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FFXIV Original Novel: Paint It, Black #3

前:

まとめ読み:


6.


 翌日の明け方過ぎ。二人はキャリッジが集まる街外周部の一角を訪れていた。
 ナインが何度もあくびを隠せないほどの時間帯だというのに、彼女が想像していたよりもずっと人が多い。深夜から未明にかけての漁で獲れた魚の第一便がアイスシャードとともに詰め込まれているのだ。
 水産業関連の大量輸送用羽車がいくつか検査を受けてから発車していく。この時間帯から動くキャリッジは少ないらしく、御者を探すのにやや難儀した。
 ナインはまだ眠気が取れていないらしく、どこか上の空であった。そんな彼女を見てロクロはその辺で待機するように言うと御者を探しに行ってしまった。
 どこかの倉庫の石垣に腰掛ける。昨夜にたらふく食い、エールもあれから三杯ほどおかわりしていたのを思い出す。そりゃ眠くて当然だ、と彼女は内心で頷く。財布の中身も軽くなっているが、今はそんなことを考えず眠気に身を任せ、このまま少し眠っていようかとも思う。
「お姉ちゃん」
「んあ?」
 明らかに自分に向けられた声がして、ナインは瞼を押し開けた。ちょうど左に黒髪の少女が立っていた。昨日のムーンキーパーだ。
「スリのガキじゃねえか」
「『スリのガキ』じゃないもん。アギ・ジャールだもん」
「今のところは『スリのガキ』で十分だ。名前を覚える価値があるって証明しない限りはな。……よくこの時間にここにいるってわかったな」
「この街では噂が広まるのは早いんだよ」
「ああ……」
 まあ隣に目立つやつもいるわけだしな、と彼女は納得する。
「で、何しにきた?」
「見送りと、これ」
 ナインの半分ほど小さな手が差し出される。指が開かれると薄汚れたギル硬貨が数枚乗せられていた。
「何だ、これ?」
「慰謝料だよ」
 ほうそうか、慰謝料か。殊勝な心がけだなと受け取ろうとしたところでナインは手を閉じた。
「お前さ……この金どうやって稼いできた?」
 たった昨日スリをしていた子供が別の手段で金を稼ぐことができるとは思えない。這い上がれとは言ったが、別の誰かから掠め取った金を受け取る気にはさすがになれなかったのだ。
「スリだよ。それしか今はできないもん」
「やっぱそうじゃねえか! いらねえよ、んな金!」
 その言葉は少女にとって想定内だったのか、彼女はにやりと笑った。
「でもスッたのはガルフさんの財布だよ」
「はっ、そりゃあ」
 おもしれえじゃねえか! とナインは吹き出した。
 こいつは面白い。昨日まで金を毟り取られていたゴロツキから、財布を奪ったのだというのなら、本当に面白い。
 昨日のゴロツキはナインが大怪我を負わせた。しばらくはまともな生活を送れないだろうが、いずれはまた元の位置に戻るだろう。そんな相手にスリを働くなんて無謀、度胸と覚悟がなければできないことだ。
「いいね、じゃあもらおうじゃねえか、『慰謝料』ってやつをさ」
「うん」
 ナインは硬貨を受け取り、財布に入れた。これで昨日受けた分は本当にチャラということだ。
 やがてロクロが一人の御者を連れてやってきた。
「出発しよう」
「ああ。じゃあな、アギ。うまくやれよ」
 少女は笑った。
 彼女の『最初の目標』は、上手くいったのだ。

