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戦後20年で「五輪開催の日本」と「政権崩壊のアフガン」明暗分けた理由

アフガニスタンの民主政権が崩壊した。メディア、専門家、情報機関のいずれの予想も遥かに上回るスピードで(今となっては元)反政府勢力のタリバンが全土を制圧した。

そのニュースの中で、アメリカがタリバン政権を倒して民主国家を建国して「20年」という説明があった。つまり、戦争が終わって20年も経ったというのに元の状態に戻ってしまったのだ。

20年という歳月

この20年という年月。同じ、アメリカにより民主化された日本について考えてみると、日本は民主化されて約20年後に東京オリンピックを開催していることに気づく。

もちろん、時代も、文化も、歴史的背景も全く違う国同士であって、単純に比較してはいけないと思うものの、それでも、同じ戦後20年を経てオリンピックを開催できた日本とアフガニスタンの違いは何だろうと考えた。

その結果、その理由は「部族社会であるかどうか」ということにいきついた。

部族社会のアフガニスタン

今回のアフガニスタン政権崩壊は、国民の多くが、自分たちの部族を信頼して、政府を信頼していなかったことから起こったと言われている。

つまり、アフガニスタンは、いまだに部族の寄せ集めの国であって「国のため」というよりも、自分の出身地の「部族のため」と考える人が多いのだと思う。

日本も昔は部族社会

一方、日本はというと、実は古くは邪馬台国の時代から、各地域を「国」として、部族や大名がその国を収める政治手法を進めてきた。一応中央政府は京都とか江戸にあるものの、それでもある程度部族の自由に各国を任せていたのだ。

しかし、江戸時代の後半にそうもいかなくなってしまう。黒船やヨーロッパの最新の軍事力を知った日本の部族たちは、各部族や国では到底これに対抗しうることはできないことを悟ったのだ。

日本国を選択した大名たち

自分たちの住む国を守るためには、部族を結集して、一つの大きな組織としての「日本国」になるしかない。そう信じたからこそ、各大名は、自分たちにとって何のメリットもない、廃藩置県、版籍奉還といった施策を受け入れた。

それによって、日本は明治時代に「部族社会」ではなく「中央集権型国家」に移行をしていた。もちろん、それに対する反発がなかったわけではなく、西南戦争といった内戦もあったのだけど、圧倒的な官軍の軍事力でそれを押さえ込んだのだ。

70年という期間

西南戦争は1977年である。そして、第二次世界大戦が終結したのが1945年である。つまり、日本はすでに70年近く中央集権型国家を経験し、すでに部族社会を知る国民はほとんどいない状況であった。

説明が長くなってしまったが、だからこそ、1945年にマッカーサ元帥が来て、統治を始めた時、東京は従うが、大阪は戦闘を続けると言った状態になることは一切なかったのだ。

アフガニスタンと日本の戦後処理の成否の大きなポイントはここにあると考える。

自らの手でするしかない

正確に言えば、「期間」だけではないと思う。日本は「強い外圧によって」ではあるが、それでも「日本人自ら」部族社会を捨てるという選択をしている

しかしながら、アフガニスタンにおいてそれは、あくまでも「強制された」とは言い過ぎかもしれないが、よく言っても「与えられた」ものである。だから、どこまでいっても「自分たちの国」というものを意識することは難しいのかもしれない。

この先どうなるか

女性の人権を弾圧し、公開処刑をするタリバン政権は、民主国家にとって「野蛮」に映る。この先どのようになるのか全く未知数が、もう変わってしまったものはどうしようもない。この政権がより良い国づくりをするように、国際社会が監視をしていくしかないと思う。

ところで、タリバン政権について、一つだけ良い点があるとすれば、ある意味(一部の人のみかもしれないが)他国に与えられたものではなく、アフガニスタン人の思い(不満も含め)により誕生した政権であるという事実だ(決して擁護するつもりはない)。

だからこそ、この政権にはアフガニスタンの未来のことを、心から考えている人もたくさんいると思う。そして、そうであれば、日本が150年前にしたような大きな決断を、この政権もできるはずだと思う

どうか、このアフガニスタン人の政権が、本当の意味で、アフガニスタンを良い国にするための素晴らしい決断をしてくれることを祈っている。

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