている。
にもかかわらず、わざわざ長い文章を書いているのは、世の中にはそうしないと伝わらない人もいるからである。

これは、別にそういう人々を否定する物ではない。

まず、人の知識のベースはそれぞれ異なる。
加えて、そういった人には、私にはない思考力を持っているとか、その人の長所というものが色々とある。
それが個性というものだが、しかし、説明を追加する必要があることに変わりはない。

もし、人生において他人とコミュニケーションを取る必要がないのであれば、私は物事の概要と本質、それに関係性だけ知って満足していたはずだ。

しかし、実際には私も他人に自分の考えを説明する必要性に迫られることがある。
それで、わざわざ登山の道順を他人に教えるかの如く、話をすることになるのだ。

改めて本音を言えば、山頂だけ指で示すから、後は好きに登ってくれ、と言いたくなる時もある。
私が書く「ある日の会話」シリーズは、基本的にそのような意思の現れと言える。

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