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 羽車に揺られて数刻。
 周りはすっかり明るくなっているが、相変わらず北方の寒さはナインの肌を刺激し続けていた。防風林があるとはいえ海岸沿いを進んでいるので風も強い。一応毛布を肩からかけてはいるが気温は厳しい。クルザス方面のように際限なく雪が降り続けていないことだけが救いだった。
 そもそもきみは外套の下が薄着すぎる、というのはロクロの評価だ。ナインは濃緑色の外套の下は褐色肌を晒していた。豊満な胸には黒い水着のようにも見えるサラシが巻かれているも同然で、これが彼女の生活や戦闘のスタイルに合致した服装なのだから仕方ないとは思っているが、確かにこのような地域に来る場合は相応の服装に着替えている方が良かっただろう。
 ただまあ、北の山々とその森に暮らしていた経験があり、寒さには多少自信があるつもりだった。このように海からの風に晒されるのは自分の経験とは少し違ったが。
 一方のロクロは相変わらずの格好だった。ナインより着込んだ、露出の少ない斥候用のレンジャーコートとはいえ、追加の外套も毛布も必要ないようだった。アウラ・ゼラの多くはオサード小大陸の平原部に暮らす遊牧民が多いとは言われているが、彼女は違うのだろうか。全部が全部平原出身だとは思わないが、寒さに強いという話はあまり聞かない。
 というか、彼女は全く自分の話をしなかった。
 昨夜は酒が入っていたこともあっていくらか自分の過去の話――当たり障りのない部分だけだ――をしたが、逆にロクロが自分の過去や趣味嗜好の話をすることはなかった。徹底して聞き役だった。昨夜は別に気にも留まらなかったが、こうやって考えてみるとやや不思議な話だ。
 信用されていないのか、それとも話せないほどの過去があるのか。一度やり合ったことを思い出せば、これだけの手練れであるのだから何か大きな過去を持っているような気がしてくる。だがどちらでもあるようで、どちらでもない気もした。
 だがまあ、現状旅の道連れで協力者というだけで俺たちは友達ではない……別に強く興味が湧くわけでもなし、このままでも一向に構わなかった。
「この先の予定を聞かせろよ」
 興味があるのはこれからどうやってアウレリアを追うのか、その一点だった。
 キャリッジの進み自体は悪くない。コールドフォートまで乗ったものよりはずっと早い。だが駿馬で駆けているわけではないゆえに、この羽車で昨日夕刻に街を発ったアウレリアに追いつくのは無謀な考えのように思えた。
「まず僕らがこのままアウレリア・ゴー・タキトゥスに追いつくのは不可能だ」
「……は?」
 まるで明日は雨が降るくらいの気軽さで言ってのけるロクロに、ナインは驚いた。
「え、待てよ、お前が何言ってるのかわかんねえ。俺たちはアウレリアに追いつくためにこうやって追いかけてんだよな? その認識が間違ってないってんなら、何のために俺たちはここにいる?」
「まあ最後まで話を聞きなよ。そもそも最初の集落からコールドフォートを超えて、帝国の拠点までの道程。計算してみると、最初に移動手段を用意されていた時点で僕らは追いつくことが不可能だった。僕がきみたち二人を襲撃したのが最初で最後のチャンスだったんだ」
 ナインは文句を言いかけた。
 しかしその機会を潰す原因を作ったのは自分であるということに、本当に直前で思い当たって何も言えなくなった。
 俺がロクロの注意を引かなければ少なくともアウレリアを捕縛することはできていたかもしれない。
 既に済んだこと、ロクロが言及していないためわざわざ謝るようなかったるい真似はしないが、責任の一端は自分にあることは理解していた。
「だけど僕がこうしてキャリッジに乗り込んでいることからわかるように、彼女の追跡を諦めているわけではない。報復代理人はそんなことで諦めはしない。きみも彼女の持ち物に何か関係があって追いかけている。彼女に追いつくのは達成しなければならない目標である」
 そこに異論はなかった。
 必要なのは具体的な手段だ。ナインはアウラが説明するのを待った。
「彼女に会う機会があるとすれば、アウレリアが帝国軍の拠点に到着した辺りになるだろう。いかに差を付けられたとはいえ、帝国の飛空艇なり輸送艇なり飛空戦艦なりが彼女の要望ですぐに動くようには思えない。で、コールドフォートの情報屋と冒険者たちから飛空艇発着の時間間隔を聞き出しておいた。紙にまとめてあるけど、読む?」
「いや、いい。それより先が聞きたい」
 たとえ結果的に追いつけたとして、帝国軍拠点でどうするのか。まさかたった二人で乗り込むわけにはいかないだろう。自分自身が帝国に飼われていた経験から、拠点警備の厳重さは承知しているつもりだ。手練れ二人でなんとかなるものでもない。
「その先は――秘密だ」
「はあー?」
 今度こそ本当に文句の溜め息が出た。
「それはなんだ、俺が知っちまうと台無しになるとか、そういう話か?」
「いや、そんなことはない。別に話してもいいんだけど、ここで話すと反対される恐れがあるからね」
 それほど困難な作戦ということなのだろうか。いまいちロクロの言っている意味を捉えきれず、ナインは首を傾げた。
「つまり、なんだ……追いつく自信はあるってことでいいんだな?」
「うん、間違いないよ。それは保証する」
「ならいい」
 ナインはそれ以上会話を続けなかった。ロクロの腕や追跡術には一定の信頼を置いている。だったらそれ以上言及する必要はない。彼女が話すつもりがないという判断を下したのなら、それでいいだろう。こういったところにも兵士としての慣習が滲み出ているなぁ、とナインはぼんやり自覚した。
 まだ到着まで何時間もあると言う。今のうちに睡眠を取ることにして、ナインは毛布にくるまり横になった。



 ████████████████████████
 ███部隊野営地
 ナイン███████████████
 █████████五十四年霊四月三十日


「ナイン」
「……ああ、スリィか」
 インパヴィダスの野営地。粗末だがそれなりに大きなテントの中でランプの炎が揺らめき、指揮所に入ってきたスリィの背丈の小さい影を布に投影した。
 夏の気温も夜は和らいでいる。

