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ショートストーリー「赤坂の理髪店(3)」

村田の緊張

これまでも何人もの総理をカットしてきた。もちろん、10年以上前に初めて、時の総理をカットしたときは少し手が震えていたが、長年続けていると、もはや総理のカットも日常である。

ただ、実は、今回のカットは少し緊張していた。なぜなら、村田にとって「総理を辞める」と決めた総理のカットをするのは初めてだったのだ。

これまで、村田の理髪店に来る総理は、警備の事情で仕方なくきていた。だから、辞任してそれほど高度な警備が必要なくなれば、まず来ることはない。それに、総理在任中だとしても、辞任すると決めた後にわざわざ髪を整えようとするような総理はこれまでいなかった。

しかし今回は違った。昨日のニュースで、辞任が伝えられ、その後の首相官邸でのぶら下がり取材の映像を見ながら「もう彼の髪を切ることはないだろう」と思っていたら、翌朝かかってきた突然の電話がその予想を消し去った。

当然、総理をやめると決めた瞬間に何かが変わるわけではない。もともと、特別扱いをしていないわけだし、これからも特別扱いはしない。だが、なぜだかわからないが、村田は、総理に「私はあなたに対してどんな状況でも対応が変わらない」ということを、なんとなく伝えたかった。

なぜなら、総理を辞任するにあたり、きっとたくさんの人が、彼への対応を変えているだろう、と、そう思ったからだ。一介の何の取り柄もない理容師であるが、総理に接することができる1人として、自分だけはいつも通り接しよう、そんな変な思いが、村田を緊張させていた。

最後の言葉

剃刀のチェックを忘れかけた以外、特に何事もなく、無事に全ての施術が完了した。軽く肩をマッサージしたあと、後頭部のカット状況をチェックするための席の後ろで鏡を構えると、引き続き目を閉じている総理に声を掛ける。

「終わりました」

総理は、静かに目を開ける。

「いかがですか」

村田の問いかけに、総理は、少しだけチェックしている素振りを見せたあと

「大丈夫です」

とだけ答えた。

まさにいつも通りだ。しかし、村田がその回答に満足して、鏡を移動式のラックの戻し、総理の首にまかれたタオルを取っていると、突然総理が声をかけてきた。

「村田さん。今日までありがとうございました」

村田は驚き、鏡越しに総理の顔を見た。総理が「伸びた分だけ切ってください」、「大丈夫です」意外に言葉を発したのは今回が初めてだった。そして何より、自分の名前を覚えていたことに驚いた。

これまでの総理には、とにかく愛想がいい人もいたが、それでも名前を呼んでくれた人はいなかった。

「いいえ。とんでもない」

何とか言葉を絞り出した村田に対して、総理は続けた。

「ご存知だとは思いますが、私はもう今回で最後だと思うので。おせわになりました」




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