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「常に最悪を想定する」を突き詰めると人はどうなるか

最悪=死を想定することをやめられない

大学生くらいの頃からだろうか。「希望を持たない、期待しない」と自分に言い聞かせる癖ができた。
想定していたよりも悪い未来の到来によるダメージを少しでも抑えるための方策だ。
うまくいっているように思えるときほど注意深く期待心の芽を摘んだ。
「調子に乗るな、勘違いするな」と(ときには口に出して)繰り返しながら、心の隅に隠れているプラスの期待を片っ端からあぶり出して除去した。

だんだんと、「期待しない」は「常に最悪を想定する」に変化していった。
たとえば仕事に関していえば、取り返しの付かないミスをして損害賠償責任を負うとか。
人間関係に関していえば、数少ない親しい人全員の信頼を失う何かをしでかすとか。
事故に遭うとか、犯罪に巻き込まれるとか、何かの間違いで逮捕されるとか、不治の病にかかるとか、全財産を失うとか。

最悪とは「最も悪い」ということだ。
私自身にとって最も悪いこととは何か。
それは今この瞬間に死を迎えることだ。少なくとも今の私に起きうる最も悪いことは、死ぬこと、それも最も近い時点つまり今この瞬間に死ぬことだと思う。

こうしてあるときから、「『今この瞬間に死ぬかもしれない』と常に頭の中で唱え続けなければならない」という強迫観念に近いものが脳を占拠している。
行き着くところまで行き着くとこうなるのだな、と思う。

最悪を想定することで内面と行動はどうなるか

最悪=死を起きている時間中ずっと心のなかで直視し続けるとどのような影響があるのか。

精神や思考への影響はなかなかに多大だと思う。

まず、単純にワーキングメモリが常に何%か占有されている状態になる。ずっと頭の中で同じ音声が流れ続けているようなものなので当然だ。これは普段の様々な活動のパフォーマンスにマイナスに作用する。

次に、物事の見方・考え方が多少変わるかもしれない。
自分より倍生きている人を見ても、その人が自分より先に死んでその後に自分が死ぬという、「年齢による死の順番」の感覚があまり強く沸き起こらなくなった。
この人より先に自分が死ぬことも全然あるな、という感覚になる。
だから高年齢の人が私に対して言う「(若いあなたにはまだまだ時間があるけど)自分はもう死んでいくだけだから…」のような言葉には違和感を抱くようになった。

そして死を意識することによる恐怖ももちろんある。
未来のある時点で確実に生きていられるだろうという根本的な前提・信頼を自らはねのけてゼロにするのだから、今立っている場所がぐらぐらと崩壊して奈落に落ちていくような拠り所のなさを常に感じるようになる。
身体感覚でいうと、体の芯がゾワッとするような、あるいは心臓のドクドクがやけに頼りなく感じるような、そんな感覚を得ることもある。

でも、ここに至ってもまだ「自分は真の意味で最悪を想定し、実感できているのか?」と疑念が生まれることがある。
というのも、今この瞬間の死を本当の意味で直視し、身体に刻みつけたなら、人の行動は次の2つのうちのどちらかになるような気がしていたからだ。
①時間的な有限性を意識し、人生で本当にやりたいこと、やるべきことに一心不乱で没頭する。ぼーっとしない。あるいは極度に刹那的な行動を取る
②すべてに意味がない、自分には為すすべなどないと諦め、ただただ無気力に目の前の時間をやり過ごしていく

①,②のような究極的な行動・態度を取っていないということは、まだ自分は行き着くところに行き着いてなどおらず、真の意味で死に直面して生きてなどいないのかもしれない。
なんだかんだで明日も明後日も生きているだろうという確率的な身体感覚を拭いきれていないのかもしれない。
人の内面や行動の慣性というのはなかなかに手強いと思う。昨日までの自分のあり方を振り切って、究極的・極端な思考や行動にシフトすることは簡単ではない。
結局表面上はそれまでとたいして変わらない日常を送り、そしてどこかの時点で死を迎える。死の間際に人生を回想する時間があったとしたら、やっぱり人並みの後悔と満足と不満を抱くのだろう。

最悪を想定することは、人生にとってきっと良くないだろう。
でもそれは避けようと思って避けられることではない。
良い悪いじゃなくて、「自分にはこうでしかありえなかった」という類のものだ。
だったら、せめて同じように「自分にはこうでしかありえなかった、他のあり方なんてなかった」と感じている人とアイコンタクトくらい交わせたらいいいなと思う。





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