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「遅くまで何をしていたの?」
「いいや、別に何も。次の作戦について考えてただけだ」
 スリィは机を挟んで向かいの木椅子に腰掛けた。古びて傷んだ椅子は、ぎいぎいと不快な音を立てた。
「今日も新人が何人か送られてきただろ」
「ああ、なんだか見かけない顔があると思った……」
 二人――だけでなくインパヴィダスの誰もがそうだが――はなるべく他人の顔を覚えないようにしていた。顔を覚えていなくても番号さえ覚えていれば役割は思い出せる。それでも以前からいる人間たちの顔は覚えている。あの日もそうだ。
 隊長、戦死した囚人たち。目の前で死んだ彼らの顔は、どうやっても忘れられない。
「次の作戦で全員使えってさ」
 インパヴィダスに補充される兵士は全員例外なく死刑囚である。投入する要員はある程度隊長であるナインの裁量に委ねられている部分もあったが、本隊が直々に『使え』というのであれば優先的に死なせたい人間ということを意味していた。
「ねえナイン、あなたはどうしてここに来たの?」
「……聞いたって意味ないだろ、こんな部隊だからよ」
「意味なんかなくたって私は知りたいのよ」
 ナインは作戦資料から顔を上げた。スリィの整った顔は柔らかかったが、目は真剣そのものだった。白くきめ細やかな肌が眩しく思える。
 どうせ任務について考えることは終わっている。なんとなく眠れないからこうやって手慰みに資料を読んでいただけだ。
 であれば、目の前の娘に話をしたっていいはずだ。相手の過去を知るというのが、ここではどれだけ危険なことか、互いにわかっているはずだ。それでも訊ねてくるというのなら、いいだろう。

