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父が郷里から持ち帰った水仙が通りを埋め尽くすと春


父は6人きょうだいの5番目で、中卒の春に集団就職で雪深い越前から東京に出てきた。
不遇もありながら幾つか目の住み込み仕事で塗料販売店の丁稚に落ち着いた。
かつて新原町田駅と呼ばれていた小田急線の駅の第二踏切近くにあった店だった。
売上を預金に行くたびやりとりをしていた窓口の女性に程なく惚れたらしい(惚れっぽいのは親譲りか!)。
で、それが俺の母になった。

俺が中学生の頃、父が郷里から持ち帰ってきた水仙のいくつかの球根を我が家の目の前に植えた。
はじめは、じぶんちの庭じゃないわけだし、何をするんだろと怪訝な気持ちになった。
水仙は持ち前の繁殖力と父の愛を大いに受けて、あれよあれよと沿道に広がった。
やがて町谷原のバス停から町谷原交差点まで、町田街道のそのエリアだけは毎年早春には水仙まつりになった。

父はとにかくよく世話をしていた。
どうやらせっせと球根を増やしては植え広げていたのだった(水仙は3年くらいで掘り起こして球根を植え直すと咲きが良いらしい)。
それが行政の決まり的に良いことなのかどうかということは横に置いておいて、子どもながらに父のしていることがなんだかやがて面白く、そして誇らしくさえ、思うようになった。

昨年の9月。
まだ残暑が酷しい日に、父は夢中になって球根を植え続け熱射病の寸前になっていた。
「でもまぁこれでいい花がまた咲く」と言っていたが、自分が倒れて花見れなかったらどーすんの花も喜ばないでしょう!と俺は言った。言いながらも、なんだか、嬉しかった。

それが。
ようやく咲き出した今年の水仙の多くが、先日の関東のどか雪で、折れた。
それでも地面に顔をつけながらも健気に咲き続け芳香を放つ水仙たちに、今回の帰省でバス停から降りた瞬間に俺は、胸がいっぱいになってしまった(←ここまた泣くところね^_^)。

神戸に戻る今日になってようやく水仙の世話ができる時間が取れた。
たくさんの花にありがとうがんばったねありがとうと心を込めて摘んだ(←少女か!でもほんとなんだもん)。
泥だらけになりながらも花はほほえんでいた。少なくとも俺はぜったいそう感じた。

花を飾るのが好きだった母が遺してくれた花瓶が、ちょうどの具合だった。

父の過ごすダイニングに、春のにおいが 広がった。

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