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「――思えば自分が十五かそこらのガキだった頃だ」
 俺はスカテイ山脈の森林で暮らすヴィナ・ヴィエラの一人だった。集落の構成人数はそこそこで、大きくもなければ小さくもなかった。つまるところ生きていくのに困らないくらいの人数だった。
 ヴィエラの性質は知ってるか? 俺たちは十三とか十五になるまで性別が判明しない。それまでは男でも女でもねえ。俺には姉が一人いた。俺より二つくらい年上で、親は幼い頃に死んだから、二人とも親に関する記憶はない。
 だから親類に面倒を見られちゃいたが、俺たち二人は支え合って生きてきた。二人とも欠けちゃならないピースだった。
 それで、あー、うーん……なんていうか、俺は姉のことが好きだった。
 親類の情じゃなくてだな……まあ恋とか愛とかそういうことだよ。俺は姉のことを心底愛していた。
 だからある時から俺は『男のヴィエラ』になりたかったんだ。ああ、集落には女しかいねえんだよ。男は森に出て、集落に近寄る脅威を排除するために戦う狩人になる。俺も、そうなりたかった。
 でまあ、物の勢いで一度盛大に告白をしたことがあってだな……いや笑うな、笑うんじゃねえ! ぶっ殺すぞ!
 ……姉に告白したはいいものの、俺は女になっちまったわけだ。
 なんというか恥ずかしさで村にいられなくなってよ。ちょうどその時期に男衆が村に寄ってたことがあってだな。親族のやつに頼み込んだんだ。俺を外に連れてってくれってな。
 いやぁ今考えりゃ無茶な願いを言ったもんだとは思うけどな、そいつがまあ奇特かつ優しいやつで、弟子として外に連れて行ってくれたんだよ。そこで森での生き方や獲物の取り方、密猟者の殺し方なんかを学ばせてもらいながら、学びのために遠出の旅をしてたんだな。俺もそろそろ独り立ちでもするかなって思ってた辺りで、帝国軍と出会っちまったんだ。
 その時はなんとか逃げおおせたんだけどな、師匠とはぐれちまった。何が目的だったのかわからねえけど、帝国軍がうろついてた地域に戻るわけにもいかねえし、そのまま独立することにした。
 でまあ、俺はもともと里の脅威を排除しながら生きていたかったわけだ。強力無比な軍隊と機械を操るガレマール帝国は、どう見てもその『脅威』に当て嵌まった。
 だから俺はダルマスカ辺りまで出ていった。その頃はちょうどバルハイムの反乱の頃でな、レジスタンスの連中にも勢いがあった。俺みたいな傭兵は歓迎されたから、そこでそれなりに手柄を立てて戦ってたんだよ。対帝国との戦い方や、人間同士で殺し合った場合にどうすれば効率的にぶっ殺せるかとか、その辺は傭兵時代に学んだ。
 だけどあれだ、何事もやりすぎは良くねえんだよな。
 俺は殺しすぎた。
 帝国兵を殺して殺して殺しまくった。魔導アーマーも機械もぶっ壊しまくった。そうすればスカテイ山脈まで手を伸ばす帝国がいなくなると信じて疑わなかったんだ。
 あまりにもぶっ殺しすぎたもんだから『首刈り兎(ヴォーパルバニー)』なんて物騒なあだ名まで敵味方から付けられちまってさぁ。
 バルハイムの反乱の顛末はガレアンなら知ってるだろ?
 一時は勢いがあって良かったんだがよ、漆黒の王狼の統括する第XIV軍団にまで出てこられちゃたまらなかった。徹底的な反逆者狩りに遭ってさ、その影響で俺も死にはしなかったが捕まっちまった。
 で、だ。
 俺は帝国軍からは自軍の兵を殺しまくった『優秀な兵士』と見られてたわけだが、真実は傭兵だということも判明した。正規軍でもないしレジスタンスでもないから、捕虜ではなく、つまり人権もない。だから即刻処刑でも問題はなかったわけだが、この兵士を腐らせるのももったいねえと思ったんだろうな。あとまあ、ダルマスカに関係のあった人間だったら、俺みたいな名の知れた傭兵を飼いならした時に得られる心理作用も有効だと思ったとか、そんなこったろう。
「こうして懲罰部隊にぶち込まれて首輪まで付けられ、かつての敵の言うままに人間を殺して回ってるってわけだ」
 こともなげにナインは言い切った。かつての敵方の内部で戦わされているというのに、本当に、こともなげに、言ったのだ。
 スリィは言葉が出なかった。
「んな顔で見んなよ。恥ずかしくなるだろうが」
「で、でも、だって……」
 ――彼女はガレアンだった。それも純粋なガレアン族であり、父と母は政治の名家出身であった。
 年若いため、いまだに第三の眼と言われる器官は額にないものの、いずれは現れるだろう。
 スリィの父母はガレマール帝国に厚い忠誠を誓っていた。熱心な政治家であり、父は優れた元軍人でもあった。一家は帝都ガレマルドで生活し、父も母も元老院に足を運ぶ毎日だった。
 それでいてスリィは両親に愛を注がれていた。彼女自身が自覚があったほどには、だ。両親ともに多忙ではあったものの、スリィ自身に孤独感は皆無だった。たとえどれだけ少なくとも両親は自分と過ごす時間を作ってくれた。だから娘は父母を愛し、父母は娘を愛していた。家には確かな幸福があったのだ。
 その時間が続いてくれればどれだけよかったことか。
 スリィはそう思わずにはいられない。
 父母が処刑された今ではそう考えてしまう。
 魔導院で教官らに呼び出され、両親の逮捕が伝えられた時には何かの間違いだと思った。
 国家反逆罪と聞いたが、スリィには信じられなかった。スリィの一家は、一族は、代々帝国への忠誠を誓っていた。そんな二人が国家に反逆などしようはずもない。ありえない話だった。
 政敵に仕組まれたとしか思えなかった。父母の仕事の詳細については自分から訊ねたことはない。ただ、士官学校でも政治に関する噂は耳に入ってくる。成長すればするほど、噂話を理解できるようになっていったのだ。
 程なくしてスリィも逮捕される運びとなった。父母が共に国家への反逆を企てていたとなれば、娘も同様と考えるのも無理はなかった。一家にそれ以外の親類はいなかった。今思えば、政治闘争に敗れた結果『いなくなった』のかもしれない。
 しかし彼女は未成年であった。重大な犯罪者の親族とはいえ、無闇に処刑されるのは憚られたのだろう。スリィは懲罰部隊への所属を命じられた。表向きは帝国軍への所属ではあるが、インパヴィダスで彼女を使い潰して死なせてしまおうというのが上の判断だった。
 ナインとスリィは正反対だった。
 二人ともそれ以外の選択肢はないという点で共通はしていたが、ナインには忠誠心というものが存在しない。それはそうだろう、かつての敵の元で働かされているのだから。
 一方でスリィはいまだに『帝国への忠誠心』を失ってはいなかった。政敵に敗れ一家の名誉は失われた。それは真に無念極まりない事態ではあったが、帝国を恨む気持ちは一片たりとも存在しなかった。ただ、スリィは一つの義務を感じていた。自分が懲罰部隊から抜け出し、一家の名誉を回復しなければならない。そのために彼女は生き残らなければならなかった。
 そう考えると『選択肢がなかった』という点以外にも、二人に共通点があるようにも思えた。
「はっ! 人間にはそれぞれ人生があるもんだな」
 彼女は言葉ほど面白みを感じているようではなかった。
 実につまらなそうに目を逸らしていた。二人はそれぞれの過去を互いに明かしたが、それで何かが変わるわけではなかった。
 ――こいつも俺も、いずれは死ぬ。相手の素性を知れば知るほど失った時の虚無は大きくなる。インパヴィダスの全員が理解している事実だった。
 それでも、スリィは言葉を続けた。
「ねえ、ナイン。私に戦術立案を任せてくれない?」
「……どういう魂胆だ?」
 スリィは士官学校において優秀な成績を修めていた。特に戦術立案と指揮には自信があった。古い文献から最新の論文まで読み漁り、ノートにまとめていた毎日が思い出される。一家の名誉と父母のために彼女は人一倍努力をしていた。順調に課程を進んでいれば主席卒業も決して夢ではなかっただろう。
「ガッコウでやんのと実際の戦場は違う。お前も何度か出てるからわかってんだろ」
「うん、それでも。それでも私にやらせてほしいんだ」
 その目はナインを捉えていた。
 おそろしいほど真剣で、おそろしいほどまっすぐで、おそろしいほど澄んだ瞳だった。
 彼女の目から視線を外すことができないまま、ナインは息を吐いた。
「わかった。隊長がお前となるとめんどくせえこと言い出すやつもいるだろうが、そこは俺がなんとか――」
「いえ、隊長はあなたのままがいいわ、ナイン。私が考え、あなたが動かす。それがこの部隊にとって一番いい選択よ」
「あ? なんだそりゃ。小難しいことはよくわかんねえけど、隊長が直接指揮取った方が伝達もはええだろ?」
「いいえ。私が隊長を名乗るのは士気に関わる。いい、ナイン? 情報伝達の速度は綿密な打ち合わせなどの工夫次第でなんとかなる。でも士気はそうじゃない。純粋なガレアン族で未成年の私が指揮を取っても、隊員は心の中では絶対に承服しない。全員がガレアンの兵士ならまだあり得る方でしょうけれど、ここは懲罰部隊。元兵士もいれば犯罪者もいる、あなたのように敵対国の捕虜や属州の反逆者だっている。私がトップになったとして、彼らが真に納得すると思う?」
「……そりゃ一理ありそうな話だがよ、俺みたいな『元敵』が隊長やってんのもガレアンの元兵士連中には信用がおけねえんじゃねえのかよ」
「そうね、それはあると思う。細かいところは完全に制御しきれないでしょうね。でも、あなたは一番の『古株』なの。この前の戦いで隊長が死んで、みんなが死んで、あなたが一番古い人間になった。誰もがあなたの顔を知っている。どれだけ強いかを知っている。敵から逃げずに、一番に飛び込んでいくのを知っている。その点においてはみんなあなたを信用しているはずよ。だから私よりもあなたの方が信用がおける。隊長は、あなたが相応しい」
 士気は最も重要なファクターでありながら、最も制御が難しい。スリィは切々とそれを説いた。
「ッハ! おもしれえこと言うじゃん。褒めるでもなく、淡々と事実だけを言うなんてよ」
「その方が好きでしょ、ナインは」
 ナインは口を開いて笑った。
「まあな。じゃ、よろしく頼むぜ、軍師サマよ」
「ええ、よろしく」
 二人は固く握手した。
 存外悪くない。彼女の手から体温を感じ、ナインはそう思った。



7.


 ナインが起きる頃には目的地に到着していたようだった。
 太陽はほとんど沈みかけている。寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、街道の途中のようだった。人気はなく、羽車は自分たちの一台だけだった。
 ロクロが御者に残りの金を払っている。どこかの集落に到着したわけでもなさそうだし、帝国軍の拠点が周囲にあるわけでもない。周りにはただ鬱蒼とした木々が茂っているだけで、本当に『道の途中』という表現が相応しい場所だった。空気は少し肌寒いが、コールドフォートの近くほど冷え切っているわけでもない。海が近くないのだろうか。そう思って見渡してみると、空を覆うように巨大な影がそびえているのがわかった。どうやらこの辺りは背の高い山に囲まれているようだ。
 ロクロは既に荷物――と言ってもほとんどないに等しいが――を降ろしている。ナインも彼女に倣い、自分の体と一緒に荷物を降ろした。
「そんじゃあ次もどうぞご利用ください」
 御者はそう言って手綱を揺らした。反応したチョコボがすぐに羽車を引き始めた。広がりゆく夜闇の中にランプを揺らしながら消えていく。
「どこだ、ここ」
 ナインの質問にロクロは答えなかった。彼女は荷物を背負い、街道のそばに広がっている林の中に入っていく。ナインも慌てて彼女を追った。
 雑木林の中は当然ながら人が歩くような道は整備されていなかった。いや、暗闇の中よく目を凝らして見ると、踏み固められて雑草が他よりは茂っていない道がある。ほとんど獣道といった風だが、歩けないことはない。ロクロは山道に慣れているのかひょいひょいと降りていく。夜闇に目が慣れてきて見渡せるようになったが、どうやらずっと下まで長く続く斜面のようだった。落ち葉で滑り落ちないように気をつけて下る。ナインも山道を歩くことには慣れていた。少しだけ久しぶりの感覚ではあったが。
 ふと、ロクロが足を止めた。後ろのナインはここが追いつくチャンスと思い、彼女の背後に近づく。
「ナイン、耳を澄ませてみて」
「あ?」
 灰色の毛に覆われた長い耳に集中する。
 遠くからごうんごうんという音が聴こえる、ような。
 いや、この聴き慣れた駆動音は――。
「軍用飛空艇か」
 その轟音はこちらの方に近づいてきた。二人が微動だにせずその場で待機する。木々の中に隠れているので可能性は低いだろうが、万が一に備える必要はある。ナインの握った拳に汗が滲んだ。
 夜の帳を切り裂いて、飛空艇の放つ放射光が雑木林の一部を照らしながら頭上を通過していく。特に怪しい動きも見せず、そのまま通り過ぎていった。

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「……今のは?」
 駆動音が遠くになってからナインは訊ねた。
「ここから数百ヤルム先に帝国軍の飛空艇発着場があるんだ」
 ロクロは短く説明した。ナインにとってはそれで十分の情報が伝わった。二人は黙して進行を再開した。雑木林の斜面を下っていく。
 つまるところ、ロクロが最初に説明した地点に俺たちは辿り着いたわけだ。半分以上寝てたから、周囲の状況なんざわかんねえが。
 斜面を下るにつれて、音が聴こえることに気がついた。水の流れる音――最初は斜面を流れる小さな川でもあるのかと思ったが、そうではない。だんだんと音は大きくなっていく。やがて自分の足音よりも大きくなった。
 河だ。
 斜面の先には河が広がっている。下るにつれて木々の合間から先の光景が見えるようになってきた。月明かりを川面が反射して煌めいている様子が見えてきた。
 林を抜けると少しばかり平坦な河岸が広がっているのがわかった。近くには小さな小屋があり、いくつかの小舟が縄で位置を固定されている。この辺りで漁をしている人間が存在するらしいということが推察された。
 砂利道を歩くと石と砂がぶつかる小気味いい音が耳に届く。
「で、こっからどうすんだ?」
 ロクロの方はというと、迷いなく小屋に向かって進んでいく。ナインはついていくしかない。
「まず前提を確認する。僕らには連中の目的がわからない、そうだな?」
「ああ」
「だがアウレリアが飛空艇を使って移動するのはわかっている。乗る予定の時刻も既に情報屋から入手済みだ。だけど発着場に堂々と入っていくわけにもいかない。こっそり潜入するのも、今のところは現実的な選択肢じゃない」ロクロは振り向きもせず歩いた。「だからといって飛空艇を雇って追いかけるのはリスクが高すぎる。帝国が制空権を握っている領域を飛ぶのも危険だし、アウレリアの目的地までははっきりとしていないから、燃料の補給が安定しない」
「だからってどうしてこんな河に……」
「アウレリア・ゴー・タキトゥスがギラバニアを超えて飛ぶには山を超えなければならない。しかしこの辺りの山は背が高すぎる。単純に飛行に向いた高度ではなくなるんだ」
 確かに。斜面を下る前に周囲を見た時、空を覆わんばかりに高い山がそびえているのが見えていた。だとしたらなぜこんな場所に飛空艇の発着場なんて作ったんだ、という疑問がナインの頭に浮かぶ。
「対してこの谷間はどうだ?」
 ナインは河の先を見る。谷は山々に囲われてはいるものの、先の方は広い空が広がっている。
「……確かに開けてはいるな」
「だからここは軍用飛空艇の通過地点なんだ。さっき見たからわかると思うけれど」
「ああ。飛空艇が通るのはわかった。だけどここで降りたりするわけじゃねえだろ?」
 追いかけるにしろ飛空艇に乗り込んでことを進めるにしろ、不適切に思えてならない。
「そう、『乗り込む手段』が必要だよね」
「――待て。それ以上言うな。急激に嫌な予感がしてきた」
 ロクロは『手段』に強いアクセントを置いて言ったのだ。彼女がこれから何を言うのか見当もつかなかったが、ナインの戦士としての直感が背筋をぞわぞわさせていた。
「まあ見たまえよ。そら」
 アウラ女は小舟の一つに近づいた。その小舟にだけ布がかけてあるのがわかる。ナインの嫌な予感は猛烈に膨れ上がっていった。
 細い指で布の端を掴むと、ロクロは一気にそれを引き剥がした。
 ――そこには短艇が浮かんでいた。黒く塗られたそれは、四人ほどが乗れる大きさの小舟ではあったが、明らかに周囲の小舟とは趣が違った。周囲は木造の小舟だったが、それは明らかに特殊な鋼板が随所に見られ、船尾には小型の機械が乗せられていたのである。
「魔導高速水上短艇……」
 船尾に据え付けられた青燐機関で強力な推進力を得て水上を移動するものだ。船首にも何らかの装置が乗せられているが、そちらについては見覚えがない。ナインは軍人時代に何度か世話になったことがある。海や川において兵士を輸送するのに使うものだ。
 どこからかっぱらってきやがった、とナインは呆れながら呟いた。
「ナインにはこれを操縦してもらう」
「は?」
「できるだろう?」
「そりゃできるけどよ……こんなもん使って何するつもりなんだ」
 既に元ガレマール帝国の兵士であったことは伝えてある。だからロクロは俺に操縦を任せると言っているのだろうが……目の前のアウラが何を企んでいるのか、彼女にはまだわからなかった。
「船首に置いてあるものが見えるかい?」
「バリスタみたいに見えるが」
「正解。あれはバリスタだ。ただし縄付きのハープーンを発射できるように改造してある」
「おい、ちょっと待てよ。もしかして――」
「ナインがボートを操縦し、ここを通る飛空艇を追いかける。そしていい感じのところで僕がハープーンを飛空艇に打ち込む。そしたらロープを登って飛空艇に乗り込むぞ」
「馬鹿か!? お前……最悪のクソ馬鹿なのか!?」
 もっと何か言ってやりたかったのだが、言葉が浮かばなかった。ナインは人生で初めて自分の脳を憎らしく思った。
「いくつかプランがあったけれど、これが一番早い。『勝敗は早さと速さが別つ』とアラミゴの猛牛も言ってたぞ」
「早さ以外にも重視すべきものがあると思うんだけどなぁ!?」
 ロクロはさっさと短艇に乗り込んでしまった。彼女は赤い目でこちらを見ている。まるで『時間がないんだぞ』と訴えかけているかのように。
 ええい、ままよ。
 ナインは嘆息を隠そうともせずに吐き、短艇に乗り込んだ。彼女のために空けられていたのは船尾の方だ。後部に据え付けられた魔導機関を操作して速度と方向を制御するのである。確かに元帝国軍の自分にしかできない仕事ではあるだろう。だが、ロクロは? 彼女は何を――ハープーンを打ち込むというイカれた行為以外の何を――するつもりなのだろうか?
 水面は穏やかだったが、小舟の上はやはり不思議な感覚であった。ナインはその生まれからあまり海や川といったものに親しみを感じていない。
 ロクロは縄を外して短艇を自由にした。どうやら本気のようだ。やるしかないらしい。
 青燐機関から伸びたワイヤーを引っ張って、ナインは機械を始動させた。
 どるる、となんとも言えない不思議で細かな振動が短艇全体に伝わる。岸から離れるのを待ち、徐々に速度を上げた。
 最初は水面をゆっくりと、そして少しずつ速く滑っていく。谷を流れる河ということもあって風が強く吹き付けてくる。短艇はどんどん加速していった。

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「このまま下ればいいんだよな?」
「そうだ、走り続けてくれ」
 青燐機関の音と風を切る音で声は明瞭ではなかった。ロクロ自身も声量を絞っているようだ。つまり、声をあげない方がいい場所ということ。
 当然といえば当然か。ここが飛空艇の通過地点であるというならば、帝国軍の歩哨や監視所が設置されていたとしても不思議ではない。ロクロは長弓ではなく短弓を取り出している。大きめな竪琴のような大きさと見た目だ。小舟の上ではそちらの方が取り回しがしやすいのだろう。
 河の先の方に灯りが動いているのが見えた。二つの光が河辺を移動している――おそらく歩哨が立っているのだ。
 ロクロが矢をつがえたのが見えた。次の瞬間には闇夜を切り裂いて矢が飛んでいった。その軌道は見えない。夜戦に備えてか、矢が黒く塗られているのだ。
「速度そのまま」
「了解」
 通り過ぎていく視界の端で灯りが地面に落ちているのが見えた。
 ――次に見えた灯りも倒れていく。ロクロは弓の弦を引き、矢を放つ。こちらは高速で移動しながらだというのに、河辺の歩哨たちは矢を受けて次々に倒れていく。二人、四人、六人……もう数えていられない。彼らのほとんどはこちらの短艇の音を聴いているはずだ。青燐機関は轟音を谷底に響かせながら走っていくのだから、気づかないはずがない。それでも彼女は正確に素早く矢を命中させていくのだ。
 とはいえそろそろ異変が伝わってもおかしくはないはずだが……。
「……ロクロ!?」
「…………」
 ナインの逼迫した声に彼女は答えない。
 河の先に巨大な壁が見えてきていた。河の流水を調節する水門のような施設がそこに建っているのだ。ナインは思わず速度を緩めようと手をかける。
「下げるな!」
 気配を感じたロクロが声をあげた。こちらを見ずに前だけを見つめている。その手には短弓が握られ、弦は引き絞られていた。
 ナインは舌打ちした。どうなっても知らねえからな!
 高速で水面を滑り、風を切り裂き短艇は進んでいく。だんだんと施設が大きくなってきた。木でこしらえられた古い監視所のようだ。元は帝国の施設ではなく、地元の施設を接収して利用しているのだ。
 監視所に据え付けられた照明が河辺をせわしなく照らし始めた。こちらの音に気づいて源を探しているのだろう。
 やがて一筋の光が二人を捉えた。強い光にナインは目を細めるが、完全に瞼を下ろしはしない。
 ロクロが矢を放った。
 三秒後、監視所は橙色の光に包まれた。
 検問のために降ろされた木造の仕切りが爆発で吹き飛び、木屑が河に降り注ぐ。二人の乗った短艇にもたっぷりと降り、ナインとロクロの肌に木片が打ち付けた。探照灯の光は既に二人を見失っている。ナインは最大速度で短艇を走らせた。
 破砕された門を短艇は一瞬で駆け抜けた。
 わずかに残った門の残骸に船底が衝突し、短艇が宙に飛び出る。
 風を切り、水飛沫を上げながら船は空中を滑る。
 ロクロが弓の弦を引き絞り、幾筋もの矢が飛び出していく。空中のボートから発射された矢は哨戒中だった兵士たちに降り注ぎ、何人もの男たちが倒れていった。
 空中浮遊を続けていた短艇は再び着水。船体が大きく揺れ、河の水が内部に入り込んだ。
 背後で監視所が炎上しているのがわかった。闇夜の一部を切り取るかのように橙色の炎が燃え盛っているのだ。二人の顔を炎が照らしていたが、短艇の速度はその橙色を振り払うように進み、やがて背景の一つとなった。

画像6

 ……矢に爆発物を仕込んでやがったのか。
 監視所の存在もロクロは知っていたのだろう。だからあらかじめ爆薬を用意して特殊な矢を作っていた。食えない野郎だ。
「さあ、ここからが本番だぞ」
「は?」
 アウラの意図がわからずに聞き返そうとしたナインの耳に、音が聴こえ始めた。疑問を心の片隅に置いて耳を澄ませる。
 最初は自分たちの青燐機関の音だと思った。
 だが、そうではない。
 河の遠くから音が響いてくる――それも複数だ。
 ナインは後ろを振り返った。灯りを乗せた短艇がこちらに近づいてくるではないか。灯りは三つある!
「追っ手か!」
 監視所に配備されていた高速短艇でこちらを追ってきたのだ。乗り込んだ帝国兵は黒い鎧を着込み、風を切り裂きながらこちらに近づいてくる。こちらの短艇より幾分新しい船のようで、速度が上らしい。
 風を切り裂く音が船のすぐ近くを掠めた。
 弾丸!
 後方の兵士が短艇の上から長銃でこちらを狙っているのだ。
 ナインは短艇の舳先を微かに横にずらした。敵にとって狙いにくい軌道を描かなければならない。ロクロはそれについて文句の声をあげなかった。こうして回避行動を取るのも織り込み済みということか。
 彼女は静かに矢を放った。左手後方に迫っていた。短艇が急激に速度を落として背景の闇に紛れていく。操縦手を殺ったようだ。
 再び弾丸が船体を掠める。弾丸の軌道修正がなされるタイミングをほとんど勘で読んで、次は右に切った。甲高い風切り音が左手で聴こえる。
 右手から短艇が迫る。
 兵士二人と目が合った。舳先に乗った一人はガンブレードを構えている。弾丸の発射体勢ではなく、こちらにぶつけて直接やり合うつもりらしい。
 やがて彼らの船体と衝突し、互いの船が大きく揺れる。河の水が跳ねて体や顔にかかった。一度離れたが、彼らは再び接近してくる。二人ともがこちらを見ている。
 ナインは思い切り舵を右に切った。相手が衝突してくる前にこちらからぶつけてやる。相手は体勢を崩してはいるが、転覆まではいかない。再びこちらを見て最接近してこようとしている。
「はっ、バーカ!」
 ナインは中指を立てた。
 敵の船が急に消えた。ややあって小さな爆発音が後方で聴こえる。
 彼らはこちらに集中しすぎて、川面から飛び出た岩に気づいていなかったのだ。ナインは先に敵の船にぶつけることにより敵船の軌道を修正して撃破せしめた。
 新しく追いついてきた一隻が接近。こちらも長銃を構えた兵士と操縦手の二人組だ。兜に阻まれて表情は見えないが、こちらを仕留めようと焦っているのがわかった。
 速度を上げてこちらと軸を合わせてくる。
 ロクロは別の短艇に向かって矢を射掛けている。こちらは自分が対処すべきだ。
 ナインは短艇の中の荷物に目をやる。自分が持ち込んだ剣が目に入った。彼女はそれを掴み、高速移動中のボートを睨んだ。
 長銃のトリガーが引かれ、銃弾が接近。ナインが右手で構えた直剣の腹に命中し、火花を散らして跳弾した弾丸は夜闇の中に消えていく。
 敵が次弾の発射体勢を整えようとしているが、彼女はそれを許さない。
 ほんの一瞬だけ青燐機関から手を放し――渾身の力で剣を投擲した。
 空中で縦回転しながら剣が飛ぶ。ナインは再び船を加速させた。
 銀の煌めきは水上を滑るように走り、敵短艇の青燐機関に突き刺さった。
 河を滑りながらボートが爆発の青い炎を上げる。速度を失った敵の短艇は背景の闇の中へと消えていった。
「よくやった」
 ロクロの声が聞こえた。気づけば後方の一隻の気配がなくなっている。
 弾丸の風切り音もない。ナインが右手の船を相手している間に仕留めたのだろう。
 ようやく一息つけるかと思った矢先、空からごうんごうんという音が近づいてきた。
 輸送用の飛空艇だ!
 手が届きそうとまでは言わないが、かなり低空を飛んでいる。一隻、二隻、三隻、と鋼鉄の船が頭上を通過していく。船団を組んで飛行している。こちらは高速短艇といえど、飛空艇の速度には全く敵わない。
「速度、姿勢、そのまま!」
「了解!」
 視界の先には――空があった。その手前では水が白みを帯びており、流れが盛り上がっている。滝が落ちているのだ。成程、ここを通れば確かに海の方へと飛んでいけるだろう。輸送船の経路に納得したが、焦らずにはいられなかった。このままでは十数秒後には滝下りをすることになる。どれだけの高さがあるかはわからないが、先に続く河は全く見えないため相当な高所だということはわかる。
「そのまま!」
 滝に向かっているが、足を緩めることは許されない。彼女はまるで悪魔のようだ。
 ロクロがバリスタを構えている。縄の付いたハープーンが装填されたそれを空中に向ける。
 最後の一隻と見られる船が頭上を通過した。後に続く者はいない。これが正真正銘の最後だった。
 ――バリスタは頭上には向けられない。ロクロは目を細めて拳に力を込めた。射角に入るタイミングは、滝を抜けた直後だ。
 背後のナインの視線を浴びながらロクロは深呼吸をした。さすがに汗が流れる。このまま水上を進めば壮大な自殺行為になってしまう。一つのミスも許されなかった。
 輸送艇が滝を超えた。先行した船を追って加速を開始する。船体に青い光が走り、本格的に青燐機関に火が入るのが見える。その全てがロクロの視界内で鈍化していくようだった。
 ――今だ!
 彼女はトリガーを引いた。
 どん、という独特な衝撃が手を伝って体を震わせる。
 黒き鋼鉄の魚の尻尾に向かって銛が飛んでいく。それはやがて魚の尾びれを捉えた。鋼鉄の鱗を食い破り、銛はしっかりと突き刺さっていた。
 小舟の上に巻いてあった縄がものすごい勢いで伸びていく。ほんの数秒でほとんど縄が空中に踊った。
「行くぞ!」
 まだ残っていたとぐろの先をナインに渡す。自分も縄を掴んだ。
 彼女たちは短艇の上で立ち上がった。
 とぐろはどんどん短くなっていく。
 そして。
 二人は空を飛んだのだ。

続く。


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